第四百六十五話 静かな音
神戯ファーアースへ参加したプレイヤーピアノのリアルは、脳神経接続子剥離病という奇病の罹患者であり、自分の意志では身体を指一本動かすことができなかった。
治療の見込みもなく、両親の負担を考えたピアノは尊厳死と呼ばれる法律を使って最後を迎えたのだ。
ピアノが尊厳死を選んだ時、両親はせめて成人になるまでと言ってくれていたけれど、その表情には明らかな安堵があった。
だからピアノは自分の選択に後悔はなかった。
というよりも、そこで死んだピアノには後悔する時間さえなかった。
ピアノが死んだ後に現れ、異世界へ転生させたマリアステラさえ居なければ。
アクロシア王国には大きな闘技場がある。
魔物の脅威に怯えるアクロシア大陸で、娯楽のための巨大施設を建設するのかは疑問の余地があるけれど、現実として大きな施設があった。
もちろんVRMMOファーアースオンラインのゲーム常識で考えれば、最初の街にある程度の施設を集中させる必要がある。そうしなければプレイヤー間で格差が生まれてしまうし、新規プレイヤーを呼び込めない。
アクロシア王都は、そんなゲーム事情と現実事情がごちゃ混ぜになっている都市だとも言えた。異世界の事情を考えるならば、聖マリア教の神託が何かしらの影響を与えているのだろう。
今、そんな闘技場に四つの人影がある。観客席が空っぽなので寂しいものの、これから始まる戦いを考えれば、この場所を立ち入り禁止にして貰ったのは都合が良いだろう。
四人の内一人であるピアノは、残りの三人を見回した。
一人目はフォルティシモ。ピアノと向かい合って立っている。VRMMOファーアースオンラインの頃から何度となく戦った、親友であり最強厨。そして最強厨が最強神にまで到達した、強さの頂点だ。
二人目はキュウ。フォルティシモから少し後ろに立ち、緊張した面持ちで自分の情報ウィンドウを見ている。先の戦いで常識外れの力に覚醒しているけれど、彼女の性格は変わらない。それが好ましい。
三人目は―――マリアステラ。
ピアノの後ろに控えて顔は見えないけれど、ニヤニヤと笑っているのが分かる。
「えー、マリアステラ様との約束。すべてが終わった後、私がフォルティシモと全力で戦うって言うのを果たす」
「ああ、いいぞ。こういう試合なら、いくらでも挑んでくれ。大歓迎だ」
フォルティシモは「ただし」と付け加えて、マリアステラを指差した。
「マリアステラ、お前だけは話が別だ。俺の親友を利用するのは、金輪際止めて貰おうか」
「利用? んー、魔王様、そうじゃないよ。私は魔王様のファンだよ? 魔王様とぴーの戦いを誰よりも楽しんでたのは、私だって自信がある」
VRMMOファーアースオンラインで魔王フォルティシモを最も追い詰めていたのは、間違いなくピアノだ。
ピアノはPKこそしなかったけれど、大会やイベントで戦うことになれば、フォルティシモを敗北寸前まで追い詰めていた。特に第一回大会など未だに物議になるほどだ。
しかしそれは課金要素が極まる前の話なので、ゲーム後期ではほとんど勝負にならなかった。最強神フォルティシモと戦ったら、瞬殺されかねない。
あくまで、ピアノ単独で挑めば。
「今の魔王様にはキュウが付いてるでしょ? キュウが観測して選択したら、砂漠の中の砂金を一瞬で発見できるし、無量大数の中の一を確実にもぎ取れる。それじゃあ勝負とは言えない」
マリアステラが楽しそうに語っている。恩返しをしているピアノとしては、彼女が楽しそうなので何よりだ。
今のピアノの顔を鏡に映したら死んだ魚のような目をしているはずだが、命の恩人が最も優先している“楽しさ”のためなら安いものである。
「でも、私がぴーの側に立てば、条件は互角。それどころか観測能力としては、私のが圧倒的に格上。魔王様とキュウ、ぴーと私、楽しい勝負になると思わない?」
「フォルティシモ、まあ、あれだ。悪い。お前が楽しいとかおいておいて、私のために付き合ってくれ。貸し一つで」
ピアノも親友フォルティシモを、ピアノの事情に巻き込んで申し訳ないと思っているので頭を下げる。
「いや、ちょっと面白そうだと思えてきた」
「まじか?」
意外にもフォルティシモに嫌がる様子はなかった。
この最強厨はPvPや対人大会などが大好きなのだ。それらに勝利して最強を証明することへ、この上ない快感を覚えるらしい。
我が親友ながら酷い性癖である。
「ああ、最強神フォルティシモとキュウ、この最強が、どれだけ強いのか。お前たちは、最高の相手かも知れない」
「気を遣ってくれた、って感じじゃないな。お前はこういうことに気を遣うようなタイプじゃないし」
ピアノは気持ちが軽くなっていくのを感じる。
命の恩人と親友が、この戦いを望んでいるのだ。
母なる星の女神に選ばれた天才ピアノが全力を出すのに何の支障も無い。
「………………………いや、強すぎだろ、フォルティシモ」
数分後、ピアノは闘技場の地面に横たわっていた。
フォルティシモ&キュウ対ピアノ&マリアステラの戦いは、フォルティシモ&キュウの圧勝だった。
地面に横たわりながらくるりと視線を変えてフォルティシモを見る。フォルティシモは目に見える怪我どころか、HPの一ミリも減っていなかった。
キュウがインベントリから回復アイテムを取りだしてピアノに向かって駆けよって来るので、御礼を言って受け入れる。
最強神とか言う巫山戯た名前の神へ進化したフォルティシモの強さは、まさに神の領域に達していた。勝てる可能性を微塵も感じなかったほどだ。
「あはははははは!」
マリアステラは腹を抱えて笑っていたので、ピアノの目的は達したものの、どこか釈然としない気持ちになる。
「マリアステラ、これで満足か?」
「うん、今回はね。またぴーと一緒に魔王様へ挑むよ」
「それは………まあ、ピアノの迷惑にならないなら、良いか」
フォルティシモは真正面から挑んで来る相手を気に入ることが多い。
プレスティッシモも然り、最果ての黄金竜然り、ヒヌマイトトンボ然り、アーサー然り、太陽神ケペルラーアトゥム然りだ。もちろんピアノ自身も含まれている。
マリアステラはフォルティシモのファン第一号を自称するだけあり、フォルティシモの性格を完全に把握しているようだった。
「ああ、そうだ、ピアノ。あの時、言いそびれてた話があった」
「あの時ってどの時だ? いや、まあそれは別に良いか。何の話だ? 私がマリアステラ様に協力したこと、恨み言を聞くつもりだったから、何でも言ってくれ」
「それは気にしてない。むしろ、お前が自分の命を救ってくれた奴より俺を優先したら、お前の人格を疑うし、俺はそんな奴を絶対に信頼しない」
「私はお前のそういうところ、一番好きだぞ」
フォルティシモは珍しく照れたのか、視線を横へ外した。
フォルティシモは自分のことは最強厨のクソ野郎だが、他人のことは本人の立場になって考えられる。
ダアトやマグナを筆頭に、フォルティシモの従者たちを見れば自明だ。フォルティシモは己が創造した従者にさえ、フォルティシモを最優先にすることを求めない。
フォルティシモは他人が本人の幸福を追求することを否定しない。
この好意的評価は親友を贔屓目に見たい、ピアノの感情論である。でも、大筋で間違っていないと思っている。
「何言ってんだ。とにかく、俺の話って言うのは―――」
それからフォルティシモが話し始めた内容は、ピアノにとって驚愕そのものとなった。
◇
ピアノは自分の意識がハッキリしていることを確認する。
ピアノの目の前には【転移】のポータルがあり、たった今、それを抜けてこの『場所』に立っている。
その『場所』は『浮遊大陸』にあるフォルティシモの【拠点】の庭に似ていた。池の配置や植物の選択が同じ感性で行われており、同じ人物が作った庭なのだろうと予想させる。
だが決定的に違う点があった。
「本当に、私は、リアルワールドに戻って来たのか?」
最強神フォルティシモの奇想天外な力は、ピアノを現代リアルワールドへ送ってくれたのだ。
ピアノが諦めた世界がそこにある。
ピアノはふらふらと歩いて空を見上げる。VR空間でも異世界の空でもない、現代リアルワールドの空が広がっていた。踏みしめる土の感触は異世界と変わらない。頬をくすぐる風は興奮で熱くなった気持ちを冷ましてくれているようだった。
「来る前にも言ったが、お前の元の身体は火葬されてて取り戻せなかった。だからピアノでの帰還だ。元の身体のが良いか?」
「このピアノはマリアステラ様が私が健康だったら、って考えで作ってくれたものらしいから、こっちのが良い」
ピアノは苦笑したつもりだったけれど、表情が上手く作れず瞳からは涙が流れ、親友には見せたくないぐちゃぐちゃの顔をしている。
「ここは俺が幼い頃に暮らしていた場所だ。ポータルは三日後にもう一度開くつもりだが、無理に合わせなくても連絡をくれればいつでも開いてやる。それから金とスマホを渡しておく。好きに使って良いぞ。いや、だからと言って、好き勝手に課金して良いって意味じゃないからな。今は金がないから節約を頼む。配当金が入るまで待て」
「………ああ」
ピアノはフォルティシモの言葉を聞きながら、感じられる視覚と聴覚と嗅覚と触覚と味覚に夢中になっていた。
現代リアルワールドは、こんなにも素晴らしい世界だ。
「ピアノ?」
「あ、ああ、すまん、何だ?」
フォルティシモからやけに優しい声音で呼ばれて我に返る。
「お前の両親は生きてる。会いに行け」
「良い、のか? それってリアルの常識とか、転生や神戯が表沙汰になるとまずかったりしないのか?」
「そういう仕様の話は俺が考えることだ。俺はあんなクソ女神より、親友を救える最強神だぞって悦に入らせろ」
本当に、この最強厨は、己にとって最高の結果以外を目指していないらしい。
「なら頼らせて貰うぜ、親友」
ピアノは奇病で寝たきりだった少女が健康で育った可能性である存在、とも言える。
両親に見せられなかった姿、掛けられなかった言葉、それらを力一杯抱き締めて伝えたい。
ピアノはフォルティシモへ連絡を入れて、一ヶ月ほど現代リアルワールドに滞在した。それはピアノにとって、かけがえのないものになった。
ちなみにその後、フォルティシモに頼めば、いくらでも現代リアルワールドへ戻れるようになったので、すっかり慣れてしまい、両親から「結婚はまだか」と急かされるようになるのは、また別の話である。