第百七十九話 ラナリアの望む王道
今からちょうど十年前、十にも満たない少女ラナリアは、大好きだった兄の訃報を耳にした。
兄は無愛想で口数も少なく社交界では敬遠されていて、王族として民に好かれてもいなければ、貴族たちに顔が利く訳でもなかった。洞察力に優れ頭の回転は速かったが、それを人間関係や権力闘争に生かせることもなかった。死んだ兄を酷評したくはないけれど、あえて言うのであれば、とても大陸最大最強のアクロシア王国の王位を任せられるような人物ではなかった。
けれども幼いラナリアにとっては、唯一自分のすべてを受け止めてくれる兄だった。ほどほどに優秀な父、政略結婚で嫁いだ守られるだけの母、愚鈍ではないが秀でたものもない他の兄たちと比べ、その兄だけは違った。
この世で最も重要なのはレベルだと言って、何度も何度もレベル上げのためにラナリアを連れ出してくれた。王族であるラナリアが、騎士団の平均を超えるレベルを持っていたのは、その兄のお陰に他ならない。
兄の慧眼は当たっていた。十年前の大氾濫の時、バルデラバーノ公爵領へ避難する馬車が魔物に襲われても、そのお陰で母や弟を守り抜けたのだから。
そんな兄の訃報を聞いて、ラナリアは物心ついて初めて本心からの涙を流した。母や弟、祖父、そしてバルデラバーノ公爵領の使用人たちが、幼いラナリアを心配してくれる中、誰一人ラナリアの気持ちは理解してくれなかった。
どうして、この世界の人間は弱いのだろう。あれだけ女神を信仰していても、大陸は魔物に支配されていて、人間は小さな土地に脆い壁を作って暮らして行くしかない。大切な人を奪われるのを待つしかない。
あの日から、その状況を何とかしようと大陸最強の冒険者ガルバロスと懇意にし、表に裏に様々な施策を行って来た。
もうすぐ十年という日に、それらが無駄だったと知るのは運命か。
フォルティシモ。神の如き力を、いや神をも超える力を持つ御方。結局は救ってくれない女神や、実在さえ疑わしい他の宗教の神々とは違い、最強の力を思うがまま振るい、大陸に影響を与え続ける存在。
彼の態度は、どこか大好きだった兄を思い起こさせる。見た目はまったく似ていないし、兄はラナリアにいつも優しい眼差しを向けていたのに対して、フォルティシモは欲望に濁った瞳や探るような視線が多い。でも生きるには力が重要だと思っていて、レベルに関する執着は近いものがある。何よりも、何かと言葉が足りないのは似ていた。
そんな風に比べていたら、自分でも驚くほど夢中になっていた。
ラナリアは【拠点】に与えられた部屋のベッドから身を起こした。アクロシア王城であれば、ベルの一つを鳴らせば一斉に使用人たちが殺到し、ラナリアの身なりを整えてくれるのだが、この場所ではそうもいかない。
いつもラナリアの身嗜みを整える役割の者にコツを教えて貰い、自分一人でもある程度見せられるように訓練した。その成果を遺憾なく発揮して、彼に見せても恥ずかしくない立派な容姿に整える。
「もう十年なのね」
曇り一つない魔法道具の姿見に映ったラナリアは、すっかり成長していて誰から見ても完璧な王女だった。
今更、六歳の頃に大好きだった兄に対して感情が動かされることはない。けれども彼が幼少期のラナリアに影響を与えているのは確実で、価値観、特に男性の好みに関しては間違いなく多大な影響を受けている。ラナリアがフォルティシモを想う理由を分解していけば、どこかに兄を失ったトラウマが現れるだろう。
そこまで考えて、ラナリアは自嘲を含んだ笑みを零した。
学者たちの調査によれば、もうすぐ大氾濫が起きる。これまでの歴史を鑑みれば、前回の大氾濫を超える規模と強大な魔物が人類を蹂躙するはずだった。だと言うのに今のラナリアは、己が男に入れ込んだ理由を冷静に分析していたりしている。
すべて彼のせいであり、彼のお陰だ。必死になって焦る必要もない。人類存亡の危機なんて言う学者を鼻で笑う余裕もある。むしろ大陸にとって最悪の災害である大氾濫を、如何に利用して天空の国フォルテピアノの勢力を広げるべきか考えてしまう。
最強の力が、大陸を、国を、彼女を守ってくれるから。鏡に映った少女の顔は、少しばかり紅潮していた。
「え? フォルテピアノとして、フォルティシモ様ご自身が、大陸の大氾濫対策に参加ですか?」
朝食の席で箸を使って食事をしていると、耳を疑うような質問が聞こえて来た。ラナリアはフォルティシモからの言葉が信じられなくて、思わず聞き返してしまう。
「ああ。もうここまで目立ってる。ならいっそ、こっちから出ていってやる」
フォルティシモは王としての立場を望んでいないと聞いていて、それでも信仰心を集めるために仕方なく振る舞っていたはずだ。それが彼から積極的に王として外交の場へ出たいと言われれば、信じられないのも仕方がない。
余程、奴隷屋クレシェンドとの話に思うところがあったのだろうか。
「無理か? 無理なら最低限、カリオンドル皇国の奴と話をする機会を設けて欲しいんだが」
「いえ、無理どころか、これから行われる大陸会議の主催国アクロシアとしましては、こちらから頭を下げてご参加頂きたいほどです。ただ、カリオンドル皇国はたしかに奴隷屋クレシェンドが言うように、皇族が特殊な能力を持っていますが、フォルティシモ様方を脅かせるようなものではありません」
ラナリアはカリオンドル皇国の皇族とも親交がある。両国の友好のため、兄の婚約者だった者が頻繁にアクロシア王国へ訪れていて、ラナリアも政治的立場から積極的に交流を深めていた。
「それは自分で確かめるから、とりあえず頼む」
「お任せ下さい」
フォルティシモに頼まれたというだけで、心臓を高鳴らせて頷いてしまった。外には出していないはずだが、内面を見抜く友人には筒抜けだろう。
そんなフォルティシモに対して、彼が最も信頼する参謀エンシェントが彼の肩を掴み、今日は偶然朝食の席に居た商人ダアトは彼の腕を引き千切らんばかりに引っ張っていた。
「何の、真似だ?」
「主、世界に恥を晒すのはやめてくれ」
「そこまでして、私の邪魔をしたいんですか!?」
「俺の信頼が地に堕ちていたとは驚きだ」
「ははは、フォルさん、冗談が上手いですね。堕ちるも何も、最初から無いです。堕ちるものないって理解して下さいよ!」
そんな彼と彼女たちのやりとりを見て、ラナリアも思わず笑ってしまう。
フォルティシモが各国の外交大使や王侯貴族の集まる大陸会議の場で何をやるのか、心配にならなかったと言えば嘘になる。惚れた弱みのラナリアには断れなかっただけで、色々と根回しをする時間がないので、今回は遠慮して欲しかったのが本音だ。
それでもフォルティシモの肩を持ってしまうのが、今のラナリアだった。
「フォルティシモ様、私はフォルティシモ様がなるべき王の在り方は、それで良いと思っております」
信仰が必要であれば、神でも賢王でも英雄でもある必要はない。
「世界を支配する魔王となられれば良いのです。誰もが敬い畏れ想う存在に」
単なる王ではなく魔王。アクロシア王国の姫は、想い人へ魔王となってくれと言う。劇作家が知ったら昏倒してしまいそうな話だ。
「私はそのために、全力を尽くさせて頂きます」
「そこに最強って単語を加えておいてくれ」
真面目に言うフォルティシモがおかしくて、ついエンシェントとダアトと一緒になって会議に向けた準備を忠言していく。フォルティシモが何を言うつもりだったのかを聞いて、事前に打ち合わせできて安堵したのは内緒だ。




