第七十一話 殺人者と魔王狐
虫の知らせ、というのだろうか。カイルは真夜中に目を覚ました。
今回の野宿ではテントは四つ使われていて、一つはカイルたち、ギルバートたちが二つ、そして新米たちが一つ使っている。男女なんて区分けは無いので、エイダも狐人族の少女も同じ場所だ。見張りはギルバートたちが新米に経験させるためにベテランと新米の二人ずつ交代で行っていて、有り難いことにカイルたちの順番は無い。
テントの中は狭いので誰かが動けばすぐに分かる。カイルが目を覚ましてすぐに狐人族の少女が起き上がった。
「だから、興味ないと言ったのじゃ」
「どうしたの?」
「世話になった礼に助けてやるのじゃ」
狐人族の少女はテントを出て行く。
「ちょっと」
カイルは言い知れない不安を覚え、使い慣れた剣まで手にとって狐人族の少女の後ろを付いていく。
テントの外は曇りがかっていて、灯りは小さな焚き火しかない。
テントから出てすぐの場所に、ギルバートの仲間がこちらに背中を向けて座っている。男は見張り番にも関わらずテントから出て来た狐人族の少女とカイルに視線を向けることもせず、ぴくりとも動こうとしなかった。
「あれ、起きちゃったんですか? カイルさんたちは最後のつもりだったんだけどなぁ」
新米のテントから出て来たのはマウロだ。昼間と変わらない笑顔で、返り血で顔と服を汚し、血の滴るナイフを右手に持っている。
「おま、え」
「僕の【睡眠】三〇〇〇超えてるんだけどなぁ。寝てる間に爪剥いでも起きないはずなのに。もしかしてカイルさんの【偽装】かなり高いんですか?」
「ぎそう?」
「【偽装】スキルですよ。カイルさん【解析】の結果はゴミなのに修練の襷なんて持ってるから、何かあると思って警戒してたんですよ。僕って勘が良いでしょ? このプレイヤースキルの高さが売りなんです」
「そんなこと、より、何を、してるんだ?」
「何って、ピーケーですよ。珍しくもないでしょう?」
カイルにはマウロが何を言っているのか理解できない。おそらくテントの中の新米冒険者たちと見張りに立っていたギルバートの仲間の男の命を奪っただろうことは理解できる。しかし、少年はそのことに何一つ気にした様子もなく、昼間と同じように笑い、軽い調子でカイルに話しかけている。
「むー、反応が悪いなぁ。じゃあ、そっちの君、君、僕の【睡眠】をよく防げたね」
「妾に状態異常は効かぬ」
「へぇ、装備かな?」
マウロの言葉に、狐人族の少女は即座に答えた。狐人族の少女もマウロと同じように現状に戸惑っていない。
「昼間も言ったが、妾はお前に興味がない」
狐人族の少女の見下すような態度は変わらない。しかし異常な状況にあってもその態度を変えない彼女に少なくない恐怖を覚える。
「今消えるなら見逃してやるのじゃ」
「生意気だなぁ、お前」
マウロは地面を蹴り上げて狐人族の少女へと向かった。いや、カイルには向かっただろうことしか理解できないほどの速度で、マウロは動いたはずだった。
「お前、弱いのじゃ」
轟音がした次の瞬間、マウロは狐人族の少女の足下に転がっていた。
狐人族の少女が彼を地面に叩き付けたのだ。叩き付けられた衝撃で地面が大きく陥没している。彼のナイフを持っていた右腕は引き千切られたらしく、肩から先が無くなっていた。大量の血液が周囲に飛び散る。
「い、痛いっっ! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
「耳障りじゃの」
狐人族の少女が再び手を振り上げた。
マウロの表情が恐怖に染まる。カイルには理解が追いつかない。分かるのは、目の前で圧倒的な破壊を行おうとしてるのは狐人族の少女で、殺されようとしているのはマウロという少年だということ。
「ま、待つんだ!」
カイルは思わず叫んでいた。狐人族の少女の手が止まる。
その隙にマウロは起き上がり、逃げるようにして背中を見せて距離を取った。
「許さない。狐人族の女、そして、カイル。僕は、お前らを絶対に許さないぞ。絶対にPKしてやるからな。僕が課金アイテムで武装すれば、最強なんだぞ!」
「それは聞き捨てならぬのじゃ」
狐人族の少女はマウロの言葉に初めて興味を持ったように反応する。
片腕を失った少年の顔が、痛みと恐れで歪む。
「ギルバートさんっ! 助けてください! カイルさんの連れてきた人が急に暴れ出して!」
マウロが叫ぶと、テントからギルバートたちの仲間が飛び起きたように姿を見せた。
「【睡眠】スキルを切ったか」
「ドミトリー!」
ギルバートの仲間たちの一人が、見張りをしていた男に駆け寄る。
「僕がドミトリーさんと一緒に見張りをしていたら、カイルさんとあいつが突然襲いかかって来たんです!」
マウロは大声で狐人族の少女を指さした。
カイルは何を言っているんだ、ふざけるな、という言葉を言うべきだったが、目まぐるしく動く事態に、身動きができなくなってしまった。
「てめぇ」
ギルバートの低い声音が響く。ギルバートという強者が怒っている。カイルは狐人族の少女へ逃げるように声を掛けようとして、彼女の表情を見て更に固まった。
「雑魚共が。妾は、雑魚が譲らぬのが嫌いなのじゃ」
狐人族の少女は、魔物も、人殺しをしたマウロも、Aランク冒険者であるギルバートたちも、すべて等しく雑魚だと認識している。
それは彼女が初めて本気を見せた証左なのだろう。暴力的と表現して良い魔力が狐人族の少女から立ち昇った。目の錯覚でないのなら、彼女の背後から九本の魔力流が渦巻いている。
天地鳴動。大地が揺れ、曇り掛かっていた空は晴れて星空が見えてくる。
彼女が放つ魔力は圧倒的だ。軍が集まって使用する大規模魔術でさえ、これほどの魔力を放つことはないと思われた。その力は、あの日、カイルの友人がアクロシア王城を吹き飛ばしたような魔力に限りなく近い。
硬直していたカイルの筋肉が恐怖のせいで一気に弛緩した。立っていられなくなり、地面に座りこんでしまう。憤怒に包まれたギルバートたちでも瞬時に悟った。絶対に勝てない怪物が目の前に現れたことを。
ギルバートの判断は早かった。
「逃げろ!」
ギルバートの仲間たちは蜘蛛の子を散らすように四方八方へ逃げ出した。
狐人族の少女と戦うとか、時間稼ぎをするという選択肢さえ採らない。半分の五人が時間稼ぎに残ったところで、全滅する時間が一秒延びるかどうかだと判断したのだ。もちろん、カイルやカイルの仲間であるデニスやエイダを起こして避難させるという選択肢もない。彼らがやるべきなのは、誰か一人でも生き残りこの脅威をギルドに報せることである。マウロの姿もいつの間にか無くなっている。
狐人族の少女は、その様子をやはりつまらなそうに見つめていた。立ち上る九本の光の柱がゆらゆらと揺れている。晴れた空に浮かぶ満月が彼女を讃えているかのようだった。
しばらくして、狐人族の少女の視線がカイルに移る。それだけでカイルは心臓を鷲づかみされたような錯覚に陥り、意識に靄が掛かり始めた。あまりにも強大な何かを見た時、己の精神を守るための防衛本能がそうさせる。
「世話になった。妾が名はアルティマ・ワン。もし次会うことがあれば、この度の礼くらいは力になってやろう」
狐人族の少女―――アルティマ・ワンは言う。
そんな、マウロに襲われたことも、ギルバートたちに勘違いされたままだということも、一切気にしていない様子の彼女の言葉を聞きながら、カイルは意識を失った。