第四百七十八話 ある新聞記者と神隠し
文屋一心が、紙の新聞を発行するルー・タイムズへ就職したのには訳がある。
当時の一心は、国内有数の大学へ進学してメディア関連を学び、VR空間でトップを誇る情報発信企業から内定を貰っていた。それにも関わらず、これから下降していく業界の、しかも中堅のルー・タイムズへ就職を決めた。
それは一心の血の繋がった兄が理由にある。
身内の贔屓目だけれど、兄はいわゆる天才だった。
兄は何をやらせても世界最高レベルの技術をあっという間に習得した。世界的ピアニストの再来だと騒がれたこともあったし、伝説のテニスプレイヤーの生まれ代わりと持て囃されたこともあったし、VR世界で権威あるハッカソンの大会で史上最年少の優勝をしたこともあった。
しかしそんな兄が、一心が大学四年の時に行方不明になってしまったのだ。
それもただ行方不明になったのではない。それは奇妙な現象で、テレビなどの大手メディアは兄に関する情報を不自然に報道しなかった。両親は兄のことでよく喧嘩していたのに、まったく話題にしなくなった末に離婚した。兄の友人や仕事関係者にも知っている限り当たったけれど、美人と駆け落ちしたとか、子供を作って逃げたとか、支離滅裂な情報ばかり集まる。極めつけにネットワーク上に流れる情報が、それらを後押しするようなものばかりになった。
わずか数ヶ月で兄の生きた証が世界から消えていく感覚。データとネットワークに依存した社会は、そこから消えた人を亡霊以下の存在として扱っていた。
一心はその事実に恐怖を感じた頃、メディアの中で唯一、兄の行方不明を新聞記事として発行したルー・タイムズへエントリーシートを送った。
◇
教科書にも掲載されるような現代の偉人、天才近衛天翔王光。文屋一心はその娘が暮らしていた屋敷の庭で、デフォルメされたドラゴンのぬいぐるみと出会った。
『なんだ貴様は? ここに居るということは、フォルティシモの召使いか? しかし、誇り高き最強の竜神たる我を止めることなど、不可能だと知れ!』
一心は単なるぬいぐるみのはずの身体から、言い知れぬ威圧感を感じた。
詳しくは分からないが、フォルティシモという人とこのぬいぐるみは知り合いらしい。フォルティシモは召使いを持てる国出身で、高貴な身分の御方らしい。そのフォルティシモは、近衛天翔王光の娘の屋敷に居たらしい。このぬいぐるみは自称竜神らしい。
ドラゴンのぬいぐるみは、一心をフォルティシモの召使いと勘違いしているらしい。
「いいえ、竜神様。私は竜神様がこの国で滞在中にご不便がないよう、フォルティシモ様よりご用命を受けるように仰せつかっています。どちらへ向かわれるおつもりでしょうか? よろしければご案内いたします」
一心はドラゴンのぬいぐるみに対して、咄嗟に己がフォルティシモの召使いだと嘘を吐いた。
『我を止めに来たのではないのか?』
「はい。フォルティシモ様は、竜神様の目的を阻害するつもりは毛頭ございません」
一心の心臓は、口から出た嘘に鼓動を強くする。もしフォルティシモなる人物が、他国のやんごとない人物だったら、バレた時に大きな問題に発展するかも知れない。
『ふん、誇り高き最強の竜神である我も、人間の常識を学んでやったぞ。これは監視というやつだ。召使いは我の行動を逐一報告する義務があるのであろう? 邪魔をしないという嘘は吐いていない。お前自身はな。どうせ我の行動を知った途端、フォルティシモが出て来るのだ! その手には乗らん!』
ドラゴンのぬいぐるみの口が開き、生温い息を一心に吹きかけた。ぬいぐるみなのに、いやに生々しい。
『召使い! 我とフォルティシモは盟友だ。すべてが終わったら役に立ったと言ってやるから、それまでフォルティシモへの連絡はするな!』
「承知しました、竜神様」
『何? フォルティシモの配下にしては話が分かるな?』
一心は失態に気が付いて、奥歯を噛み締めた。生温い息のせいで、思わず気持ちが緩んでしまったらしい。あまり簡単にフォルティシモを裏切るような発言をしては、逆に不信感を持たせてしまうだろう。
自分を竜神なんて豪語するぬいぐるみが、ここまで持ち上げるのだ。きっとフォルティシモなる人物は、一目会っただけで傅きたくなるほどのカリスマを持っていて、大勢の部下たちに慕われ、頭脳明晰にして思慮深く、決断は早いながらも間違いなんて起こさず、完璧なコミュニケーション能力で組織を統率する、絵に描いたような立派な人物に違いない。
一心がこれ以上の偽証は不可能だと悟り、「実はフォルティシモなんて知りません」と白状して、謝ろうとした寸前だ。
『さては我の誇り高き最強の竜神としての神威に屈服したか』
「は、はい、竜神様のお姿を拝謁し、心よりの敬意を覚えた次第であります!」
『ならば仕方あるまい。我は誇り高き最強の竜神だからな。我を案内する栄誉をくれてやろう』
「ありがたき幸せでございます」
ドラゴンのぬいぐるみは一心に対して行き先を告げ、そこまで案内するように言ってきた。一心はここまで運転してきた自動車の後部座席にドラゴンのぬいぐるみを乗せ、自身は運転席に座り、来た道を戻っていく。
『後ろのドラちゃん、ネットワークから完全に遮断された、スタンドアローンのAIみたい』
一心のサポートAIネリーは、ドラゴンのぬいぐるみのデザインで販売元を特定したけれど、ありきたりなぬいぐるみだった。目立った売れ筋商品もない製造会社で、せいぜいが一時的に流行ったVRMMOゲームとコラボしたくらいだろうか。
フォルティシモ、という人物に関しては情報を集めるのが難しい。フォルティシモと言えば音楽記号であり、遙か昔から使われている。それを元にした音楽関連は枚挙に暇がないため、情報の特定を困難にしていた。
『おい召使い』
「なんでしょうか竜神様!」
一心がネリーと小声で会話していると、後部座席のドラゴンのぬいぐるみから声を掛けられた。
『まだ着かないのか。この鉄くずはアクロシアビッグスッポン以下か』
「アクロシアビッグスッポン?」
『検索すると、このぬいぐるみのVRMMOゲームに出て来るモンスターの名前みたいね』
『知らぬか。所詮は人間だな。あれは生で甲羅ごと噛み砕く食感も悪くないが、中身を焼いても美味い魔物なのだ』
ネリーがアクロシアビッグスッポンの画像を表示してくれた。いかにもゲームのモンスターらしく、象のように大きな亀だ。つまり亀のように遅いから早くしろと言いたいのだろう。
「もうすぐ着きます。でも、本当にヘルメス・トリスメギストス社のCEOとお知り合いなのですか?」
ヘルメス・トリスメギストス社と言えば、世界の市場で時価総額ナンバーワンの企業名である。何せVR空間にダイブするためのVRダイバーを販売しているのが、ヘルメス・トリスメギストス社であり、その技術を世界的に独占しているのだ。嘘か誠か国家よりも大きな権限を持っているという噂もあった。
そうしてやって来たヘルメス・トリスメギストス本社の巨大ビルは、ルー・タイムズが入っている雑居ビルとは月とすっぽんで、高さだけで気後れしそうになる。それでも一心がドラゴンのぬいぐるみを抱えて入り口に立つと、誰かに止められることなく通される。
場違いな気分と記者としての本能を押さえ付け、まっすぐに人間の受付へ向かい、机の上へドラゴンのぬいぐるみを置いた。黄門様の印籠の気分である。
しかし受付嬢は、いきなりドラゴンのぬいぐるみを見せ付けた一心に戸惑っていた。
『ゼノフォーブはどこだ!? 誇り高き最強の竜神たる我が来てやったぞ!』
「アポイントメントはございますでしょうか?」
『聞こえているのであろう! 出て来ぬのであれば、このビルなる貴様の居城を跡形も無く消し去ってくれよう! 我がブレスであれば、瞬時に爆砕できるぞ!』
一心は受付嬢が警備員とアイコンタクトを取ったのを確認し、ドラゴンのぬいぐるみを抱え込み、その場にしゃがみこんだ。その速度たるや、反射神経の限界だったに違いない。
『何をする召使い!?』
「そちらこそ、な、何をなさっているのでしょうか、竜神様!?」
『ここにゼノフォーブが居る! 我は会うのだ!』
「あの!? もう一度聞きますけど、お知り合いなんですよね!? なら、メッセージとか電話で行くことを伝えてください!」
『………我自身と、ゼノフォーブは初対面だ』
「………………………初対面!?」
完全に不審者になっていたので、表情に引きつった笑みを浮かべつつ、ドラゴンのぬいぐるみを抱えたままヘルメス・トリスメギストス社のビルを後にする。早足で駐車場へ停めていた車の中まで戻って来た。
「竜神様は、どうやって初対面のCEOと会おうと思っていたのでしょうか?」
『人間にしては良い質問だ。召使いの言う通り、普通の方法ではゼノフォーブと会うことは不可能。だが今は違う。フォルティシモと会うため“開く”はずだ』
「開く? フォルティシモって、んん、フォルティシモ様と会談されるから、普段は誰にも会わないCEOが現れるということでしょうか?」
『ピュア、ドラちゃんの言っている話、あながち嘘や妄想でもないかも知れないわ』
「ネリーまで何言っているの?」
『今の本社、異常に人が少ない。ネットワークもVR空間も隔離状態よ。何か特別なことがあって、制限しているのよ。それでも私たちが入れたってことは、ドラちゃんが一緒だったからかも』
つまり今の世界最高企業の本社ビルは、厳戒態勢らしい。
一心は己の直感が正しかったのだと思いつつ、何とかしてドラゴンのぬいぐるみから詳しい事情を聞かなければと思っていた。しかしドラゴンのぬいぐるみは、AIの癖に人間の話をこれでもかという程に聞いてくれない。
『む。そういえば“演者”から預かったものがあったな』
一心が迷っていると、ぷかぷかと空中に浮かぶドラゴンのぬいぐるみが、唐突にパントマイムを踊り出した。クルクルと身体を回転させ、空中でターンを決めている。
『ドラちゃん、背中に手が届かないんじゃないかしら』
ドラゴンのぬいぐるみの背中にはチャックがあり、チャックを開けたいらしい。
「よろしければお手伝いさせてください」
『………よかろう。“演者”と女神がここに入れた袋を取り出せ』
ぬいぐるみの背中のチャックを開き、手の平に載る程度の巾着袋を取り出す。竜神の命令に従って巾着袋の中を見ると、そこには信じられないものが入っていた。
「………え?」
見覚えのあるスマートフォン。
自分のサインを自分のスマートフォンにしている、大馬鹿者が使っている、この世で一つしかないはずのスマートフォン。
佐藤騎士王。
一心の血の繋がった兄の名前。
『これに、ゼノフォーブフィリアのVRIDとやらが入っている、らしい。“演者”と女神の頼みを聞くのは業腹だが、貢ぎ物を使ってやらんこともない』
「CEOの直通アド!?」
『しかし、開け口が見つからんな。割れば良いのか?』
ぬいぐるみの口がスマートフォンを噛み砕こうと開かれる。布製のぬいぐるみがスマートフォンを噛み砕けるとは思えなかったけれど、言い知れぬ本気さを感じて引き離した。
「ちょ、ちょ、ちょちょちょ、ちょっとお待ちくださいませんか、竜神様!? これ、これを誰からっ」
『“演者”だ』
「アーサーでしょうか!?」
『うるさいぞ召使い!』
ドラゴンのぬいぐるみが再び一心へ生温い息を吐きかけるが、今度は怯んでいられなかった。
「なんかしゃべり方がやたら偉そうで、美しさがどうとかウザイくらい執着していて、頭の悪そうなファッションをしていませんでしたか!?
『美しさ、のところを最強にしたらフォルティシモだが』
文屋一心の自称天才記者の直感が、大きな確信を与えてくれる。
『この誇り高き最強の竜神からすれば、人間など皆同じに………。未到達ながらもこの神威、似ているな。召使いは“演者”の親類か?』
「竜神様は兄をご存知なのですか!?」
『奴は我とフォルティシモに敗北して軍門に降ったのだ! 女神と共に奴隷の如く働いているわ!』
「敗北した? 女神? 奴隷!?」
『我とフォルティシモの元、数万の奴隷が働いている。“演者”など、その中の一人に過ぎん』
一心は竜神の神託を聞いて理解した。
兄の行方不明と前後して、何人もの同事例が散見される。その多くがある分野で何らかの功績を残した天才と呼ばれた者たちで、ネットワーク上から不自然に情報がなくなっていた。
才能ある人間を拉致し、奴隷のように使っている。
その黒幕こそ、フォルティシモだ。
近衛天翔王光の娘たちが巻き込まれた事件も、フォルティシモが才能ある父親と娘を拉致しようとしたのだ。その過程で、あの田舎の屋敷も接収したのだろう。一心が記事にした近衛天翔王光宅の爆発事故も、フォルティシモが起こしたのだ。近衛天翔王光とその娘を手に入れるために。
ただの直感だが、フォルティシモの悪逆はそれに留まらない。立場を利用して美しい女性を従わせたり、見目の良い者を追い詰めて買っているに違いない。美貌を持つ少女たちが騙されて、毒牙に掛かっているのが目に見えるようだった。
悪鬼羅刹の所業に怒りを覚えると共に、まだ見ぬ巨悪に震えを抱く。
敵は悪魔、いや現代社会の闇を支配する魔王。
その闇を必ずや太陽の下に照らし出して見せようと心へ誓う。兄だけでなく、近衛天翔王光や近衛天翔王光の娘、そして大勢の奴隷たちを助け出すのだ。
フォルティシモを打倒する正義の勇者には成れずとも、正義のジャーナリストとしての戦い方はある。