第四百八十六話 キュウのログイン
ヘルメス・トリスメギストス社のゼノフォーブの部屋で、ゼノフォーブフィリアが右手を動かす。するとヘッドセットが三つ、空中に現れた。もはや現代リアルワールドの物理法則を指摘する気も起きない。
「作戦の詳細はゲーム内で参照できるメールを確認しろ」
ゼノフォーブが出現させたヘッドセットはVRダイバーである。しかも家庭用ではなく、一般には流通していない業務用のハイエンドモデルだった。それも今回の神戯専用にカスタムされた特別機器に違いない。
「それから吾ら三神は、世界最大の亜量子コンピュータを介し、ここからファーアースオンラインへダイブする。遅延を限りなくゼロにできる上、接続された亜量子コンピュータからの情報を受け取れる」
フォルティシモはとにかくメールを読んで見ようと思い、目の前にあったVRダイバーを空中から引ったくるように取る。キュウも自分のVRダイバーを、恐る恐る手に取ったようだった。
キュウの尻尾が萎縮しているのが分かったので、安心させるために言葉を選ぶ。
「そんなに心配しなくて良い。ファーアースオンラインはゲームだ。キュウも楽しむことを考えて良い」
「はい、ご主人様」
フォルティシモはVRダイバーの使い方を知らないキュウへ、意気揚々と使い方を教える。
その間に、ゼノフォーブが外線通話と思われるものを起動した。このビルはネットワークと完全に遮断しているはずなので、何かまったく別の連絡手段を使っていると考えられる。
「聞こえるか、ダアト。まーはそこに居るな? 約束通り、勝負だと伝えろ」
「聞き捨てならない言葉が出て来たな」
フォルティシモの従属神ダアトが、ゼノフォーブから連絡される関係なのも、たった今マリアステラと一緒にいることも、フォルティシモには初耳だった。
だがフォルティシモは、口許へ笑みを浮かべる。ダアトがそういう行動を取ることは、ダアトを作成したフォルティシモが誰よりも分かっているからだ。
◇
その時、ダアト、アルティマ、リースロッテ、マリアステラ、ケペルラーアトゥムの五人は、ゲームショップに併設されたゲームセンターで対戦をしていた。
ゲームショップが前時代のテレビゲームやアナログゲームを販売していたことから、ゲームセンターもVRゲームだけでなく昔の体感ゲームやテレビゲームの筐体も並んでいる。
「有り得ないのじゃ!? なんでそんなに上手いのじゃ!?」
「あははは、私に勝ちたければ、あと千年はプレイしてから挑戦して欲しいね」
「その時間を世界とか人のために使おうとか、どうして思わないのじゃ!?」
「星の時間からすれば、一瞬だから?」
アルティマとリースロッテは、マリアステラに挑んでは敗北し悔しがっていた。
当初は乗り気でなかった二人だったけれど、マリアステラが「もしここのゲームで一つでも私に勝てたら、何でも言うことを聞いてあげるよ」と約束したので全力で挑んでいるのだ。
フォルティシモに有利な情報や条件を引き出そうと躍起になったものの、二人共が生来負けず嫌いのため、当初の目的を忘れかけている。
ダアトも何かの偶然で勝利できたら、自分に有利な通商条約を結ぼうと考えて試しにいくつか挑んでみたけれど、百パーセント勝てないと悟り観客に回った。どんな偶然や奇跡が起きても勝てそうもない。
ダアトは『マリアステラに届けて貰ったスマホ』が震動したのに気が付いて、待っていた相手から連絡が来たのだと悟った。
「いくら直接話したくないからって、私をメッセンジャーに使うなんて、高いですよ、ゼノさん」
◇
キュウがVRダイバーという兜のような物を頭に装着してスイッチを入れると、不思議な感覚を味合うことになる。
自分の身体が突然動かなくなり、目が見えなくなり、臭いがしなくなった。それは少々以上の恐怖だったけれど、耳だけで隣に座っているはずの主人の心音を聞き取り、なんとか冷静さを保つ。
唐突に、耳で聞こえている世界とはまったく別の感覚が、視覚触覚嗅覚味覚を通してやってくる。
キュウは森の中に立っていた。
いや正確には決して本物の森ではない。木々や葉っぱは生き生きとした生命を感じさせないもので、空に流れる雲は一定の形を保ったまま移動している。地面を踏んだ反動が極端に少なく、地面には大地で生きる虫の一匹さえいない。風はどこか人工的で主人の屋敷のエアコンからのそれを連想させ、日差しはまったく温かみを感じなかった。
「これが、VR空間」
キュウは主人たちから聞いて、その存在だけは知っている。
人間が創造した世界。
人間がこれほどの世界を創造できたことへ、称賛と驚愕の感情を持つべきか、それでも神の領域へは到れないと嘆くべきか分からなかった。
「ここは、『ブルスラの森』でしょうか」
主人が異世界ファーアースへ初めてやって来た場所を模して作られた森―――厳密にはどちらが先なのかキュウは知らない―――で一人きりになってしまい、不安と寂しさを覚える。
しかし耳だけはすぐ隣に主人が居ることを知覚しており、聴覚は主人と一緒にソファに座っているのに、他の感覚は孤独に『ブルスラの森』に立っている不思議な状況だった。
それからキュウは、自分の身体を見る。今のキュウは、里長タマの姿だった。
『おい、ふざけんな! キュウが居ないぞ!』
『キュウのキャラは玉藻御前が最後にログアウトした場所に居る』
『俺からキュウを引き離すなら、マリアステラの前にお前を滅するぞ!』
『キュウなら其方の隣に座っている。尻尾に手を添えているだろう?』
キュウの耳は、VR空間ではなくリアル空間の会話も聞き取っている。どうやってリアル空間の声を出して良いか分からなかったので、とにかく力を込めて主人へ話し掛けた。
「ご主人様! 私は『ブルスラの森』に居ます!」
『キュウか!? すぐ行くから待ってろ!』
キュウの目の前に、見慣れた【転移】のポータルが出現した。その中から現れるのは、キュウの敬愛する主人フォルティシモだ。
主人は焦った表情でポータルから飛び出し、目の前のキュウを見た。しかし主人は凍り付いたように制止し、戸惑っているようだった。
「キュウ、か?」
「タマさんの使っていた、アバター、なのだと思います」
「あー、あれだ。キュウがそのアバターのままが良いって言うなら、それで、良いんだが。けど俺は、あれだ。いつものキュウのが好きだし、キュウがいつかはその姿になるのだとしても、それは一緒に居る過程であって欲しくて」
「ご主人様のご迷惑でなければ、【アバター変更】を使って、今の私の姿にして頂いてもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ! いくらでも使え!」
キュウは主人から操作方法を教えて貰いながら、いつものキュウの姿に戻した。色々なことに戸惑っているけれど、こうして主人が側に来てくれて、自分がいつもの姿になっただけで安堵を覚える。
そうしている内に、すぐ側で争うような声が聞こえて来た。キュウの耳は、未だにリアルで主人の鼓動を聞いているけれど、VR空間から聞こえてくる音も徐々に捕らえられるようになっている。
「ご主人様、すぐ側で誰かが戦っています」
「『ブルスラの森』でか? なんかクエ品でも集めてるのか。まあ、すぐそこだし、キュウが操作を慣れるためにも、ちょっと様子を見てみるか」
キュウは操作ってどういう意味だろうと不思議に思ったけれど、すぐにその理由を理解した。
なんだか動きづらいのだ。本当の身体を動かしているのと同じように動かせるけれど、どこか違和感がある。ゼノフォーブフィリアの話では遅延は感じないはずだけれど、キュウの耳の能力のせいか、歩くのにも気を遣う必要があった。
走る練習をしながら、争う声の聞こえる場所までやって来ると、その場には十人近い男女がいた。
可愛らしい女の子たち三人を、倍以上の数の男性が取り囲んでいる。異世界ファーアースだったら、女の子たちがレイプされる現場である。
彼らはその場に現れた主人とキュウを見た。キュウは男性たちへ、今すぐ女の子たちから離れるように言おうとする。
けれど。
「え?」
「え?」
「え?」
「ま、魔王?」
「「「「「うわあああぁぁぁーーー魔王様だあぁぁぁーーー!!」」」」」
女の子たち三人と男性たちは主人を見た途端、恐怖で絶叫をあげて一目散に走り出す。今まで争っていたのは嘘だと思えるくらい、お互いに協力して主人から逃げている。
「てめぇら、キュウの前で誤解されるようなことをしやがって。良いだろう。全員、地の果てまで追い掛けてPKだ。無限リスキルも覚悟しろ。キャラクリをやり直した方がマシと思えるくらい、デスペナを与えてやる」
『主、誤解という単語を辞書から引いてきたぞ』
それからキュウは、主人が作り出した【転移】のポータルを使い、やはり『浮遊大陸』であって『浮遊大陸』ではない場所へ行く。
エルフも住んでいないし、ドワーフたちを中心にした鍛冶師やアクロシア王国の技術者たちが住み込む街もない。緑豊かな森やピアノが住んでいる温泉地帯もない。なんだか寂しさを感じる場所になっていた。
しかしそんな感想もすぐに言っていられなくなる。『浮遊大陸』で待ち構えていたのは、他でも無い偉大なる星の女神マリアステラと太陽神ケペルラーアトゥムだったからだ。
ダアト、アルティマ、リースロッテも一緒に居るのは、先ほどゼノフォーブがマリアステラへ連絡した際、ゲームセンターのVRダイバーから一緒にログインするという話をしていたからだ。
またキュウにはVRダイバーやAIの分野は詳しく分からないけれど、VR空間へダイブする場合、人間もAIも同じ信号を使っており、彼女たちは元の従者のアバターに入れるらしい。
「やあ魔王様」
「お前、不利なのによく勝負を受けたな」
「愛しの魔王様と、心の友のぜー、これから親友になるキュウに誘われたら、受けない訳にはいかないからね。魔王様こそもう少し待たなくても良かったの? 従者はこの四人しか使えないよ?」
「それには不満だが、時間を置いたら<星>の奴らが押し寄せて来そうなのも事実だ」
主人とマリアステラが向かい合い、お互いに牽制を始める。
「小さな神戯だけど、こんな豪華な遊戯はなかなかないね。これじゃあ必要な信仰心エネルギーは、主催者たちの丸損だ。でも、それで挑んだからには何かあるんでしょ?」
「こういう神戯を開催するのに、それなりのデメリットあるのか」
「そうだよ。ぜーはその辺り、説明を省くからね。魔王様さえ良かったら、終わってから私がレクチャーしてあげても良いよ。とりあえず今回、私からは、私が勝ったら魔王様は私のことを未来永劫“まー”って呼んで。親しみを込めてね」
「最初から負けるつもりはないが、余計に負けたくなくなった」
「魔王様からは?」
「どうせ、それに対等な条件しか提示できないんだろ。なら俺が勝ったら、最強のフォルティシモが居る限り、他の神や人へちょっかいを掛けるな」
主人の条件を聞いたマリアステラは、とても愉快そうに嗤った。
「魔王様だけを見ろって? あははは、負けても良いかなって思っちゃうな」
そこから起きたことは説明が難しい。キュウも目や頭では理解できず、耳だけが事実として聞き取っていた。
抽象的な表現をするのであれば、マリアステラが神戯という法則へそれらを書き込んだのだ。
異世界ファーアースも現代リアルワールドも、元を辿れば神戯によって生まれた世界で、その根幹はすべての“始まり”という概念が創った神儀にある。
この神戯に敗北したら、キュウの大好きな主人は、林檎が木から落ちるようにマリアステラを「まー」と呼び続けることになる。
「これで神戯の開催は終わりか? 何も起こらなかったぞ。もっとこう、デザイナーが血反吐を吐いたようなエフェクトや効果音はないのか?」
「私もそういうのが在ったほうが、絶対にそれっぽいって思うんだけどさ。まあ、ないね。だから、いつの日か、魔王様がすべての神の頂点に立ったら、改善して欲しいな」
キュウに聞こえるのだから、マリアステラにも見えている。
神戯が始まったのだと。