第三十五話 修練の迷宮 後編
新しい場所へ行く時は、いつも緊張する。
今朝、キュウは主人からいつもよりも強い魔物が居るダンジョンへ行くと言われ、首肯しながらも身体を強張らせた。実を言えば、昨日ラナリアが同行すると聞いて、キュウよりも一〇〇以上レベルが低く何よりお姫様であるラナリアが一緒なので、慣れたダンジョンで連携やスキルの確認をするものだと思っていたのだ。
しかも天烏という主人が使役している大きな白い鳥の魔物に乗って遠くまで行くという。それを聞かされてあの日主人に抱き締められたことが再び頭に蘇り、頭の中がぐるぐると混乱してしまった。
ラナリアとシャルロットと合流し、今度は自分で天烏へ乗り込み、眼下へ広がる雲や青い海を見ると緊張が吹き飛んで感動が全身を駆け巡った。視界いっぱいに広がるこの光景は、主人と出会わなければ一生見ることなど出来なかっただろう。
空の太陽はいつも以上に近く、正面を向くと目を開けていられないほど強い風が吹いている。空気は澄んでいて、空飛ぶ鳥たちを追い越して景色が流れていく。地平線の向こうまで真っ青な海が広がった時は、思わず感嘆の声が漏れた。
主人に触られてから更に気合いを入れて梳かしていた尻尾の毛が、風に煽られてぼさぼさになってしまったが、それすらも何だか楽しい。
主人もこの景色を見て感動しているだろうと思い目をやったが、キュウの主人は宿の部屋に居る時と何ら変わらない態度で、虚空に手を掲げて何かをやっていた。主人が楽しそうな表情を見た記憶がないことに気が付いて、残念な気持ちが胸の内に広がるものの、これから行くのはアクロシア周辺とは比べものにならないほど強力な魔物が居る場所なので、主人のように準備を怠らない態度こそが正しいと思い直した。
やがて大海原の中にぽつんと浮かぶ島が見えて来た。歪な菱形を四つ繋げたような何とも言えない形をした島で、上からでも綺麗な砂浜が見て取れる。中央付近には木々が生い茂り、唯一の建造物として神殿のような建物がそびえ立っている。大きさはアクロシア王国の王都にある教会と同じ程度で、数百人が入ったらすぐに大混雑になってしまうだろう。
主人は島の中で最も広い砂丘へ降りるように天烏へ指示を出し、頭の良い鳥である天烏は了解の意を示す鳴き声を一声あげた。
無人島と思わしき場所へ降りると、主人はこれから行くダンジョンの説明をしてくれて、ラナリアとシャルロットに真珠のペンダントを渡していた。キュウが身に着けている腕輪と同じ効果のある魔法道具らしく、相変わらず値段が付けられないほどの価値が有りそうだ。主人は同じような効果の魔法道具を、いったいいくつ持っているのだろうか疑問に思う。
「あの、実はですね。私はこうした冒険は初めてなのです」
ラナリアが申し訳なさそうに口にした。しかし謝られるまでもなく、王女であるラナリアがダンジョン探索へ気軽に来られるはずがないことはキュウにだって分かる。
「経験豊富だったら驚くが」
主人も同じ気持ちだったようで、気にした風もなく呟く。
「至らない点がありましたら注意をお願いいたします。そしてよろしければ、フォローして頂ければ」
ラナリアはキュウを見た。キュウは主人を見る。
主人はキュウを見ていた。
「………?」
どう考えてもダンジョン内のことなら主人以上に詳しい人物など居ないのに、主人もラナリアもキュウに視線を集めていた。
「キュウ、ダンジョン内でトイレの方法を教えてやってくれ」
「あ、はい」
「ほんとうにデリカシーが無い方だったのですね!?」
「ラナリア様、ここはレベル五〇〇を超える魔物が生息する危険な迷宮なのです。このような場所では紳士的な対応を求めることは、むしろ命を危機に晒すものです。私としてはどんな時でもフォルティシモ様の傍を離れないようお約束を頂きたい程です。羞恥心などお控え下さい」
「うっ。シャルロット、ありがとう。フォルティシモ様、キュウさん、失礼しました」
普通の冒険は確かにそうなのだろうけれど、主人との冒険は違う。主人はそういうことを気にするし、そのために魔力による結界を張って魔物が一切近づかない安全地帯を作り出すという魔法道具を渡されている。聞いただけで凄い魔法道具だと分かるそれを、キュウは遠慮なく使っている。我慢して迷惑が掛かるのはキュウではなく主人だからだ。
「加えて、それだけでなく、魔物との戦いの経験もほとんどありません」
「え? そんなに高レベルなのにですか?」
ラナリアが気を取り直して申告する内容に、キュウは驚いた。ラナリアのレベル三二〇は、アクロシア王国の騎士の平均レベルよりも高い。そんなラナリアが魔物との戦いの経験が少ないとは信じられない。
「この場に居る皆さんの中では随分と低いレベルですけどね」
キュウの疑問に対して、ラナリアは苦笑を浮かべた。しかしよくよく考えて見ると、低いというならば主人のレベルである驚愕の九九九九から見れば、誰でも低レベルに見える。
「私は騎士たちに守られながら、背後から魔術を使っていただけです。そのため戦闘経験はほとんど無いのです」
「PSには期待してない。だが、出来ないことを出来ないと言えるのはパーティプレイでは重要だ。ラナリアの言葉は正しい。出来ることと出来ないことは遠慮せず言え」
PSとはなんだろうか。聞くべきなのだろうとは思うけれど、これからの冒険に必要な単語であれば教えてくれるはずなので、今は心の中のメモ帳に記載するだけに留めておく。
「ありがとうございます。では、しおらしくするのはここまでなので、よろしくお願いしますね」
ラナリアは表情をくるっと変えて、楽しそうな笑顔になった。
「………おい、ここまでってどういう意味だ?」
「キュウさん、頑張りましょう。レベル五〇〇を超える魔物が多数出現するなんて、どんな場所なのでしょうか。私はとても緊張してしまいます」
「はい、私もです」
キュウはラナリアに手を取られて中央の建物へと向かっていく。
神殿のようだと思った建物は、近くで見てみると神殿そのもので彫刻を始めとした飾りも綺麗に作られていた。
「フォルティシモ様、触ってもいいですか?」
キュウは何が起こるか分からないと考えて触りたいと思わなかったが、ラナリアは神殿に設置されている石像へ近づくと主人に問いかけていた。
「ただの石だぞ」
「なら平気ですね」
ラナリアがペタペタと触る様子を真横で見ていると、本当にただの石らしいと分かり思わず自分でも触っていた。ざらざらとした石の手触りがする。ただの石である。
「さっさと行くぞ」
「も、申し訳ありません」
主人の言葉にキュウも自分が油断していたことを自覚して謝罪を口にする。
「興味深い作りなのですけれど」
主人に促されて神殿の中へ入っていく。こんな孤島にぽつりと建っている神殿の中に何があるのかと思いながら恐る恐る入ると、あるのは祭壇と祭壇の中央に見える地下への階段だけだった。
「階段を降りた瞬間に襲われる可能性は?」
「無いと思うが、一応俺が先に入る」
「フォルティシモ様は、主人なのですよね?」
「そうだが?」
シャルロットが不思議そうに口を挟み、主人は当然のように肯定した。
「率先して危険を引き受けて頂けるのですか?」
「この程度、俺にとって危険だとでも思ったか?」
ラナリアの質問に対する主人はどこか嬉しそうだ。ラナリアも満足そうだった。
主人に連れられ降りた先は広い通路になっており、いくつもの松明に照らされていて明るさには困らない。
「誰かが住んでいるのですか?」
シャルロットが警戒した様子で剣を抜いた。キュウも釣られて剣を抜く。
「なんで剣を抜いた?」
「松明に火が入っています。何者かが先に侵入したか、誰かに使われていたのでしょう」
「………」
珍しく主人が黙ったので、キュウは周囲を警戒することを忘れないようにして主人の様子を窺う。もしかしたら主人にも想定外の事態が起こっているのかも知れない。
「………これらは魔法道具で、永遠に消えることがない松明なんだ」
「そんなものがあるのですか?」
「炎の消えない松明。持って帰りたいほどですが、あの大きさだと運ぶのは困難ですね。天烏さんも嫌がりそうですし」
シャルロットとラナリアは感心をしていたが、主人の最後の一言「………たぶんな」をキュウの耳は聞き逃していない。
松明を調べようとしているラナリアたちに聞こえないように、主人に話し掛ける。
「あの、異常事態、なのでしょうか?」
「どうした?」
「松明が」
「ああ、松明な。俺の常識だとああいうギミック、消えない松明は当たり前のモノだったから調べようと思ったことがない。だから自信はないってだけだ。気にしなくて良い」
安心して胸をなで下ろす。主人からすれば消えない松明という魔法道具なんて、珍しくも何とも無かったから気にしなかったのだ。考えてみればレベルアップの速度を何百倍にしたり死者蘇生ができたりする魔法道具に比べたら、消えない松明なんて魔法水みたいなものだ。
「キュウ、さっき雷迅剣と同種の白光剣を設定しておいた。第一層は闇属性の敵が多いから使え」
「はい」
これは【剣術】と【光魔術】の複合魔技だ。“複合魔技”というのはキュウが便宜上心の中で呼んでいるもので、主人は詳しい説明を丁寧にしてくれた。理解することができなくて申し訳なく思っている。
とにかく、この複合魔技というのはアクロシア王国の騎士たちさえ使うことのできない、複数のスキルを同時発動する魔技で、魔力の消費が倍以上となるものの威力や範囲など信じられない効果を発揮する。
こんなものを練習もせずにいつの間にか自分が使えるようになっていることは、意図的に考えないようにしている。
「おい、お前ら、そんなもんに感心してないでこっち来い」
「アクロシア王国で売り出せば、数百万ファリスは下らない品ですよ?」
「冒険者はこういった品物を手に入れるために、危険に身を投じているのではないのですか?」
キュウも言われてはっとする。主人はレベルのことばかりで、レベルのためにお金を湯水の如く注いでいるようだった。こういうお金になるような物を欲しいと思わないのだろうか。
「俺は強くなるためにやってる。キュウはレベリング前から荷物を増やそうなんて、下らないこと言わないぞ」
単に思い至らなかっただけだとは言い出し辛い。
ラナリアとシャルロットがやって来るのを確認して、主人は魔術を使った。
「識域・上昇」
キュウ、ラナリア、シャルロットの身体が淡い赤色で包まれる。
主人がキュウに掛けてくれる補助魔術だった。補助魔術は力が強くなったり、足が速くなったり、防具が固くなったりすることを目的として使われる魔術だが、効果がそれほどでない上に効果時間が短く人気のない魔術だ。
しかしながらそんな補助魔術も主人が使えば、劇的な効果と長い効果時間を持つ強大な魔術となる。
「これは」
「全ステータスを五十パーセント上昇させた。三十分ごとに掛け直す。行くぞ」
「お待ち下さい。その魔術、私にも使えますか?」
「スキルレベルが足りないから無理だ」
「つまり、スキルレベルさえ上げれば使えるようになると?」
「俺の従者なら、俺が使えるのはほとんど使えるようになる」
主人の言葉を聞いて、ラナリアは少し考え込んだ後、キュウへ笑顔で話し掛けた。
「キュウさん、聞きましたか? 頑張りましょう!」
「はい」
主人は虚空に手を伸ばして指を動かす、いつもの動作をする。
「ラナリア、お前も【光魔術】を使え。デフォルトのレイを上書きしておいた」
「私のレイが、まったく別物になっていると考えてよろしいですか?」
「スキルの種類は一緒だがな」
「ありがとうございます。シャルロット、あなたもフォルティシモ様に仕えることを検討したほうがいいかも知れないわ」
「ラナリア様、油断なさらないで下さい」
ラナリアはやる気に満ち溢れていても冷静な部分は残っているようで、一人で進んでいくような真似はせず、主人が動き出すのを待っている。主人が歩き出すと、皆でその後を追っていく。
主人に連れられて来たダンジョンの第一層に現れる魔物に対して、キュウは主人から指示された魔技を使う。
「白光剣!」
キュウの持っている剣は光を纏い、出現した骸骨のような魔物に突き刺さる。骸骨は悲鳴を上げることなく消滅していった。
「レイ!」
ラナリアの唱える魔術は“レイ”という【マジシャン】なら誰もが覚える【光魔術】の初歩だったが、主人が「上書き」したことにより、全く別の魔術へと変貌を遂げていた。従来は細い光線が出るだけの魔術であるが、今ラナリアの唱えたレイは蛇のようにうねる四つの光線が、敵に向かって追走する魔術になっている。
と、言っても。
主人の魔術で氷漬けにされた魔物を攻撃するだけの作業なので、魔技や魔術の強さは何も関係がない。
キュウも以前は氷漬けの魔物が突然動き出したら危険ではないかと思っていたのだけれど、一ヶ月以上に渡って主人と過ごしてれば、そんな心配をすることが馬鹿馬鹿しくなってすっかり慣れてしまった。
ラナリアとシャルロットも同じように慎重になっていたようだが、キュウが遠慮なく攻撃する姿を見て二人も現状を理解したようだった。主人によって常識を破壊された仲間が出来たという気分になる。
「ご主人様、素材です」
「ああ」
キュウが魔物が落とした素材を渡すのは、主人に献上しているのではない。もちろんキュウは素材はすべて主人の物にするのは当たり前だと思っている。しかしこの主人はキュウが集めたものも独占なんてしない。
インベントリという信じられないスキルによって、素材は主人が預かり、冒険が終わったらギルドの依頼に必要な分をキュウに渡してくれるのだ。その他、有用な素材は主人がアイテム精製を行って、同じようにキュウにくれる。宿代から食事、冒険に必要な装備や薬は主人がすべて揃えてくれるため、主人の取り分がどこにあるのか不思議に思うくらいだ。
「あの」
ラナリアが素材を収納する主人を凝視していた。
「それは、何をしているのでしょうか?」
問われた主人は手を止めて、少し考える素振りを見せた。
「インベントリにドロップアイテムを仕舞ってるだけだ。ギルドマスターはインベントリを使っているように見えたが、お前は使えないのか?」
「インベントリ? 申し訳ありません、私の知識にはないようです。シャルロット、ガルバロスは使っているそうだけれど、何か知っている?」
「いえ、私も初見です。武器収納に似ていますが、物品を空間に格納できるスキル、ということでしょうか。戻ったらガルバロスを問い詰めましょう」
「ま、待て」
主人が慌てた様子で制止する。
「俺の勘違いだった。俺が使っているのはギルドマスターとは違う。インベントリというもので、ある程度のアイテムを、空間から自在に出し入れできるものだ」
「今更フォルティシモ様が何を出来ると言われても驚きはしませんが、それはどの程度の物品を格納できるものなのでしょうか?」
キュウは主人のインベントリに関して詳しく聞いたことは無かったものの、その異常性は理解できている。冒険で手に入れたアイテムを悉く格納しているし、それ以外でもキュウが知らない魔法道具の数々が収納されている様子だ。
「俺の場合は課金で増やしたからな。千スロット、千種類を九千九百九十九個だな」
「………聞き間違いでしょうか。一千万個近い物品を、格納できると聞こえた気がしますが」
「ああ、最大値だとそのくらいだな」
主人もラナリアも大きな数の計算が簡単に出来るようで、そういった教育を受けていないキュウは少し羨ましい。キュウは計算結果の一千万個と聞いてもピンと来ないくらいなのに。
「まさか、武器や食料も、それだけ運べると?」
「スロットが全部空いてるわけじゃないから、そこまでは無理だが。というか、お前ら俺が手ぶらでダンジョンに来たとでも思ってたのか」
食料やテントなどはすべて主人のインベントリに入っているから、キュウは荷物のことを考えなくていい。
「キュウさんは使えるのですか? 私は使えるようになりますか?」
「フォルティシモ様の奴隷になれば使えるのでしょうか?」
ラナリアは氷漬けのモンスターへの攻撃を止めてまで、主人へ質問をしていた。それはシャルロットも同じだ。キュウは以前から超レアスキルだとは思っていたが、主人のインベントリはラナリアとシャルロットが正気を失うほど凄いスキルなのだろう。
「なんとかキュウにも使わせたいんだが、方法が見つからない」
「え、私がですか?」
「回復アイテムの袋を持ったまま戦うのは不便だろ?」
それが普通なので何も言えない。
「もし与える方法を見つけられましたら、キュウさんの次で良いので私にもお願いいたします」
「見つかったらな」
主人に出会ってから常識知らずな人だと思っているけれど、常識知らずなのはキュウのほうで、実は主人の知識こそが常識なのかと心配にはなっていた。それは常識を指摘することも仕事だと言われたキュウにとっては、存在意義が一つ減ってしまうようなものだからだ。しかしラナリアとシャルロットの驚き様がキュウ以上で少し安心した。
少しばかり気持ちが楽になり、いつも以上に気合いを入れてスキルを使っていく。