第1話
「う~、わかんねえ……」
呻いて机を叩く悟。鉛筆が床に落ちる。
「よく考えて、自分で調べたらどうだ。教科書を見てやってもいいんだぞ」
「見たってわからねえんだよ!」
「見てもいないじゃないか」
「何処を見ればいいのかわからねえんだって」
またいつものやつが始まった。それなりの進学校を出た私は、中学一年になる息子の勉強を見てやっているのだが、一度躓き始めると毎回こんな調子だ。悟は自分で調べもせず、苛立ちばかりが先に起こる。そんな様子を見せられると、こっちもイライラしてきて、言い争いになる次第だ。本当は塾にでも行かせればいいのだろうが、本人が行きたくないと言うし、こんな調子では塾にも迷惑を掛けそうで、家で私が教える形になっていた。
悟はそっぽを向きながら先程落とした鉛筆を拾い、手で弄んでいる。何でもない方程式の問題なのだが、この状態が始まると素直に解く気さえなくなってしまうようだ。
「いいから前向いて、問題をもう一回見ろよ」
と私が促すも、返事もせず、全く向き合う気がない。頭にきて、
「オイ、いい加減にしろよ!」
思わず怒鳴ると、別の方角から
「ちょっと! いい加減にして!」
と声が揚がった。妻の美紀だ。先程から黙って家事をしていたが、我慢ならなくなった様子で我々の前に来た。
「もう十時近いし近所迷惑よ。向井さん家、夜も賑やかね、なんて嫌味言われるんだから」
美紀はうんざりしたような顔をしている。とはいえ、うんざりしているのはこちらもだ。
「いい加減にって、いい加減なのは悟だろ」
「でも、うるさい。頭ごなしに言ったって聞かないでしょ」
「最初は優しく教えていたさ。それがまたわかんない病が始まってこうなったんだろ」
「それを教えるのが家庭教師でしょ。悟がこういう子だってのもわかってるじゃない」
そう言われると返す言葉もない。確かにその通りで、自分が大人げなく思えてくる。美紀のお陰で少しは冷静になれた。
「なあ、悟、このページを見てみろ」
私は教科書をめくり、問題の説明に該当するページを開いて示した。
「見てもわかんねえよ」
悟はまだ反抗的な態度を取り続けるが、
「いや、ここ読んで、同じ風に解いてみな」
と諭すと、不満気な表情を浮かべたまま、教科書に目を通し始めた。しばらく見入っていたが、ようやく理解出来たのか、バツが悪そうな顔をしながらも問題を解き出した。
学問の理解を深めるには、興味が大事だと思う。正直、どうしたら彼が興味を持って取り組んでくれるのかがわからない。何とかこの日は乗り切ったが、これが毎日続くかと思うと萎えてくる。
帰宅してこの状態なので疲れてしまい、すぐに布団に入った。悟は既に自室に籠ってしまったが、多分ゲームでもしているのだろう。
「ねえ、もう寝るの? まだ十時よ」
洗濯物を畳んでいる美紀が声を掛けて来る。
「もう疲れちゃったよ。明日も早いから」
「あっそ……」
不満気な声に聞こえたが、気にも留めず、目を閉じた。仕事だって色々あって、しっかり寝ないと、翌日、頭も体も働かない。そういう事情も理解して欲しいのになあ、なんて思いながら、いつの間にか寝入っていた。
翌朝、六時前に起きて、食パン一枚を牛乳で流し込み、着替え、洗顔、歯磨きを済ますと、まだ寝ている二人を尻目に出勤した。家が郊外にあり、通勤が駅まで徒歩十分、電車で一時間掛かる為、毎朝慌ただしい。美紀も常勤で働いており、悟の養育を考えて彼女の実家の近くに居を構え、幼少時は義父母に預けていたのだが、通勤だけは本当にしんどい。朝も夜も電車は超満員でほぼ立ちっ放しだし、乗っているだけで体力を吸い取られる。四十代に差し掛かった今の私には苦行だ。
六月の蒸し暑い都内とはいえ、解放されて外の空気を吸うと清々しい。駅を出て、少し歩くと会社に到着した。満員電車も憂鬱だが、今の私には職場も憂鬱だった。エレベーターで五階に上がり、重い足取りで自分の部署に入る。総勢十名の半数近くが来ており、上司や同僚と挨拶を交わして席に付く。
八時半始業で既に十分前だが、まだ部下の峰山はいなかった。私がパソコンを立ち上げていると。時間ギリギリにようやく彼は来た。
「おはよう」
「っす……」
挨拶しても毎度こんな調子だ。無愛想で積極的に会話を交わさないのだ。仲の良い者同士で喋る様子は見掛けるが、直属の上司である私とはほとんど話をしない。私は何を考えているのかよくわからない彼が苦手であった。
チャイムが鳴り、業務が始まった。我々は社内の事務担当で、毎朝、簡単な朝礼をして、係内の作業分担を確認するのだが、峰山とはロクに会話にならない。何か言っても生返事ばかりで、下手をしたら返事もしない。私を通さず課長に直接相談するなど、あからさまな態度を見せるので、こちらも面白くない。課長も課長で、こんな態度の部下に対して注意の一つくらいあっても良いようなものだ。
ただ、峰山は決して勤務怠慢ではない。一人残って資料を作る真面目さもあり、単に私への態度が悪いだけなので、扱いが難しい。
この日、上司である私に回ってきた書類は体裁が整っておらず、読みにくく、要点もよくわからなかった。絡みたくない気持ちもあり、迷ったが、さすがに一声掛けた。
「おい、峰山君」
峰山は音を立ててキーボードを打っていて、相変わらず返事がない。仕方なく相手の肩を揺すると、ようやく顔を向けた。
「何ですか?」
彼は頬を膨らませ、明らかに不満気だ。
「この書類、分かり辛いんだけど……」
おかしな話だが、相手の態度のせいか、こちらの気が引けてしまう。
「何処が?」
峰山は平気で言い返してくる。
「ここさ、文章繋がってないだろ。それと……様じゃなくて、殿だよ。点とカンマも混じってるし……」
「あ~はいはい……」
うるさそうに頭を掻く峰山。一通り説明し、後は委ねたが、理解しているのだろうか。課長も席にいて見ているだろうに、本来なら一言くらい言って欲しいものだ。私はモヤモヤした気分で仕事を続けた。
昼過ぎ、峰山が書類を直し、一応は修正されていたので、課長へ回した。すると私が課長に捕まった。
「向井君、ここ何でこんな書き方なんだ?」
「え~っと……」
私は書類を見て回しているので責任がある。
「こんな表現おかしいだろ?」
と課長が指摘するのは、私が峰山に修正させたところだった。
「ここは……なんで、……と思うんですが」
「は?」
課長に白い目で睨まれ、咄嗟に言葉が続かない。細身だが迫力があり、じーっと見られるのがまたプレッシャーになる。
「すみません。もう一度よく見て直します」
結局、私なりに理屈はあったのに、反論出来ず、修正する事になってしまった。そうなると書類を峰山に戻すべきなのだが、相変わらずそっぽを向いていて、命じるのが煩わしい。仕方がないので自分で直す事にした。書類の原版は峰山が持っており、自分のパソコンを使って改めて打ち直す。実にバカバカしい作業だが、イヤな気分になるよりマシだと思い、キーボードを叩いた。
三〇分程で修正を完了し、課長も納得した。ただ、資料の送達は、作成者の峰山に頼まねばならない。
「峰山君、この書類だけど……、課長の指示で直したから」
「ふうん」
峰山は少し笑みを浮かべている。
「何だ? 何か言いたい事でも?」
「いや、最初のと大して変わらないじゃないっすか。無駄な時間過ごしたなって思って」
ぬけぬけと言う峰山に腹が立つが、ここは言い返さない。
「いいから、これで先方へ送ってよ」
「はーい」
ふざけた返事が面白くないが、そこを指摘しても無駄な労力を使うだけなので、渡す物を渡して任せた。峰山は不服そうな顔をしながらも書類を受け取り、発送準備をしていた。
窓から夕焼けが見え始めた頃、終業のチャイムが鳴り、無性に疲れた私は定時で上がった。峰山はまだ黙々と作業していた。
「お先に」と周囲に挨拶し、部屋を離れるが、峰山の応答はない。こっちも慣れっこで気にせず帰る。寄り道せずに駅に向かった。帰りの電車も混んでいるので、乗る前から気が滅入る。案の定、到着した車両は人が溢れていて、私を拒絶しているかのようであった。無理矢理に身体を押し込み車内に潜り込むと、汗臭さや香水の匂いなどが蒸れた空気に混じって鼻を衝いてきて、具合が悪くなりそうだ。
時折、何の為にこんな思いをして行き来しているのか、わからなくなってくる。己れの望まぬ状態を受け入れながら無為に生きている実感があり、こんな時、心を壊して病んだりするのかなと思う。家族の為に頑張る気持ちはもちろんある。だけど、正直、今の日々はつまらない。家では文句を言われ、不快な満員電車に乗った果てに辿り着く職場は不穏な空気が充満している。昔、徳川家康が「死なぬように生きぬように」農民を取り締まったというが、今の私も生かされて不毛な日々を繰り返させられている感が拭えない。
蒸れ蒸れの空気の中、こんな事を考えていたが、ようやく自宅最寄りの駅に着いた。追い出されるように車内を出ると、やっと生きた心地がする。普通に呼吸出来るのがどんなに幸せな事か、大袈裟でなく身に染みる。
駅を出て歩き始める。徒歩十分だが、夜でも蒸し暑く、湿ってくっつくズボンにまとわりつかれながら家路を急ぐ。空は真っ暗だが、気温は大して下がらず、汗が引かない。
程なく家が見えてきた。汗を流せるのは嬉しいが、昨夜の再現を想像すると、帰る気分が乗らない。とはいえ、逃避するような真似も出来ないので、素直に玄関の扉を開ける。