第百五話 ヒヌマイトトンボの焦燥
ベッヘム公爵軍の陣地では、件のベッヘム公爵が周囲の者たちに当たり散らしていた。この陣地は【転移】というゲームにはありふれたスキルによって、短時間で設営されたものである。それで気を良くしたベッヘムは当初兵たちを称賛し、達磨のように笑い転げていた。
それからヒヌマイトトンボたちと共に王城へ侵入し、王を目の前に宣戦布告を行った。必要であれば、その場でヒヌマイトトンボたちの誰かがアクロシア王の首を取る予定だったのだ。
だがその目論見は失敗する。王女の護衛として付いていた女性が想像以上に強く、ヒヌマイトトンボたちが複数人で掛かっても打倒が難しい相手だったからだ。苦戦している内に信じられないものを見ることになり、ヒヌマイトトンボたちは急ぎの撤退を余儀なくされた。
ベッヘム公爵は将兵を臆病者と断じ、軍師を無能だと罵り、参謀などは目の前で切って捨ててしまった。
とにかく値段の高い煌びやかな衣装に身を包み、戦えもしないのにAランク冒険者でも持っていないような剣を腰に付けている。暗殺対策なのか、ネックレスや指輪型の魔法道具をいくつも付けていて見目が良く無い。
今は肩で息をして血走った目で、アクロシア王国の使者から手渡された親書を破り捨てていた。
でっぷりとした腹を上下させる様子を一言で表わせば、醜い。
「どうなっている!? 次の大氾濫の前に、アクロシアが私のものになるのではなかったのか!?」
「お気を沈め下さい」
「ヒヌマ! 貴様の話では、貴様がラナリアを手に入れてくる予定ではなかったのか!? ラナリアを私の妻にして、デイヴィッドとウイリアムは処刑するという話ではなかったか!?」
「………王女の護衛は想像以上の実力者でした」
ヒヌマイトトンボは一応は己の主家となるベッヘム公爵の言葉を受けて、事実をそのまま説明した。
しかしヒヌマイトトンボが気にしているのは彼女ではない。気にしているのは、フォルティシモだ。これまで見て来た、この異世界へ来てしまったプレイヤーたちとは根本的に違うのではないかと思える、別次元の強さを持つプレイヤー。
こういう“異常な強さを持つプレイヤー”を警戒して、マウロのような尖兵を使っていたのに、ヒヌマイトトンボの元に来たのはカイルという弱小プレイヤーの情報と、ピアノという【解析】はできなかったがそれほど強い装備は着けていないプレイヤーの情報だった。
そしてヒヌマイトトンボを本当に驚愕させたのは、アクロシア上空に現れた空中に浮かぶ大陸だ。異世界の住人たちも驚いただろうが、ゲームの仕様を知るヒヌマイトトンボからすれば常識がひっくり返ったような驚愕だった。
潜り込ませた間者の報告だと、あれはフォルティシモが操っているのだと言う。あんなものはシステムに存在しない。存在したら、バランスブレイカーどころの騒ぎではない。ファーアースオンラインは比較的バランスブレイカーの実装を躊躇わない上、やればやるだけ課金すればするだけ強くなる仕様だったとは言え、あんな大陸一つを動かせるようなシステムはない。
恨み言の一つも言いたい気持ちだ。あんなことができるプレイヤーならば、最初から一切の敵対をせずに、こちらの情報を開示して協力関係を築く方針にしたかった。
ベッヘム公爵の兵の士気は最低で、逃亡者も少なくない。いつも何かとヒヌマイトトンボに媚を売ろうとしていた貴族の姿もなかった。
「とにかく、返答が必要でしょう」
ベッヘム公爵が破り捨てた手紙の内容は見なくても想像がつく。進むにしても退くにしても、ベッヘム公爵は終わりだ。
「失礼」
ヒヌマイトトンボが立ち上がるとベッヘム公爵が叫ぶ。
「ヒヌマ、貴様逃げる気か!」
「閣下、しばし休憩といたしましょう。私も配下と良い案がないか相談をして参ります」
「ふざけるなっ! あれが落ちて来たら、私のアクロシアが終わりではないか!」
ベッヘム公爵にとって、そんなことは喫緊の問題ではない。彼も公爵として権謀術数渦巻く貴族社会を生きて来たので、その程度のことは理解しているはずだ。そこまで頭が回らないのは目の前の状況に焦っているのか、老いには勝てないのか、その両方か。
ヒヌマイトトンボは議場を後にしたその足で、仲間たちが詰めているテントへ入る。テントは元の世界でレジャーに使ったり、冒険者が使うような簡素なものではない。子爵が使うテントということで十六メートル四方の広さがあり、内部には明かりやテーブル、椅子が設置されていて五十人以上を収容できる。
テント内に居るのは、ヒヌマイトトンボを含めて八人。
「お疲れ」
親友であるミヤマシジミが労いの言葉を掛けると、他の仲間たちも口々にヒヌマイトトンボに声を掛けた。
仲間たちの雰囲気はよくない。入り口近くに座っている革ジャンの男の頬には痣があり、奥に座っている背広の男はヒヌマイトトンボを見ようともしない。二人は元々仲が悪かったので、喧嘩でもしたのだろう。
何年も掛けた計画が水泡に帰そうという状況なので、それもやむなしだと思う。
「マウロは?」
ヒヌマイトトンボは紅一点の女性に問い掛ける。彼女はヒヌマ子爵の夫人という立場で動いて貰っていたが、実際は結婚は疎か恋人でさえないし、ヒヌマイトトンボもそう扱ったことはない。
「助け出して今は寝かせてあるわ」
「そのまま死ねば良かったのによ」
「そんな言い方はないだろう!」
革ジャンの男の発言に背広の男が反論した。仲の悪い二人が再びぶつかり合う。
「オイオイ、こりゃマウロの失態だぜ? それも大失態ってやつだ。トッププレイヤーが現れた際にゃ、敵対行動を取らず必ず話し合いをするって約束だったはずだろ?」
「あの子はまだ十三歳だぞ! 失敗くらいするだろう!」
「VRゲーで実年齢なんて関係あんのかね? ま、そうだとしても、俺はあんな餓鬼の命よりも、元の世界に帰ることのが優先だけどな」
「仲間だぞ!」
「協力者、だ。足引っ張りやがった今となっちゃ切り捨てるべきだ」
「二人共やめてくれ」
ヒヌマイトトンボは形だけ制止して、全員を見回す。
すべてはこの異世界を生き抜き、元の世界へ戻るためのチーム。
「あれ、なんなんですか? 皆さんは知っているんですか?」
異世界ではまず見かけることのない種族、サイボーグの少年が窓の外を見ながら問い掛けると、二人の男も喧嘩を止めた。
窓の外では、空中に浮遊する大陸がアクロシアの上空に滞在している。当初、一般市民は大混乱に陥っていたものの、現在の騒ぎは小さくなっている。あれから救国の神鳥が降りて来たことに加えて、時間が経っても何も起こらないこと、そして王城から“同盟国からの援軍”であることが発表されたからだ。
「さぁね。あんなマップが実装されたなんて聞いたことないな」
「あれって自動?」
「このタイミングで現れて自動ってことはないだろ」
「一応言っておくけど、あれに乗ってきたフォルティシモってプレイヤーは強い」
「それを言うなら、従者のはずのアルティマ・ワンの強さも従者とは思えなかった。あの一派は俺たちよりも一歩も二歩も進んでると考えたほうがいい」
仲間たちの視線がヒヌマイトトンボとミヤマシジミに集まる。
「とにかく、このまま逃げてもベッヘムにすべての責任を押し付けられるだけだ。俺の考えは、フォルティシモと話をした俺自身が、もう一度直接会う。それで今回の落としどころを決めたいと思う。何を要求されるかは分からないが、全面的に受け入れていく。そして、もし元の世界への手掛かりがあれば聞き出す。他に良い案があるなら言ってくれ」
ヒヌマイトトンボがフォルティシモと会った際、彼は「帰りたければ勝手に帰れ」と言っていた。つまり彼は帰るつもりがなく、帰ろうとするプレイヤーの邪魔もしない。そこに交渉の余地があるはずだ。
「あいつの下に付くなら、俺の領地内には口出し無用、代わりに鉄砲玉以外ならどんな汚ぇ仕事でもやるって売り込んでくれや」
革ジャンの男の言葉に背広の男が顔を顰める。
「危険じゃないの?」
「ヴォーダンって人を殺した人なんですよね?」
女性もサイボーグの少年も心配そうだ。
「プレイヤーと明かして会っても、いきなり戦闘にならなかった。だから―――」
ヒヌマイトトンボが安心させるために言葉を続けようとしたところ、すぐ近くから喊声が響き渡った。続いて騎乗系の魔物の鳴き声と足音がする。ヒヌマイトトンボの全身を嫌な予感が駆け巡る。
急いでテントを出て、アクロシア王城の方角を見つめると、三重で展開していた兵たちの中で、最も先頭に居た第一陣が突撃を掛けたのだ。
「馬鹿な」
ベッヘム公爵がアクロシア王国の王侯貴族からの降伏勧告を無視して強攻策に出た。
今からベッヘム公爵の所へ行って、説得して退かせるのは遅すぎる。
たしかにヒヌマイトトンボの仲間たちも協力して、テイムモンスターを集め、装備も充実させたベッヘム公爵の軍は強い。アクロシアの精鋭部隊を越える力を持ち、数の不利を覆せるだけの戦力だ。
しかしあの上空に浮かぶ大陸の下で、それを操る化け物へ向かっていく兵士たちの士気は、いったい如何程だろうか。今から大量の土砂に押し潰される現場に向かえと命令されて、誰がやる気になれるだろう。
いや、それよりも。あれの裏に隠された意味は、フォルティシモからヒヌマイトトンボへの降伏勧告のはずだ。ヒヌマイトトンボが仲間たちと一緒に考えようとした、それに対する答えを、ベッヘム公爵が勝手に出してしまった。
ヒヌマイトトンボの元に伝令兵がやってくる。
「ベッヘム公爵閣下より伝令。ヒヌマ子爵は第二陣に参加し、アクロシア王国を狙う侵略者フォルティシモを討伐せよ。繰り返します。ヒヌマ子爵は第二陣に参加し、アクロシア王国を狙う侵略者フォルティシモを討伐せよ」




