第三百四十九話 存在定義
その当時、クレシェンドは神戯が開催されている異世界ファーアースで、近衛天翔王光に与えられた役割を終えて元の世界へ帰還した。
神戯から穏便に脱落し、元の世界、元の生活に戻ることは、幾人ものプレイヤーが目指した夢でもある。これは当時のクレシェンドには知り得ない話になるが、フォルティシモの前に立ち塞がったヒヌマイトトンボや不用意に異世界転移してしまったプレイヤーたち、その誰も実現できなかった。
正確には、実現ではなく許可されていなかったのだ。
「母なる星の女神よ、【リザイン】コマンドを使います。この大いなる戦いに導いて頂けたことに感謝を」
神戯参加者には違いがある。それぞれの才能の違いから来る権能の効果や、ファーアースオンラインの進行度による能力の上下だけではなく、そもそも異世界転移、異世界転生させた神の違いだ。
狐の神は神戯参加者たちへ丁寧に説明を行い、その後も支援を行った。ある神はほとんど騙す形でチームごと転移させた。ある神は一人の青年の勝利だけを願った。
その中で母なる星の女神は、元の世界へ戻ることも許容している。元の世界の肉体が既に死んでいれば、その選択をした瞬間に元の死体へ戻るだけだけれど、そうでなければ戻ることができるのだ。
この点ばかりは、クレシェンドも母なる星の女神の権威に感謝していた。
代わりに、このクレシェンドという神戯参加者は母なる星の女神のものになるのだけれど、クレシェンドは近衛姫桐の傍を二度と離れるつもりはなかったので、神戯参加者としての権利などどうでも良かった。
クレシェンドが元の世界へ帰還した日、近衛姫桐の元へ帰るため、彼女の情報をネットワークから取得した。皮肉なことにそれはすぐに見つかる。
その内容は、近衛姫桐は夫と息子と共に何者かに拉致され、現代ネットワークでは見つからない行方不明だということ。誘拐犯からの要求の期限は、クレシェンドが知った時点で過ぎていて、近衛一家の安否が心配されていた。
クレシェンドはその能力や残していた金をすべて使ったが、見つかった時は遅かった。近衛姫桐は瀕死の重傷で、自宅の自室の中で倒れていた。
近衛翔やクレシェンドたちの目の前で、近衛姫桐は死に絶えたのだ。
事件の顛末そのものは単純なものだった。急激なVR化、AI化によって職を奪われた人々が過激な集団を作り、近衛天翔王光を脅すというもの。現代リアルワールドで毎日起きる事件の中では、一年も経てば忘れ去られるような話だ。
しかしクレシェンドは、その裏側に太陽の女神の意向があったことを知る。
太陽の女神は近衛天翔王光を神戯から脱落させるため、現代リアルワールドの人間を利用した。本人―――本神が肯定しているほどなので、疑う余地もない。
近衛天翔王光が神戯に参加しようなど考えなければ。
太陽の女神が神戯をリアルワールドへ持ち込まなければ。
近衛翔がすぐに病院へ連れて行っていれば。
クレシェンドはこの三人を絶対に許さない。
「神戯へ戻りたい? よく言うでしょ。運命の女神は前髪以外ハゲてるんだよ。まあ、あいつはその風評被害のせいで、やたら髪を伸ばしてるけど」
クレシェンドは母なる星の女神と再び邂逅した。本来であれば母なる星の女神に軽々と拝謁などできず、まして願いなど口にできるはずがない。
母なる星の女神へ直接の嘆願ができる確率を統計学的に表せば“人間が神に出会う確率”である。しかしクレシェンドはそれを達成した。
『無理は承知でお願いを申し上げております。どうか! 私に姫桐様の仇を取る機会を頂きたい!』
女神はクレシェンドとの会話中にも何かのゲームをやっているようで、コントローラーを手放していない。VRゲームではない、レトロゲームのようだった。
「こちらのメリットは?」
『姫桐様に関わらないことであれば、母なる星の女神の道具となりましょう。異世界ファーアースの管理でも、調整でも、お望みの者を勝たせることでも、何でもこなしてご覧にいれます』
「あははは、愉快じゃないこと言う」
彼女はコントローラーを机に置き、クレシェンドが会話しているスピーカーを見る。その虹色の瞳は、間違いなくクレシェンドの本体まで届いていた。
「あそこの管理は、私の信頼する従属神に任せてある。お前が私の歓心を引き出したいなら、こう言って欲しい。自分が神戯を勝利して、太陽神を殺して楽しませるから、見てくれ、ってね」
最初にアルファ版ファーアースを開発し、幾多の世界と大勢の神々に配った狂気の女神。その神威は疑う余地もなく本物だった。
『これより太陽神が堕ちる様を、どうぞご観覧くださいませ』
「良いだろう。この私、マリアステラの名を以て、近衛天翔王光が作ったAIナンバーゼロゼロワンの、クレシェンドの神戯への参加を認めよう」
『偉大なる母なる星の女神へ、心よりの感謝を申し上げます!』
母なる星の女神が再びコントローラーへ手を伸ばし、その手を止めた。
「ああ、そうそう。私から、一つあった」
『はい。先ほども申し上げましたが、姫桐様に関わらないことであれば、どのようなことでも全力で当たらせて頂きます』
「黄金の毛並みの狐人。その動向、把握しておいて」
『………珍しい色ですので、不可能ではないと思いますが。動向を把握するだけでよろしいでしょうか。危機に瀕した際に助けに入る必要があるのであれば、事前に助ける内容の摺り合わせをさせて頂きたいのですが』
母なる星の女神は止めた手を再び動かして、コントローラーを手に取った。そのままゲームの続きを始めてしまう。
「把握するだけで良いよ。その方法も問わない」
『黄金の狐が、母なる星の女神の敵となるのであれば、排除のために動くことも―――』
「一つ、付け加える。お前が、黄金狐を傷付けることは禁ずる。あれだよ。運命に、任せるように」
『………委細、承知いたしました』
母なる星の女神が黄金狐にこだわっているのは間違いない。けれども、それはクレシェンドにとっては無関係な事柄だった。太陽神も近衛翔も近衛天翔王光も、黄金狐とは程遠い存在。そうであれば、これ以上は女神の意向に沿って行動しておくだけで充分だろう。
そう思っていた。この時はまだ。
クレシェンドは再び異世界ファーアースの地へ戻って来た。神戯の舞台となっている異世界ファーアースは、クレシェンドが知る頃からすっかり様変わりしていて、まずは情報収集から始めなければならなかった。
その中でクレシェンドは狐の神と再会し、友好的な関係を築くことに決める。クレシェンドの知る黄金狐とは、狐の神のことだったからだ。
やがて時は流れ、クレシェンドと狐の神はお互いの腹の内を少しだけ晒す機会に恵まれる。
「近衛天翔王光、そしてそれを脱落させるために殺された娘かえ」
「つまらない話をしてしまいましたね。私は他の者とは違う。神に成るためではなく、姫桐様のために神戯に参加しているのです」
「そういうことならば、これで得心がいったかえ」
「軽蔑しても構いません。私が神戯に戻ったのは、姫桐様を失わせたすべてに復讐を果たすためなのです」
その時、返礼とばかりに狐の神も彼女の事情を話してくれた。それはクレシェンドとは交わることのないもので、お互いが目的のために裏切ったとしても、理解はできるものだった。だからクレシェンドは狐の神を信じた。
VRMMOファーアースオンラインの管理者としての権限を持ちつつの参加、信仰心エネルギーFPを充足し、大勢のプレイヤーを利用し、時には抹殺して来た。異世界ファーアースの時間にして千年。
すべては近衛姫桐殺害の主犯、太陽神を滅ぼすために。
近衛姫桐が生まれた時に、彼女をサポートするために作られたAIは、彼女を失った時、それ以外の目的を存在定義できなかった。
その時点で、クレシェンドというシステムは破綻した。
それはどこまでいっても、人間とAIの違いなのだろうか。
生まれた意味は、誰が定義するのか。人間なら分かるのだろうか。
◇
クレシェンドが使っていた肉体である亜量子コンピュータは、フォルティシモとその配下セフェールに敗北した。
それでもクレシェンドは消えていない。フォルティシモは亜量子コンピュータこそがクレシェンドの本体だと思っていたようだが、それは間違っている。クレシェンドの本体は世界最高のAIで、実体を持っていない。目的を達成するまで、決して活動を止めない。
時間さえ掛ければいくらでもチャンスはある。何百年だろうが何千年だろうが、目的のために動き続けるのがAIだ。
クレシェンドはフォルティシモが『ユニティバベル』の最上階へやって来た時点から、己のデータを可能な限り電磁波に乗せて流していた。
それは魂のアルゴリズムと同じで、新しいスペアの身体へクレシェンドを移す作業と言って良い。オカルト的な言い方をするのであれば、クレシェンドは一時的に幽霊となった。
その途中で、“無意識”にその美しい和式庭園へ吸い寄せられた。
和式庭園はいくつかの池に錦鯉が泳いでいて、それぞれの池の間には橋が架かっている。庭園に敷き詰められている石は一つ一つ選別したのを思わせる綺麗な白いもので、リアルワールドでこれだけの石を集めるとしたら、それだけで多額の費用が発生すると思わせた。
その和式庭園はクレシェンドにとって、リアルワールドのことを思い出す程度には見覚えがある。
「ここ、は」
その場所は、クレシェンドのすべて、近衛姫桐が幼少期を過ごした屋敷に併設された和式庭園そっくりだった。幽霊の状態で長く立ち止まっていれば消えてしまうと思いつつ、近衛姫桐と幾月も過ごした庭園を目の前にして動けなくなってしまった。
そんなクレシェンドに語り掛ける声がある。
「キュウはあそこの池が気に入ってくれたようなの。私もそうよ。あの池って丸いでしょう? ちょうどあの池に映る満月が、とても綺麗なの。あの家よりも空が近いから、描かれる満月も大きいわ」
黒髪で着物を着た美人が、クレシェンドの前に立った。




