第三話 最初の敵
異世界へやって来てしまったらしい。それを理解した時、帰れるのだろうかとは思ったものの、何としても帰らなければならないという焦燥感が湧いて来ることもなく、まるでファーアースオンライン2が始まっただけのような気持ちになった。こんなことだからテレビでは“VR世代”などと現実感を理解できない世代だと揶揄されるのだろう。
独身の一人暮らし、彼女もいない、リアルで特別仲の良い友人もいない。両親でも兄弟でも愛する家族が一人でも健在であれば何とか帰る方法を考えただろうけれど、居るのは顔も見たくない親戚だけ。現実の自分の身体がどうなっているかは知らないが、行方不明にでもなっていたら親戚たちは大喜びで自分の遺したものを奪い取っていくだろう。
どうせ戻ってもほどほどに働いて、それ以外は毎日ファーアースオンラインをやることになる。トイレや食事が面倒だと思ったことは、一度や二度ではない。このまま好き勝手に暮らして死ぬならば、この異世界で好き勝手やるのも同じだ。
そう思うと、驚愕に彩られた感情が前向きになっていく。ただ、この異世界でどうやって生きるかは考えなくてはいけない。異世界へ対するスタンスをどうするか、フォルティシモはそれを考えることにした。
フォルティシモは震えている女の子たちを見る。彼女たちはゲームの美男美女で製作されることがほとんどであるアバターと見間違える程度には、整った顔立ちをしていて可愛い。
もしも翔がフォルティシモとして、異世界に来たらこれをやろうと決めていた目標(妄想)の中に、ハーレムを作りたいは入っている。今すぐこの子たちをお持ち帰りしたい気持ちがないとは言えない。
しかし今すぐに目標へ向かって脇目も振らずに突っ走るのは、リスクが高すぎるだろうとも考えた。運営からのメールはすべての制限が取り払われるとあった。つまり今のフォルティシモは、あらゆるステータスがカウンターストップし、廃プレイ廃課金装備とスキルを限界まで強化した最強ではないのだ。
さしあたりは世界の常識、仕様を理解する必要があるだろう。ファーアースオンラインに似た異世界だと想定しているが、ゲームのシステムと違うはずだし、フォルティシモのまま食事やトイレをすることになる。
モンスターもゲームと同じとは限らない。未知の攻撃やフォルティシモすら越えるモンスターが居るかも知れない。そんなものと出会う前にゲームとの違いを早々に理解し、再びフォルティシモを最強にしなければならない。
フォルティシモはデモンスパイダーに喰われている死体を見る。どうも頭部だけ先に食べているようで、フォルティシモが異世界に来た動揺で考え事をしている間に、男たちは半数以下になってしまっていた。男たちの死体は大量の血液がぶちまけられ、骨と血肉でぐちゃぐちゃとなった首元だけが見えている。このグロさに慣れなければ、まともに戦えないな、と眉をしかめる。
「てか、これ見殺しになるのか? 害獣に出会った時、自分だけ逃げても罪にならないだろうな? 国によるのか? 法律とかも考えないといけないのか」
目の前で苦しんでいる人が居たら絶対に助ける、とまでは言わないが、翔だって人並の道徳はある。自動車に轢かれそうな子供が目の前に居たら、助けられそうであれば助けるくらいはする。しかし戦えば自分も死ぬかも知れない、という状況で、見ず知らずの男たちのために化け物に向かっていけるはずもない。まずは突撃してトライアンドエラーができるのは、ゲームだからだ。
マップレーダーにデモンスパイダーは映っていない。ボスモンスターは通常モンスターと違ってマップレーダーに映らない。これはボスモンスターの独占を防ぐために、また不意打ちの遭遇による危機感を演出するための仕様だ。レベル差によって色の変わるアイコンで青、つまり雑魚であれば安心もできたが、現状では分からない。
見た目デモンスパイダーが実は別種でメチャクチャ強かったら嫌だし、ここは女の子たちを連れて逃げるのが得策だ。
「君たちさ」
剣を落とした女の子に話しかけようとしたが、彼女の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。思わずぎょっとなって、目を逸らす。
剣を落とした女の子の背後から、神官の格好をした少女がフォルティシモの前に進んできた。全身が可哀相なくらい震えており、持っている杖をぎゅっと握っている。杖も服も帽子も、【プリースト】クラスの初期装備だ。回復系に補正のあるヒーラー職の中でも回復一点特化型、パーティに一人は居る大人気クラス。
腰まであるウェーブかかったロングの金髪も小柄な顔も涙や土で汚れていたが、それすらも綺麗だと思わせるほど、毅然と何かを覚悟した表情をしていた。元の世界でこんな目をする人間に出会ったことはない。
「どちらの方か分かりませんが、これをギルドへ持って、あの魔物の討伐隊を編成するように伝言して頂けないでしょうか? こちらは少ないですが、お礼です」
「ちょっと、フィーナ?」
神官の子が差し出して来たのは、運転免許証くらいのカードと布の袋だった。
「私たちでは、あの魔物から逃げ切ることはできません。ですが、あなたであれば逃げられるかも知れません」
「デモン………あの蜘蛛は強いのか?」
「あの方たちは、Cランクの冒険者でした」
捕まって生きたまま頭から食われている男たちのことだ。Cランクの冒険者という単語は分からない。ファーアースオンラインにおいてクエストシステムはレベル制だし、冒険者というのはあくまでプレイヤー全般を示しているだけで、ランク分けなどされていなかった。
神官の子はいつまでも受け取らないフォルティシモを不思議に思ったのか、表情が崩れた。泣き笑いのような表情。
「私が、囮になります。ですから、その間に」
ちらりとデモンスパイダーの様子を確認してみると、男たちは全員が首無し死体と成り果てている。できれば少女たちを連れて逃げたかったが、思ったよりもデモンスパイダーの行動が早かった。
「………仕方ないな。やってみるか」
これがよく知るVRMMOの異世界と思われる世界で無かったら、神官の子は胸が大きくて可愛いなど言わずに、見捨てて全力で逃げ出していたかも知れないけれど、ここはどう見てもファーアースオンラインだ。
フォルティシモというキャラクターにとってデモンスパイダーは、後期ダンジョンの雑魚モンスターにも劣るような初期実装の時代遅れモンスターに過ぎない。はっきり言えばブルスラを倒すのもデモンスパイダーを倒すのも、労力が変わらないほどの雑魚。そんなものから逃げ出すために女の子を犠牲にするのは、例え生き残れても一生後悔することになる。
「あの?」
「邪魔だから下がれ」
フォルティシモは虚空から禍々しいデザインの黒剣を抜いた。ファーアースオンラインでは、プレイヤーはアイテムや金をインベントリという別空間に収納でき、そこからいつでもアイテムを取り出せた。
情報ウィンドウを確認。掲示板で神剣と呼ばれた最強の剣の能力はそのままだった。他のアイテムも同様であれば、最悪が発生しても大丈夫なはずである。
それでも接近するのは怖いので、まずはスキルで遠距離から攻撃する。
登録してあるアクティブスキルも健在だ。音声ショートカットに入っているスキルを思い浮かべる。音声ショートカットはVRMMOの一般的なシステムで、予め音声とスキルを登録しておくと、情報ウィンドウを操作せずに発声だけでスキルが起動するものだ。
フォルティシモは、これでもかというくらいに音声にスキルを登録している。ゲームだしソロだったので気にならなかったが、リアルだと思うと少し恥ずかしくなった。それでも恥ずかしがるから余計に恥ずかしいのだと思い直し、スキルを発動させる。
「領域・爆裂」
瞬間。
デモンスパイダーが爆砕した。
「う、そ」
神官の子が脱力したらしく地面にへたりこんだが、フォルティシモも内心で腰を下ろしたいほどに安堵した。
デモンスパイダーらしきモンスターのステータスがゲームと同じだったとすれば、オーバーキルこの上ないダメージだったはずで、MPを無駄にしたのは間違いない。しかし、未知のモンスターに対して警戒と緊張をしていたフォルティシモにとって、一撃で倒せたことは安堵以外の何物でも無かった。ガッツポーズで叫び出さなかったのだって我慢が必要なほどだ。
黒剣をインベントリへ戻す。
神官の子を見ると、彼女もフォルティシモを見上げていた。その顔には驚きが浮かんでいる。素直に驚いてくれる反応に、思わず頬が緩みそうになる。できれば逃げようとしたり、無意味に剣を出してみたりせず、もっと格好良く決めたかったが、それらは次からの課題だ。フォルティシモは強くなければならないから。
「仲間を回復してやれ」
「は、はい!」
神官の子は急いで立ち上がると、勢いよく頭を下げた。
「助けて頂き、ありがとうございました!」
神官の子は剣士の子に駆け寄って、「ヒール」と唱えている。三人の女の子の最後の一人は【マジシャン】クラスの初期装備をしていた。魔法の子でいいだろう。
「あなた様は、神の使徒なのですか?」
「俺か? なんでそう思う? この地の伝説とかか?」
「背中です」
言われて初めて自分の状態に気が付いた。ファーアースオンラインでは、何種類ものの種族から純血やハーフ、クォーターを選ぶことができた。サービス開始当初はどの種族が有利か不利なんて分からなかったため、翔は深く考えずに当時クリアしたばかりのゲームに出ていたラスボスそっくりの種族にすることにしたのだ。白と黒の翼、金と銀の瞳を持つ天使と悪魔のハーフだ。
フォルティシモは情報ウィンドウを操作して自分の翼を消した。この翼は魔力の塊という設定で、出したり引っ込めたりできる。他にも大きな角や尻尾を持っている種族を選んでも、同じように引っ込めることができる。そうしなければ家具アイテムや施設が利用しづらいという、しょうも無い理由だったが。
「………俺は神の使徒じゃない」
「だったら」
「待った、ノーラ! お礼言わなきゃ」
落ち着いたのか剣士の子が魔法の子を止める。
「助けてもらってありがとうございました」
「ありがとうございました」
「ああ」
女の子に囲まれてお礼を言われるのは、悪くない気分だ。
命を救った礼をそれとなく要求しようかとも思ったが、男たちの死体を見て、それ以上にやらなければならないことがあることに気が付いた。
「それよりお前たち、三人で帰れるか?」
「え? は、はい、大丈夫、です。また、あんなのに出くわさなければ………」
「サリス、あんな魔物が居たことを、早くギルドに報告しないとダメだよ。他にも居たら大変なことに」
剣士の子の付いて来て欲しいという内心が透けて見える言葉を、神官の子がたしなめる。
「本当に、ありがとうございました。このお礼は必ずいたします。私はアクロシアのギルドに登録しているGランク冒険者のフィーナと言います」
「サリスです」
「ノーラと言います」
「フォルティシモだ」
三人共自己紹介していたが、これからのことを考えていたので、神官の子がフィーナ、剣士の子がサリス、魔法の子がノーラと言うこと以外は聞き流していた。いや女の子たちの名前さえ、頭に入って来なかった。
女の子たちの姿が見えなくなるまで見送ってから、フォルティシモはスキルで地面に穴を開けて簡易的な墓を作った。その穴に男たちの死体を納めようとして、ふと死体を漁ってみるべきだと考える。
「問題はこのグロさだ。さすがに死体ってのは良い気分じゃないな」
VRMMOファーアースオンラインのモンスターはリアルっぽいのも多く、虫や爬虫類は慣れていている。しかし生身の人間相手はそうはいかない。こんな連中が居るとなればこれから人殺しもすることになるだろう。その前に慣れておかなければならなかった。
ついでにCランクらしい男たちの装備、男たちが持っている現金を確認する。通貨はゲームと同じだ。情報ウィンドウから通貨収納コマンドをタップして、所持金の表示が増えることに満足する。
ただしフォルティシモはデスペナを警戒して【拠点】の倉庫に金を入れているので、手持ちの所持金が少ない。
十万ファリスと表示されている文字を見ながら考える。ゲーム時代であれば宿屋に千回は泊まれるものの、相場が同じくらいとは思えない。まともに商売していたら、宿屋の料金が激安ということはないだろうし、リアルと違って物流や生産も違うから価値のあるものが異なるだろう。ファーアースオンラインにおいてプレイヤー専用の倉庫がある【拠点】へ戻って所持金を引き出そうと決めて、【拠点】帰還アイテムを使用。
しかし何も起こらなかった。
ひくっ、と頬が引きつるのを感じる。『ブルスラの森』のマップが初期化されていたことで気付くべきだったのかも知れないが、フォルティシモが訪れたことのある場所が『ブルスラの森』だけになっていた。
マップが初期化されただけであれば別にいい。しかし、【拠点】が初期化されていたら子供のように暴れ回る自信がある。レベルカンストの【拠点】、思い出のつまった品に加えて限定やランキング戦で獲得したもの、数々の強化レアアイテム。たとえばファーアースオンライン第一回PvP大会で優勝した時に貰ったシリアルナンバー1の賞品は、まさにフォルティシモ最強伝説の始まりであり、一際思い出が詰まっている。
いや、それさえも思い出の中にあると自分を納得させれば我慢できる。できそうもないのが、フォルティシモの従者たちだ。ファーアースオンラインではプレイヤーは最新AIを搭載した従者アバターを作ることができ、一緒に冒険をすることができるのだ。基本ソロのフォルティシモにとっては、従者たちこそがファーアースオンラインをずっと一緒にプレイしてきた仲間である。
「落ち着け、まだ消えたと決まったわけじゃない………」
優先度の高い目標に、【拠点】の捜索が加わった。そして冷静な頭で付け加えるならば、【拠点】が消えていた場合に備えなければならない。【拠点】や従者の支援効果は、少々の上限解放よりも遙かに強い効果をフォルティシモに与えてくれる。つまり今のフォルティシモは大幅に弱体化しているのだ。消えてしまったのなら、気持ちとは別の部分で育て直す必要がある。
「やることが多すぎるな」
シンプルに行こうと思う。まずはこの異世界の仕様の把握。具体的には、この世界で暮らしていけるか、戦闘システムがどうなったか、フォルティシモの強さはどの程度なのかだ。その後で、【拠点】探し、最強になり、ハーレムを作り、名声も得て、可愛い子供を授かるのもいい、大切に育てるのだ。最後に異世界へ来てしまった原因や行き来可能なのか探る。あの神官の子は好みだった。恐怖から解放された安堵からか、感謝と尊敬が入り交じった涙目の碧眼でフォルティシモを見上げていた。新しく従者を作るならば、ああいう子がいいかもしれない。
「おっと、ずれた」
たぶんこれは久しく忘れていた、やりたいことが多すぎてワクワクする気持ちだ。フォルティシモは自分の気持ちに対して、そう誤魔化してアクロシアへ向かって行く。