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ワカンナイ  作者: 馬河童
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第2話

「ただいま」と言いながら邸内に入るが、返事はない。これじゃ職場と一緒だ。私は、

「シャワー浴びるよ。汗だくだ」

 と宣言して、浴室へ直行した。

 汗を流し、すっきりして浴室を出ると、居間では筆記用具が散らばり、ノートが何枚か破られて床に落ちていた。美紀が怒ったような顔で悟を見ている。

「どうしたんだ?」

 声を掛けるが返事がない。二人が黙っているので、こちらもこれ以上言及しにくい。しばらく沈黙が続いた。

「おい、どういう事なんだ?」

 さすがに耐え切れなくなり、少し強めの語調で再度尋ねると、

「見ればわかるでしょ」

 美紀がようやく応じた。それはその通りだが、説明を求めるのが当然だろう。

「またか。悟、何故苛つかずに出来ない?」

「うっせえな。わかんねえんだよ」

 机を叩く悟。またいつもの病気のようで、顔を真っ赤にし、今にも爆発寸前だ。指で机を鳴らし、足をじたばたさせている。

「まずは怒るのを止めろ」

 注意すると、

「ちょっと! そうやって頭ごなしに言うのは止めてよ。だから悟も反発するんでしょ」

 美紀から横槍が入った。

「じゃあどうしろって? 手に負えないからこうなってるんだろう」

 美紀の言いたい事はわかるが、ここまで放置しておいてそれはないと思う。

「しばらくそのままにしておけば?」

「こんな険悪な状態、放っておけないだろう」

「そうやって介入するのが揉める原因でしょ」

「俺は親じゃないか。息子の事で注意しちゃいけないのか」

「そうじゃない。興奮してる時に、火に油を注ぐような真似は止してって言ってるの」

「火に油って……、俺は落ち着けって言っているだけじゃないか」

 こういう部分が男女の違いなのか、話がまとまる気がしない。悟を注意するつもりが、私と美紀の口論になってしまった。逆に悟が極まりが悪そうに下を向いている。

「私、貴方が何考えてるのかわからないよ」

 突然、美紀が呆れたような顔で呟く。妙に湿っぽい雰囲気になってきた。私は返す言葉もなく、じっと相手の顔を見る。

「全然、家にいて楽しそうじゃないし、家族ってこんなものなの?」

「それは……」

「私、結婚して家庭を築ける事が本当に楽しみだった。悟が産まれた時だって、同じ風に思った。でも、年を追うごとに皆がイライラして、全然笑いもなくなってきて……」

「それって、俺だけのせいなのか?」

 美紀の話は自分本位に聞こえる。誰だって楽しい方が良いに決まっている。でも、私は嫌な職場へ働きに出なくてはならないし、悟は勉強しなくてはならない。そんな事象が相俟っての結果ではないか。

「そんな事ない……けど……」

「まあこんな言い争い、悟の前では止めよう」

 私は話を終わらせたい気持ちもあり、悟を理由に打ち切った。美紀は納得いかない顔をしていたが、「悟の前で」というのは同感だったのか、洗面所の方へ行ってしまった。

 半ばうやむやに話は終わり、悟は勉強が終わらぬまま寝るし、私も日中の疲れがあって、横になったらそのまま寝てしまった。あの後、美紀がどうしたかわからぬまま朝を迎え、例によって、二人が寝ている間に出勤した。

 また暑く息苦しい満員電車の中で、昨夜の事を考える。冷静になってみると、皆、言っている事は間違っていないのだと思う。実際は各自、一生懸命に自分の人生を生きていて、それがうまく行かないから、苛立ちをぶつけ合い、相手を責める結果になっている。

 思えば、私には家庭を楽しくという意識が欠けていた。例えば、悟が産まれてからは、仕事の忙しさもあってか、夜の行為も疎かになっていた。そういう部分も不信感に繋がっていたのかも知れない。決して興味がなくなったなんて事はなく、仕事や育児に忙殺されて、そんな気分になれなかったのが実情だ。とはいえ、ご無沙汰の行為を急に自ら持ち出す気にもなれない。日本人気質なのか、夫婦でもなかなか西洋人みたく愛情表現をオープンには出来ない。問題がわかっていながら解決不能な自分にもどかしさを感じる。

 これが他人とわかり合う事の難しさだと思う。私も美紀も互いを想う気持ちはある筈だが、どうしたら相手に寄り添えるかがわからない。いや、わかっていても踏み出せない。峰山にしてもそうだ。向こうがどう思っているのかはわからないが、お互い歩み寄れれば、もう少し良好な関係を築けるのではないか。

 でも、上手く出来ない自分が容易に想像されて段々と職場に行くのが億劫になる。また昨日みたいに下らない諍いを起こすのではないかという不安が増してきた。

 やはりこんな思いをしてまでも職場へ行く意味がわからない。もちろん、働かなければ暮らせないのは百も承知だ。ただ、その割には美紀も悟も幸せとは思えない。皆が幸せなら、辛苦を厭うつもりはない。だが、誰もが楽しくない思いをしながら生きる事に何の意味があるのか。考えると不安になるばかりだ。

 とはいえ、すぐに答えが出る筈もない。電車から追い出されると、足が自然と私を職場へ辿り着かせた。部屋に入りたくない気持ちが胸に渦巻いているが、サボる勇気もない私は行くしかなかった。

「……ざいます……」

 我ながら元気のない声で挨拶した。そのせいか、静まり返って何も返ってこなかった。既にパソコン操作している峰山は、画面に視線が行っていて、私を見る気配もない。いつもの事だと自分に言い聞かせ、席に着く。

 十五分程遅れて課長も来た。定刻は完全に過ぎていた。

「おはよう」

 悪びれる事ない笑顔の挨拶に、皆が「おはようございます」と返す。本来なら、課長は遅れた謝意を示すべきだ。それを笑って誤魔化し、皆も知らない振りをする。やはり私はこんな雰囲気が好きじゃない。そう思うと、この場にいる自分に違和感を覚え、モヤモヤが増幅してくる。目線はディスプレイに行っているが、心ここにあらずで動悸がする。身体と精神のバランスがおかしくなっている。

 しばらくこの状態と格闘していると、隣の峰山から書類が回ってきた。また他社へ送る案件だ。心落ち着かぬまま目を通す。もやもやして頭に入って来ない。三度読んだが、全く理解不能で気持ち悪くなりそうだ。私は我慢出来ず、

「峰山君さ、これ、よくわからないよ」

 と言って、書類を返した。

「は? 何がです?」

 峰山は怪訝そうな顔をして聞き返してくる。

「この辺、意味がよくわからないんだが……」

「へ? 何がわからないんですか?」

 峰山は強気で言い返してくる。

「ここ……、文章が繋がってないんじゃ……」

「……だが、……である上、……の要因から、……である。ちゃんと読めますよね」

 峰山は全く自分に非があるとは思っていないようだ。こうなると私は気圧されてくる。

「いや、しかし……」

 言いたい言葉が続かない。

「何です?」

 峰山の目は冷たく、睨み付けるようだ。私は動揺して冷静に考えられなくなってきた。

「そもそも向井さん、何が言いたいのかよくわからないんですよね」

 峰山が反撃に出てきた。

「わからない? 何が?」

「言動といい、仕事の指摘といい、さっぱりわからないんですがね」

「だから何がわからないんだ? こっちもそれじゃわからない」

 私は峰山の態度が腹立たしく、興奮してきた。血が昇って来て、顔が熱い。

「あんたがよくわからない事を言うんでしょ」

「そのあんたってのはやめろ。何なんだ君は」

 さすがに頭に来て語調が強くなる。

「おいおい、どうしたんだ」

 険悪な雰囲気を見て、課長が入って来た。

「向井さんが、訳のわからない事を言うんで」

 すかさず峰山が自己主張するので、

「私の注意を君が素直に聞かないからだろう」

 私も言い返す。

「まあまあ、何を注意したんだね」

 課長が我々を宥めるように言う。問題の書面について説明すると、課長は首を捻った。

「う~ん。何だかよくわからんな」

「え?」

 私は自分の耳を疑った。肝となっている部分は、当の課長がよく私達に指摘するのと同じ事なのだ。それを「わからない」とは……。

「向井君さぁ、君も係長なんだから、相手が理解出来るように話をせにゃならんぞ」

「私はそのつもりですが……」

「自分ではそう思っとるつもりかも知れんが、君の話はよくわからん事が多い」

「ええっ……」

 目の前が真っ暗になりかけた。こんな事を面と向かって言われたのは初めてだ。人格を否定されたようで、かなり堪える。そこへ、

「課長の言う通りですよ。俺も向井さんの話、よくわからないっす」

 峰山が追随する。こいつ、何を言い出すんだと思ったら、もう怒りが止まらなくなった。

「ふざけるな! こっちこそお前みたいな奴、よくわからないよ。ロクに受け答えはしないわ、反抗的な態度ばかり取るわ……。お前みたいな人間は初めて見たよ」

 私は怒りに任せてぶちまけた。周囲への気恥ずかしい思いより、課長と峰山、二人への憤りが優先した。峰山の顔も真っ赤になるのが見えて、何か言い返しそうであったが、

「向井君、落ち着いて」

 課長が急にとりなす発言をしてきた。しかし、私の気持ちは収まらない。

「課長、お言葉ですが、先程の話、何がわからないのか説明してもらえませんか? 私も同じように課長に言われ、よくわからないままこれまで過ごしてきました。是非お手本を」

「き、君は何を言い出すんだね。指摘を受けて反抗的な態度を示すなんてなっておらんぞ」

 課長は興奮して睨んできたが、私も引き下がらず、再度口を開いた。

「でしたら、峰山君にも同じ注意を与えていただけますか? 私の発言は確かになってませんが、同じように峰山君からも言われてます。正直、困っているんです」

 言うだけは言ったが、正直、泣きたくなるくらいショックだった。今にも感情が溢れ出しそうで、この場にいられないと思い、

「すみません。気分が優れず、今日はこのまま帰らせて下さい」

 と頭を下げ、背を向けて走り去った。遠くで「おい、峰山君!」と課長が峰山に声を荒げるのが聞こえた。


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