第百八十三話 月夜の出会い
アクロシア王都に立つカリオンドル皇国の大使館は、他の国の大使館に比べて大きさの面で上回っているだけでなく、その警備においては一線を画するものが敷かれていた。特に現在は厳戒態勢と言って過言ではない。大使館の周囲は常時十名を超える兵が巡回し、門番も正門と裏門それぞれに八名配置する徹底ぶり。
アクロシア王国とカリオンドル皇国の間には大使館内部で治外法権が認められる条約が結ばれていて、アクロシア王国民が大使館へ勝手に足を踏み入れようものなら、その場で殺され兼ねないほどだ。
だからルナーリスは、カリオンドル皇国の大使館が何者かの襲撃を受けている事実が信じられなかった。
ルナーリスの部屋の扉が勢い良く開かれる。武装した兵士数名がノックもせず許可も与えられない内に部屋へ入ってきた。
今回の大陸会議の参加で、ルナーリスのアクロシア王国行きは突如決まったもの。いや、皇帝が無理矢理に決めたと言っても過言ではなく、ルナーリスの見慣れた侍女や護衛を連れて来ることもできなかった。
「ルナーリス様、お逃げ下さい! 賊の狙いはあなたです!」
ルナーリスはよく知らない兵士たちを見て身体を強張らせるが、逃走を促す危機的状況に陥っていると聞けば黙って従うしかない。
正門付近から争う音が聞こえてくる中、彼らに護衛されながらドレス姿のまま走り出した。
ルナーリスを狙う者がいるなんて信じられない。アクロシア王国だろうか。だがあの太陽のように美しい黄金の姫ラナリアがいるのに、こんな直接的な手段に出るとは考えづらい。
裏門に向かったルナーリスと護衛たちだったが、裏門に配置されていた警備兵たちは一人として無事ではなかった。真っ赤な血溜まりを作って地面に転がっており、呼吸をしている様子もない。
その中央に、羊の角を持った女性の姿がある。返り血に染まった羽織袴に、未だに血の滴る刀を手にしながら、鋭い眼光でルナーリスたちを睨み付けていた。
「ひっ」
分かる。羊の角を持った女性は亜人族ではない。もっと古き種族だ。
「ルナーリス様、あちらへ! ここは我々が」
「しかし!」
「決して振り返ってはなりません!」
ルナーリスは護衛の兵士たちに首肯して、ドレスをたくし上げながら、振り向くことなく走り出した。
大陸会議の開催期間のアクロシア王都は警備が強化されており、普段から比較的治安の良い街は一層安全なものになっているはずだった。しかし、ルナーリスが大使館から抜け出しても周囲に警備の姿はなく誰にも見咎められない。
ルナーリスは家と家の間の狭い路地に入り、肩で息をしながら一息吐いた。あれから必死に走って街中を移動したため、ルナーリスのドレスは破けてしまい、酷い有様になっている。
カリオンドルの大使館の方向から火の手が上がっていて、周囲は大混乱の状況だった。大通りから聞こえてくる話だけでは、何が起こったのか詳しくは分からない。ただ時折爆発音が聞こえて来て、尋常ではない事態なのは間違いなかった。
アクロシアには幼い頃から何度も訪れていても、街中の移動はすべて馬車か案内役に付いて行くだけだったので地理が分からない。急いで助けを呼びに行くべきか、このまま大人しく潜んで朝まで待ってから移動するか、どちらにもメリットとデメリットが存在していて、どうするべきか迷ってしまう。
しばらくして結論を出した。賊が追ってくるかも知れないなら、早めに助けを求めるべきだ。夜目も利かずレベルもそれほど高くないルナーリスにとって、夜に街を出ることは危険でもやるしかない。今ならまだ、この騒ぎに乗じることもできる。
「第二皇女を発見いたしました。これより処理をいたします」
路地裏から飛びだそうとしたところで、鎧を身に着けた男に話し掛けられた。話し掛けられたはずだ。路地裏にはルナーリスと鎧の男の姿しかない。しかし鎧の男は、誰かに呼び掛けていたのが不可思議だった。
ルナーリスは鎧の男を見て不審を感じたものの、それ以上に安堵を覚えた。鎧の男は亜人族で、カリオンドル皇国の勲章を胸に付けていたからである。
鎧の男はカリオンドル皇国の兵士で、きっとルナーリスを守るために追い掛けて来てくれたのだと。
それがすぐに間違いだったと気付かされる。
鎧の男は腰の剣に手を掛けて抜剣し、抜き身の剣をルナーリスへ向かって振り上げた。
鎧の男へ不審を感じていなければ、首を飛ばされていただろうタイミング。ルナーリスは動物的な直感で剣を避けるために地面に転がった。
しかしそれで終わりだ。地面に転がってしまったルナーリスには、次の一撃を回避する術はない。
「ま、待って! わ、私は皇帝になる資格を持っていません! だから、私を殺しても」
鎧の男がカリオンドル皇国の兵士ならば、彼は兄弟の誰かの差し金に違いない。己が皇位に就くのに有利にするため、ルナーリスを殺害しようとしているのだと、思おうとした。
ルナーリス自身が言っているように、ルナーリスに皇帝になる資格はない。初代皇帝の力を使えない出来損ないの皇族に、そんな資格があるはずがない。ルナーリスが死したところで、誰も継承順位が上がったりしない。そんなルナーリスを殺害するために、アクロシア王国で大使館襲撃という大事件を企てるだろうか。
有り得ない、と思う。なら、そんな馬鹿げたことをする理由は何か。いくら考えても分からなかった。
鎧の男がルナーリスを突き刺すべく、剣を構えた。
殺される。
そう思った時、何だか自分の人生が馬鹿馬鹿しくなった。この場で必死に抵抗してアクロシア王国なりカリオンドル皇国なりに助けを求めても、後に待っているのは天空の王への人身御供。
命は残っても心は殺される。だったらこの場で命を失っても、何も変わらない。
「その辺にしておけ。それ以上やるなら、最強の俺が代わりに相手になるぞ」
男の声がして、ルナーリスがそちらを振り向く。
そこに立っていたのは、満月を背にした男性。逆光のせいで背格好以外は分からないが、言い知れない威圧感を覚える。
「もう一時間も探し歩いてるのに、目に入ったのはお前みたいなクズか。苛立たせてくれる。俺はな、お前みたいなクズが大嫌いだ。俺がやめろと言ったんだから、さっさと止めて消えろ」
鎧の男は男性に向かって剣を振るった。
「危ないっ!」
男性が何もしていないのに、鎧の男の剣は砕け散り、水色の粒子になって消えてしまった。
驚いた鎧の男は、男性と戦うのは不利だと思ったのか、一目散に逃げていく。男性は鎧の男を追い掛けることはなかった。
「レイプ魔が多い国だな。お前は大丈夫………あー、キャロ、面倒を見てやれ」
「まー構わねーですけど、索敵のために付いて来たんですけどね」
虎人族だと思われる耳と尻尾を持ち、それらが生まれて初めて見る白色の、ルナーリスよりも年下そうな少女がひょこりと現れて、ルナーリスに駆け寄ってきた。
「商会に連れて保護しますが、いーですか?」
「ああ、それで良い。何か羽織るものも用意してやれ」
「あ、あのっ、ありがっ」
男性はルナーリスの感謝に対して、ルナーリスを睨み付けた。睨み付けたと言っても、殺気を伴ったようなものではなく、何か別のものに苛立っている印象を受ける。虎人族の少女が索敵と言葉にしていたので、敵を探していたのかも知れない。
「こんな時間にこんな場所を歩いてたお前にも責任がある。感謝よりも反省しろ」
男性はそのまま踵を返して去って行ってしまう。
ルナーリスはなかなか立ち上がることができなかった。
それは助けて貰ったことに感動しているのではない。ルナーリスは皇族なので助けられるのは当然であり、助けられることに慣れている。だから今更ちょっと助けて貰ったくらいで、心が動いたりはしない。
ルナーリスが立ち上がれなかった理由は、彼が何か恐ろしいものにしか見えなかったからだった。皇族たちや純人族、屈強な兵士や老獪な政治家、そういうものとはまったく異なった根源的な恐怖を感じさせる存在。
ルナーリスの震えは男性が満月に向かって消えていくまで続いていた。助けてくれた相手にお礼の一つも満足に言えなかった自分が、酷く情けない。




