第3話
職場を駆け出したが気持ちは沈んでいた。頭の整理が付かぬまま、電車に乗る。とにかく休みたかった。ラッシュ時間を過ぎた電車は空席も目立ち、朝とは違っていた。こんな時間には乗らないので、初めて見た光景だ。私は広く空いた座席に座り込み、目を閉じた。
先程の諍いは心にダメージを負った。あの二人とウマが合わないのはハナから承知していたが、ああも面と向かって言われると、精神的に辛い。私の言う事はそんなに「わからない」のだろうか……
しかし、そんなものは主観でしかない。そもそも私を理解する気がなければ、「わかる」事なんて不可能なんじゃないか。逆を言えば私も同様で、あの二人に共感出来ていない以上、分かり合う事は難しい。こんな状態で明日、出勤出来る気がしない。
電車を降り、改札を出て、初夏の日差しに晒されるも、暗い気分が晴れない。汗を掻きながら歩き、自宅に辿り着いた。鍵を開けて中に入ると、玄関に悟の靴があった。
「お、いたのか?」
居間で悟が学生服のまま寝転んでいた。本来なら授業中の筈で早退して来たに違いない。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
尋ねるが、悟は首を振るだけで答えない。いつもならこの態度にカッとなるところだが、今は私自身にも引け目があり、多少寛容な気持ちを持つ事が出来た。
「なあ、悟、何かあったのか?」
「父さんはどうしたのさ? こんなに早く帰って来て……」
逆質問を受け、思わず苦笑した。互いに似た状況のせいか、素直に言える気がした。
「父さん、失敗しちゃってなあ。いるにいられず逃げて来てしまったよ」
頭を掻きながら正直に言うと、
「そんな事で大丈夫なん? クビとか……」
悟の方が心配そうな顔をした。
「いきなりクビはないだろうが、明日は行きたくないなあ……」
私がそう言うと、悟は黙った。自分の事を話す気はないようだ。無理強いして聞くつもりもなく、しばらく沈黙が流れたが、
「なあ、何か美味しいものでも食べに行くか」
と誘うと、悟は頷いた。駅前のラーメン屋にでも行こうと支度を始めると、玄関の方で物音がした。何かと思い、見に行くと、美紀が鍵を開けて邸内に入って来ていた。
「あれ? どうしたの?」
「いや、それはこっちのセリフなんだが……」
美紀は私がこんな時間に帰っている事に驚いたようだが、私も同じ理由で驚いた。
「私は……学校から連絡があったから……」
「そうか」
「一先ず居間で話そう。悟もいるんでしょ?」
私は頷く。ラーメンは取り消しとなり、居間で三人、テーブルを囲んで座った。しかし、いざ向き合うと、誰も口火を切らない。
「ぶっ……」
この沈黙が何だかおかしくなって、私は吹き出した。すると二人もそれに釣られて笑う。笑いが一段落したところで私が口を開いた。
「誰も話したくないなら、それでいいんじゃないか。わからなくていい事だってある」
「そうね。無理に聞かなくてもいいかな」
「俺、思ったんだ。昨夜は言い争っちゃったけど、やはり美紀の言う通り、楽しいのが家族の根本なんだって。俺達、何の為に一緒に暮らしてるのかって思うと、辛く面白くない気分でいちゃいけないって……。だから、今日だって皆に何があろうと、家の中くらいは楽しくあるべきなんじゃないかな」
私の言葉に美紀が頷く。悟も軽く首を縦に振っていた。
「私も昨日の事が気に掛かって、よく眠れなかったし、今日も仕事に手が付かなかったの。で、悟が帰ったって連絡があったから、早退してきたの」
「そうだったのか。俺は……」
言い掛けたが、美紀は首を振る。
「無理に言わなくていいよ。仕事で何かあったんでしょ? もし、どうしても合わないんだったら転職したっていいんだからね」
「えっ?」
「最近仕事が辛そうだったから……。分かって上げられなくてゴメンね」
「いや、俺も家では苛立ってばかりでゴメン」
お互い頭を下げ合うと、何だかスッキリした。そして、美紀が転職という言葉を口にしてくれた事で少しラクになった気がする。
「悟もさ、学校や勉強がイヤだったら、無理に行かなくていいのかなって。義務教育くらいはちゃんとして欲しいけど」
「そう……だな。俺も悟がちゃんと自分のしたい事を考えて、その為に行動するんだったら何でもいいって思うよ」
「ホント?」
悟が目を輝かす。
「もうむやみに勉強しろとは言わないよ。ただ、高校入るにはやはりそれなりに勉強が必要だし、自分でよく考えて決めるんだ」
「うん」
頷く悟。私の話を理解しているのだろうか。いや、今はわかっていなくても構わない。彼だって自分の将来まではワカンナイのだ。だから、目先の勉強を「何故やるのか」と憤り、わからないと吠える。いくら親でも、子供の行く末や心の中まではわからないんだし、告げるべき事を告げ、本人の判断に委ねれば良い。そんな心境になっていた。
「そしたら、皆でランチでも行くか」
「いいわね。気分転換に行きましょ」
美紀が悟を促して立たせる。悟も心なしか楽しそうだ。私も自然に口元が綻ぶ。久しぶりに家族が笑顔になった気がする。職場での出来事はともかく、家庭で大らかな心持になれた事は収穫だった。災い転じて福となすの言葉通りで、悪夢のような諍いから、家庭の円満を取り戻す事が出来たのではないか。
「行く前にちょっとトイレ」
二人を待たせ、小便をする。今朝からの緊張感が滝のように流れ出て行くと、落ち着いたせいか、頭に様々な思考が流れ込んでくる。
私達は何の為に生きるのか、正直よくわからない。ただ、それでも家庭はあるし、美紀がいて、悟がいて、私がいる。だから、わからなくても歩んで行くしかない。プラス思考をすれば、人生はわからないから面白いのだろう。結果がわかっていたら、きっと面白くない。見えない未来に明るい結果が待っていると信じて、皆生きているんじゃないか。
ただ、わからないからこそ楽しいというのは若い者の発想だと思う。老い先短くなると、見えない未来は不安でしかないのも事実である。私自身、心身共に衰えている感覚があり、体の調子が悪いと心にまで響いてくる。その逆もまた然りだから、職場で不安な気持ちに陥った時、動悸がしたり気持ち悪くなったりしたのだと思う。
その仕事にしても、美紀は「転職すればいい」と言ってくれたが、現状の生活を守る為には容易に出来ないだろう。思いや気持ちだけで簡単に済む話ではない。
そう思うと、どうしたら良いのか、やはりわからない。皆、こんな不安を抱えて年を重ねているのだろうか。まだ健在な祖父母や両親が凄い人のように思えてくる。彼らは押し寄せる不安とどう戦って来たんだろう……
「ね、どうしたの? 早く行こうよ~」
私の心を知ってか知らずか、妻子は楽しそうに呼び掛けてくる。諸々の答えはわからないが、今は再度生まれ掛けているその楽しさを大切にするべきなのだろう。まずは腹を満たして、後でのんびり考えるとするか……。私はズボンのチャックを閉じ、水を流した。
「ゴメンゴメン、行くか」
まだお昼に何を食べるかすらワカンナイけれど、私達はドアを開けて家を出た。
投稿したままで載せましたが、もう少し枚数あれば、膨らませて色々書けたように思います。力不足を思い知らされた一作でした。