第三百八十二話 大陸歴訪 アクロシア王国編
アクロシア王国の国王デイヴィッドの第三夫人マリアナ・フォン・デア・プファルツ・バルデラバーノ・アクロシア。誰もが思わず見惚れてしまいそうな美しい容姿に、二十代前半と勘違いされるような若々しい外見。最近は少しやつれている様子だが、今ではそこが儚げな美人を思わせる。
ラナリアの母親である彼女は、公爵令嬢として生まれたものの決して幸福な人生を歩んでいなかった。マリアナは十代の頃には、父親と変わらない年齢のアクロシア王と結婚して第三夫人となり、数年もしない内に妊娠し、ラナリアを出産している。
産まれたラナリアは跡継ぎとなれる男子ではなかったものの、優秀な女子だった。そして次も優秀な、今度こそ男子を産むのだと期待された。マリアナは期待に応えるように男子を産み、父バルデラバーノ公爵にようやく認められた。
当時のアクロシア王国は、第一夫人が産んだ天才と称される王子がいる限り、跡継ぎに関しては盤石だと語られていた。だが十年前大氾濫が終わる頃、第一夫人と第二夫人、そして彼女たちの子である王子や王女たちが、戦場で、避難先で、事故で、病気で、ことごとく死んでいった。
気が付いた時には、マリアナは大陸最大のアクロシア王国の国母となり、優秀過ぎる娘ラナリアは国内で絶大な影響力を持ち始め、赤子だった息子は唯一の後継者、王太子となった。
そうして第三夫人マリアナが三十歳になる頃、アクロシア王国はエルフの国エルディンに侵略される。エルディンの王の力は絶対で、あらゆる人間を奴隷にしてしまえるほどだった。マリアナもエルディンの王の奴隷にされてしまう。
されてしまい、初めて気が付いた。
自分がずっと誰かの奴隷だったと。
その日、アクロシア王国では天空の王フォルティシモ陛下と娘ラナリアの婚約祝い、かつ天空の国フォルテピアノとアクロシア王国同盟結成の祝典が行われた。
王国中を転移魔術で繋いで貴族や平民など大勢を参加させ、ドラゴンたちが空を飛んで文字を描くなどのパフォーマンスで、天空の国フォルテピアノの力を見せつける形となっている。
アクロシア王城で開催されるパーティに出席するために身なりを整えていたマリアナは、フォルティシモ陛下から貰った魔法道具を握り締めた。別にフォルティシモ陛下に懸想をして、彼を思っている訳ではない。
魔法道具を起動するための言葉を告げた。
「イグニシオン」
ロザリオが光り出し、虚空に光で文字を描く。
> 【隷従】を掛けられていません
フォルティシモ陛下が御自ら手作りしてくださった魔法道具は、マリアナが【隷従】を受けているかどうかを調べるためだけの機能を持っていた。
マリアナは日に何度もこの魔法道具を使い、この文字を見ては安堵を得ている。
「お母様」
「ひっ!?」
娘ラナリアが尋ねて来たことに思わず驚きの叫びを上げてしまった。
今やアクロシア王国での娘ラナリアの勢力は絶対的だ。あの天空の王フォルティシモ陛下の寵愛を受けている上、親衛隊は大陸最強のレベルまで上昇し、新設された空軍は事実上ラナリアの手の平の上、ラナリア派と呼ばれる派閥の勢いは尋常ではない。政治にも軍事にも圧倒的な影響力を誇っていた。
もはやラナリア派でなければ政界を生き残れないと囁かれるほどで、母親であるマリアナを懐柔しようと擦り寄ってくる者も引っ切りなしに現れる。
「ら、ラナリア。驚きました。フォルティシモ陛下とパーティの準備をしていたのでは?」
正直に言えばマリアナは、娘ラナリアが怖い。
初めて会った時にフォルティシモ陛下へ娘の印象を語ったのは、何の偽りもない本音だった。十年前に命を落とした第一王子が天才だったと言う称賛が霞むほど、娘ラナリアの才覚はずば抜けていると思っている。それは母親の贔屓目ではなく、母親だからこその恐怖だ。
時代が違えば、ラナリアが男子だったら、きっと、今、あの王座に座っていたのはラナリアだ。
悲鳴はなかったことにして、平常心を心掛ける。マリアナの侍女や護衛騎士たちも、マリアナの奇声よりもラナリアの存在が気に掛かって仕方ないらしい。
「フォルティシモ様が参加されるパーティまで、少し時間ができましたので、お母様に会いに来たのです」
「ラナリアが、今、私に?」
マリアナはたしかにラナリアに比べれば劣る。取り分け頭脳の面では、子供と大人の差があるだろう。けれどそれはラナリアが異常なだけで、マリアナが殊更に愚かという訳ではない。
少なくともマリアナ自身は、周囲の人たちが凄すぎるだけだと思っている。
「何か、心配事? 私にできることであれば、その、頑張って、みますけど」
珍しく娘ラナリアがマリアナの前で逡巡を見せた。
「その、変なことを尋ねるようですが、お母様はフォルティシモ様のことをどう思われましたか?」
「フォルティシモ陛下? 私は、あまり親しいお付き合いはないですから、印象を聞かれても………」
マリアナは思わず本心を答えようとして、頭を振った。これから結婚する娘から、結婚相手の印象を聞かれている状況だ。母親として答えるべきは、天才ラナリアではなく娘ラナリアへの言葉である。
「誠実な方だった、と思います。あの時、私の願いを聞き入れる必要はまったくなかったのに、フォルティシモ陛下は聞き入れてくださった上、私の気持ちを汲み取って、その後のことも手配してくださいました」
マリアナはフォルティシモ陛下から貰ったロザリオを握り締めた。
「フォルティシモ陛下が、アクロシア王国を手に入れたいだけなら、ラナリアのことだけを見ていれば良いのに、私のことまで気遣ってくださったのは、陛下のお人柄が表れているのだと思います」
マリアナにしては精一杯の言葉だったのだけれど、何故か娘ラナリアから不満の感情が伝わって来る気がする。
「ラナリア? どうしたの?」
「フォルティシモ様が好まれそうな献身ですね」
マリアナは実の娘であるラナリアから、まるで王妃を競う令嬢たちからの視線を向けられて戸惑いを隠せない。
「お母様、隠しても仕方がありませんので、私の懸念を率直に申し上げます。フォルティシモ様には二つの大きな好みがあり、その片方に、お母様は合致しています。だから、お母様にはあまりフォルティシモ様に近寄って欲しくないのです」
マリアナがあの天空の王フォルティシモの好み? 実の父に政争の道具として婚姻へ出され、哀れみで抱かれ二人を妊娠し、今でも何の役にも立たない王妃が?
「お母様がフォルティシモ様の歓心を得ようとすると、私の優位性が少々失われます。………いいえ、その、嫉妬してしまうかも知れません」
「ラナリア? 何を言っているの?」
「忠告はいたしました。フォルティシモ様のことに関しましては、たとえお母様が相手でも容赦はいたしません」
「大丈夫だから! 私は、母親だからっ!」
アクロシア王国で行われた式典は順調に進み、マリアナはフォルティシモ陛下にも無難に挨拶を済ませることができた。
今、アクロシア大陸は未曾有の危機に晒されようとしている。マリアナも何度か大氾濫を経験しているけれど、今度の大氾濫は規模も意味も違うのだと王城内で囁かれていた。それを聞くだけで、身体が竦む。
前回の大氾濫では、大陸最強のアクロシア王都の防衛さえ決壊し、王妃やその子供たち大勢の王侯貴族が命を落とした。マリアナとその子供二人が生き残れたのだって奇跡だ。
しかしそれでも、王宮は希望に包まれている。
魔物など、天空の王フォルティシモが蹴散らしてくれるのだから。
昨今のアクロシア王国の貴族界は、如何にして天空の王フォルティシモへ取り入るかという話で持ちきりだ。
心なしか貴族たちの表情にも余裕がある。今までは話の通じない大氾濫の魔物が相手だったけれど、天空の王フォルティシモは話が通じる相手だから、自分たちの得意分野だとでも思っているのだろう。
マリアナは夫であるアクロシア国王に体調が優れない旨を伝えて、パーティを先に辞した。圧倒的な強国である天空の国フォルテピアノのフォルティシモ陛下が居る内に退席するのは、それだけで失礼にあたるのがマナーだったけれど、ラナリアの母親であることでギリギリで許されるだろう。
そんなマリアナが護衛騎士を連れ立ってアクロシア王城の自室へ向かっていた時、有り得ない邂逅をする。
「何をやってる。早く戻れ馬鹿主」
「やはりこの作戦には無理があった。まずキュウが居ないんだぞ」
「だからどうした」
廊下に二人の人影がある。
「ふぉ、フォルティシモ陛下!?」
フォルティシモ陛下が参加しているはずのパーティから抜け出して来たら、フォルティシモ陛下と出会った。マリアナの護衛騎士は驚き過ぎて放心しているけれど、放心したいのはマリアナも一緒だ。
「あれだ、名前は忘れたが、ラナリア母だな」
「ご主人様、ラナリアさんのお母さんの、マリアナ王妃陛下です」
「エン、じゃなくてキュウ、そうだったな」
フォルティシモ陛下はいつも連れている黄金狐の少女を伴っていて、黄金狐の少女がマリアナの名前を呼んだ。黄金狐の少女は娘ラナリアも一目置く、というか天才ラナリアさえも敗北を認めるキュウである。
マリアナから見ると、奴隷という身分から大陸を支配する天空の王の第一夫人まで登り詰めた天才と言えるだろう。血筋と祖父の思惑で嫁いだマリアナとは、天と地ほども違う相手だ。
キュウは完璧なアクロシア王国の礼儀作法に則って挨拶をしてくれたのだが、マリアナはそれに答えられなかった。視線から動作まで完璧すぎて、まるで指南書が飛び出して来たような所作に寒気がする。本当に人間なのだろうか。
天空の王フォルティシモ陛下からの寵愛、圧倒的なレベル、娘ラナリアさえも認める才覚。
恐怖以外に何を感じろと言うのだろうか。
「きゅ、キュウ王后陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅう存じます」
マリアナが失態を取り戻そうと躍起になっていると、フォルティシモ陛下は溜息を吐いた。
「お前、本当にラナリアに似てないな」
「それ、は」
「でもそうだな。別に家族だからって似る道理はない。俺も家族の誰にも似てないってよく言われる」
その瞬間、マリアナはフォルティシモ陛下が酷く身近に感じられた。アクロシア王国の貴族界に影響力を持つ父、天才と呼ばれる娘ラナリアに挟まれたマリアナだけれど、二人とは似ても似つかない。
もちろん家族が似ていないなんてありふれた話であり、他の誰かに聞かされてもマリアナの心は動かなかった。けれどもフォルティシモ陛下はマリアナよりも遙か圧倒的な格上にいる人で、そんな人でも家族関係に悩みを抱えていると思うと、身近に感じられてしまった。
そうしたらフォルティシモ陛下が伝説から飛び出して来た天空の王フォルティシモ陛下ではなく、家族関係に悩む一人の男性に見えて来た。
「どうした?」
「い、いえ、何でもございません。フォルティシモ陛下は、パーティへお戻りになられないのでしょうか?」
「そう、だな。正直、貴族の挨拶が意味不明な上に、つまらなくてやってられないが、後でラナリアに文句を言われるのも嫌だしな」
「そう、ですね。本当に、大変、なのですが。戻らないと、後でラナリアに何か言われるかも知れません」
「………お前もトイレと言って逃げて来たのか?」
「その………………………はい、仰る通りです」
フォルティシモ陛下とマリアナは、思わずといった調子で同時に苦笑した。
「疲れるが、戻らないとな」
「ラナリアのことで話していた、と言えば疑われません。少し休んでから、一緒に戻るのはいかがでしょうか?」
「良い案だ。どれだけ引き延ばせる?」
マリアナはすっかり忘れていた、子供の頃に悪戯を思い付いたような気持ちでフォルティシモ陛下へ提案する。
黄金狐の少女の困ったような表情が印象的だった。




