第百七十二話 女神マリアステラ 前編
狐人族の里には、年に一度のお祭りがあった。山間に作られた小さな村だったせいか、外部との交流も少なく、物資の豊かさからは程遠かったけれど、その日だけは目一杯のご馳走が並べられ、歌や踊りで皆が楽しんだ。
里の広場には等身大くらいの古ぼけた女神像が置いてあって、お祭りの日はお腹いっぱい食べ物を食べられて、女神像に感謝の祈りを捧げたのを覚えている。
精霊信仰や山岳信仰が根付きそうな立地でありながら、里で信仰されていたのは女神信仰、聖マリア教だった。キュウも幼い頃から女神信仰を教えられてきた。
でも女神様は、キュウを助けてくれなかった。飢餓に瀕した里を救ってくれることもなかった。だからキュウは、何も知らずに主人を否定した聖マリア教の大司教へ口出しをしてしまったのだ。
神様なんか助けてくれない。助けてくれるのは、主人みたいな人だ。
そんな罰当たりなことを考えていたキュウだから、サンタ・エズレル神殿へ入る時には緊張した。女神様なんていないと思いつつも、女神様のお怒りに触れるのではないかと、おっかなびっくりしながらサンタ・エズレル神殿を見回した。
巨大な女神像を前にしても、やはり女神様は語り掛けてくることはなかった。キュウは巨大な女神像の前まで歩いて、それを見上げた。ここよりもずっと遠い場所からやって来た女神マリアステラを信仰する宗教。誰がそれを、あんな小さな里に教えて回り、それを信じさせたのか。
私の住んでいた里にレベル七〇〇の方が居ました
主人と初めて出会った日、キュウは主人にそう言った。キュウのよく知る里の中心人物を思い出して、主人にレベルを伝えたのだ。
ふと、疑問を思う。
何故、その人のレベルを知っていたのだろうか。あの里に、ギルドカードなんてない。キュウが【解析】スキルを覚えたのは、主人に会ってからだ。互いにレベルを伝え合う習慣もない。
―――わてのレベルが知りたいのかえ?
そう言って見せてくれた、虚空に浮かぶ窓。あの時、クラスとかスキルとかにもレベルがあるとは知らなかった、まして【覚醒】やその先の強さ、そして神の力を持つクラスを知らなかったキュウは、何も考えずにその人のレベルを七〇〇だと思った。
狐の耳と尻尾を持つ女性。キュウの故郷である里で、キュウが物心つく頃には既に里の中心だった美女。
そのレベルは、本当にただのレベル七〇〇だったのだろうか。
*** 狐竜神 Lv700
「キュウは建築にも興味があるのか?」
直後に主人に声を掛けられて、呆けていた自分に気が付いて慌てて返事をする。そうしたら思い出し掛けた何かを忘れてしまった。
主人に声を掛けられて、樹氷を見に行くことになった。聖マリア教のシスターが嘘を吐いていたのが気になったけれど、主人によれば安全な場所だと言う。キュウは相手の心の中まで見抜ける訳ではないし、勘違いだと思うことにした。
樹氷は図鑑で見たことはあっても、実際に見るのは初めてだったので、実を言うと少し楽しみだ。主人と一緒に馬に乗るのも嬉しくて、油断すると尻尾を振ったり、尻尾を主人に擦り付けてしまいそうだった。
その途中に最果ての黄金竜に勝るとも劣らない強大な魔物が出現し、主人は圧倒的な力を以てして討伐した。強大な魔物の言葉を聞くのを期待されていたけれど、それが聞き取れなくて情けない。
主人は凄かった。凄すぎた。まったく別の世界を創り出す強大な魔物に対し、その世界を造り替えしてしまう主人は、裁きの光によって巨大な魔物を消滅させた。
これまで主人の力は充分に見てきたはずなのだけれど、今日のそれは、これまでとは一線を画する力のような気がする。
誰もどんな存在も主人に並び立つことを許さないような最強の力。主人の腕に包まれながら馬に乗って楽しかった往路が嘘のように、何だか沈んだ気持ちになる。
サンタ・エズレル神殿に戻ると、主人は音声チャットという力を使って、先ほど出会ったプレイヤーたちについて従者たちと話していた。彼らは酷く怯えていた印象だ。大勢で樹氷を見に来たらあんな強大な魔物に出会ったのだから、怖いと思うのも仕方がないかも知れない。どこか違う気がするが、彼らは魔力も小さかったので、例え敵だったとしても問題にはならないだろう。
サンタ・エズレル神殿では、どうしても女神像が気になって、また女神像の前に立った。すると聖マリア教の白い修道服を着たシスターがキュウに近付いて来て、恭しく頭を下げる。使節団にいたシスターではない。綺麗なロザリオを見ると、使節団のシスターたちよりも地位が高そうだった。
「キュウ様、テレーズ大司教とのお時間を頂けますでしょうか」
テレーズはキュウの友人であるフィーナの母親で、護衛依頼の最中に何度か話をした。話題の中心はやはりフィーナの話だったので、テレーズとフィーナの仲が良くない状態であるのも察せられている。大司教の娘のフィーナが冒険者をやっているのだ。
もしかしたら二人の仲を取り持って欲しいとか、フィーナに伝えて欲しい言葉とかがあるのかもと思い、深く考えずに付いていってしまった。
案内されたのは、水晶で作られた部屋だ。壁も天井も床もキラキラと輝く水晶で作られていて、水晶はすべて自ら光を発していた。そのせいで部屋は外よりも明るい。部屋の形は円形で、広さは直径二十メートル程度、高さは三階か四階くらいまでと天井までが遠い。天井に位置する部分には、丸い太陽を象った水晶があって、一際強い光を振らせていた。椅子や像と言ったものは何も置かれていない。
神前の間と言うその部屋にはテレーズだけが待っていて、案内していたシスターも部屋には立ち入ることがなかった。
「お待ちしておりました」
「あの、私に何か」
「まずは謝罪いたします。神託に従い、あなた様をこの場へお連れするため、依頼を出させて頂きました」
テレーズの言葉も態度も、娘の友人に対するものではない。フィーナがどれだけ頑張っているか話している時、優しく微笑んでいた母親の顔は微塵もなくなっていた。
キュウは恐ろしくなってバッグの中の板状の魔法道具に手を掛けた。もし一歩でも近付かれたら主人を呼ぼうと心に決める。
「なんの、ために?」
「すべてをお見通しになられる女神の御心でございます」
答えになっていない。
本当にそうだろうか?
キュウとキュウの主人は、まだ最初の目的を達成していない。他ならない聖マリア教のテレーズ大司教が、無理を通してフォルティシモへ指名依頼を出した理由だ。
フィーナの母親だから主人と会いたかったから、というのは一定の理解がある行動だ。しかし時間の掛かる護衛の仕事である必要はないし、何なら面会の申し込みでもすればそれで良い。聖マリア教からの依頼であれば、アクロシア王国も断れず、ラナリアからフォルティシモへ話が行くはずだ。今回の指名依頼と同じように。
だがもし、樹氷の山に強大な魔物が現れて、それを主人が討伐することを知っていたとしたら。そんな未来を見通すようなことができるのだとしたら。
キュウ様はここでお待ち下さいと言って、テレーズは神前の間から出て行ってしまった。キュウは部屋に一人残される。
次の瞬間。
> マリアステラがログインしました
そこに。
それは。
居た。
否。
在った。
「こんばんは」
それはキュウが生まれて初めて人殺しを経験した日、どこかからキュウに語り掛けてきた少女の声だった。
少女の姿をした何か。絶対的な何かがキュウの目の前に姿を表す。
そこには見知らぬ金髪の少女が立っていた。肩口で切りそろえられた金髪に、真っ白なコートを来た美貌の少女。年齢はキュウとそう変わらない頃か少し上、水晶の光を受けて全身が輝いているように錯覚した。背はそれほど高くなく、美人や美女というよりは可愛らしさが先に感じられる。亜人族の耳や尻尾、触覚と言った部位は持っていないのに、一目で純人族ではないと理解できた。
何よりもの特徴は、虹色に光輝く瞳。
「まずは自己紹介かな。私はマリアステラ。聖マリア教が信仰している女神。そしてキュウの大好きな魔王様が巻き込まれてる神戯の主催者だよ」
この数ヶ月、度々キュウを震撼させた声の主が―――女神マリアステラがキュウの前に立っていた。




