サウンド・オブ・ミュージックの真実とは? その後のトラップ一家 「菩提樹」 「続・菩提樹」 ドイツ映画 マイムービーレビュー
菩提樹 原題 トラップ一家 西ドイツ映画 1956年
続・菩提樹 原題 アメリカのトラップ一家 1959年 西ドイツ映画
監督 ヴォルフガング・リーベンアイナー
Maria Baronin Trapp ルート・ロイヴェリック
Baron Trapp ハンス・ホルト
さて
以上の映画を日本人のどれほどの方がご存じだろうか?
もちろん日本で劇場公開されているので見た人のいたはず。。
題名でお分かりのようにオーストリアのあのトラップ男爵一家のものがたりです。
奥さんを亡くした男爵は修道女のマリアを家庭教師に迎え、家族合唱団を結成
ウイーンの音楽祭で優勝一躍名声をえますが、、
そのご、、ナチスにオーストリアが併合されたときそれに反対してアルプスを一家でこえてアメリカに亡命し、アメリカでも合唱団で全米を興行して名声を博したあの一家のオハナシですね。
え?
それって「サウンドオブミュージック」でしょう?
というそこのあなた、
実はこちらがオリジナルなんです。
「菩提樹」と言いう映画のミュージカルバージョン。
それがサウンドオブミュージックなのです。
で、、
ここではそれについて語っても、もうそんなことは知ってるよ。
というくらい有名なミュージカル映画ですので
今回は
サウンドオブミュージックで描かれなかった、つまり
アルプスを越えて亡命するシーンで終わっている
その先について
少しだけ語ってみたいと思います。
サウンドオブミュージックのラストは雪のアルプスを一家が超えるシーンで
the end
でしたよね。
さてそれからトラップ一家はどうしたでしょうか?
以下はもっぱら「続・菩提樹」でその後の足跡をたどってみたいと思います。
やっとのことでアメリカにたどり着いたトラップ一家は生活のために
「トラップ一家聖歌隊」を結成し全米巡業に、、しかし、、
お堅いだけの「聖歌」ではアメリカ人に受けるはずもなく大失敗、
一家は苦境に立たされます。
その後「トラップ一家合唱団」と改名してポピュラーソング主体したところ
やっと成功します。
一家はその後全米欧州日本にまで来ています。
なお男爵は1947年になくなります。
その後はマリアと子供たちで巡業し、、1948年アメリ国籍取得できました。
合唱団は1956年まで続きました。
その年に解散して、
その後トラップファミリーロッジと言うホテル経営を、、
今でもそのロッジはあるそうですね。
マリアは1949年「トラップ合唱団物語」という自叙伝を出版ベストセラーになっています。
1956年ドイツの映画会社が9000ドルで映画化権を買収
其れにもとづいて先ほどの2本の映画がつくられたのです。
さらにミュージカル化で大ヒットしましたが、、
マリアには先ほどの9000ドルしか入らなかったのです。
そのうえ映画では夫のトラップ男爵の描かれ方があまりにも現実離れしすぎてるので、
マリアは何度も描きなおしてくれと訴えましたが聞き入れてもらえませんでした。。。
つまり、、映画では軍人気質丸出しの厳格な風貌ですが
実はとても温厚で優しい人だったそうです。
『合唱団解散後は生活のために、マリアは数人の子供たちとバーモント州ストウにトラップ・ファミリー・ロッジを開き、自給自足の農耕生活の傍ら、宿泊者をもてなしながら全米で講演活動を行った。
正に映画のような波乱万丈のの激動の人生を送ったマリアは1987年3月28日に闘病生活の末にこの世を去った。現在、マリアはトラップ・ファミリー・ロッジの一角の墓地にゲオルクらと共に眠っている。』
なおマリアは以上のような理由で映画についてよい印象は持ってなかったといいます。
が、、ある時ジュリー・アンドリュースと面会する機会があって
その時和やかな面会でいくらかは映画に対する印象を改めたと言います。
ジュリーに唄い方のコツなどを教えたそうです。
やはり
というか
映画って現実そのものじゃあないんですよね
脚色された、、架空のストーリーなんですよね。
映画ではまるで軍人気質の厳格な男爵が、、
実は、、とっても優しい温厚な人だったとか
映画でずっこけのノーテンキマリアが
実はとってもしっかり者で、几帳面だったとか
ま
映画はあくまでも映画です。フィクションですよ。
映画に現実を見ちゃあいけませんよ
そうでしょ。
付記
トラップ一家のトリビアな逸話
☆マリアはなんとヒットラーととある喫茶店で遭遇したことがある。
マリアは彼に対してすごい不快な印象を持ったという。