深層web 都市伝説『kill for me』鴉と鴉
ジェイはその日も、コツン、コツンと、ベランダのガラス戸を叩く音で目を覚ました。
気だるい頭を持ち上げて黒のカーテンを引くと、燦々とした朝日に照らされたマイアミのビル街を背に、一羽の鴉がそこに待ち構えている。
「ったく、毎朝うるせぇってんだよ……」
ジェイがぶつくさと文句を垂れながらも机の上の小瓶を取って、中に詰まったミックスナッツの中からくるみを選んでいくつかベランダに放ってやると、鴉がぴょこぴょこと跳ねてそれを啄んでいく。
その鴉はくるみ以外は渋ってなかなか食べなかった。
その鴉がくるみを啄むと、代わりに、咥えていた何かを落とした。
全てのくるみを胃の中に回収すると、鴉は落としたソレを再び咥えて、ジェイの部屋に向けて放り投げる。金属質の音を立てて汚れたフローリングにソレが転がるのに満足したのか、鴉はくるっと振り返ると、バサバサ羽をはばたかせて、快晴の朝の街へ飛び去って行った。
その際に鴉の羽が一枚抜け落ちて、ジェイの部屋にふわりと落ちた。
ぼさぼさの髪を掻き毟りながら、ジェイはその羽を机に乗せ、鴉が残していった、くるみの対価を拾い上げた。ボタンのようなものが付いた五センチ四方くらいの軽い金属の塊。それをポンポンと投げながら、もうひと眠りしようとベッドに戻り、何気なくそのボタンのような部分に力を込めてみた。
その瞬間
心臓を掌底で突かれたような衝撃がジェイを襲い、建物全体が震えたのか三半規管は一瞬で平衡感覚を失って前後不覚に陥る。暴れる景色の中に放り込まれたような体感。それほどの凄まじい爆発音がした。
そんな混乱する世界の中で、机に置かれていた羽が、床にはらりと落ちた。
― kill for me -
マイアミのリバティーシティーで、ジェイはデーモンクロウと呼ばれていた。いつも黒の上下を着てパーカーのフードを被る黒づくめの服装で辺りを荒らしまわるその姿から、いつの日からかそう呼ばれるようになった。
ジェイは風俗嬢のスカウトで生計を立てていて、それなりに金回りの良い生活をしていたが、気性が荒くあちらこちらで諍いを起こし、彼の通った後は鴉がゴミ捨て場を荒らしたように散らかっていた。
ジェイはもっぱらダウンタウンで夕方仕事をする、風俗嬢なんてものは捕まえたその日にハンコを押させてしまわなければすぐに逃げ出してしまうからだ。彼の契約では、スカウトした風俗嬢が初めての客を取った段階で報酬が入る。その為にジェイは捕まえた嬢を店に連れて行くと、その場で一人目の客を取らせるのを見届けてから家路に着くのがスタイルだった。
ある日の夕方、ジェイが仕事でタウンタウンに出かけると、一際衆目を集めるブロンドヘアーの若い女が目に留まった。しかし、ジェイは声をかけようとは思わなかった。ジェイには哲学があった。スカウトの成功率の高い女の特徴、靴が汚く、膨れたでかい鞄を持っていて、髪のキューティクルは痛んでいるのに、服と化粧が力んでいる女だ。その日、見かけた彼女はそのどれにも当てはまっていなかった。それに一般にはわからなくても、SPが周囲にいるのがジェイにはわかった。良家の子女なのだろう。シンプルだが品の良い、ジャガールクルトの腕時計のような女だった。初夏の頃から週末になるとよく街に現れるようになったその女に、どこか別の場所で見た覚えがある、とジェイは感じたのだが、目の前を通った香水の強いピンクのアイラインの女に声をかける為にその感覚は引っ込めてしまった。
無事にその女を店に連れて行き、髪をジェルで撫でつけた四十代くらいの男が女を指名したのを確認して、ジェイは報酬を受け取って帰路に着いた。
酒もドラッグもやらないジェイは家に帰ると映画を見ながらナッツを齧るのが趣味だった。レオスカラックスやホドロフスキーを好んで見たが、内容よりも形式にこだわった。言い換えてしまえば内容は理解できなくても、そこにシネマが流れていればそれでいいのだ。その日は日本の「太陽を盗んだ男」という映画を流していた。何やら爆弾を作る教師の話だというのは理解できたが、字幕も無い日本語を理解できる語学力はなく、ジェイはピスタチオの殻を剥くのに夢中でクライマックスを見逃した。
テレビのスイッチをエンディングの途中で落として、ジェイはパソコンを開いた。映画も見飽きたと感じていた頃に彼が殴り倒したちんぴらから巻き上げたのは、GoProという小型のビデオカメラで、それを近所の動物に取り付けて無線で中継を見るのが日課になりつつあったからだ。
毎朝窓を叩く鴉にも取り付けた事があった。
その鴉は、愛嬌を振りまくと褒美がもらえると知っている風俗嬢の様な鴉で、ジェイの家以外にも何件もの家のベランダを梯子して、餌をせびっていた。特に大口の得意先が一軒、金持ちの娘の部屋にも上がり込んでいた。その動画をなんとなく再生したジェイの脳裏に、街で覚えた既視感が蘇る。そのカメラに映っていたのは、ダウンタウンで人目を集めていた、あの女だったのだ。マイアミビーチの豪邸に住む鴉の得意先があの女だった。風俗嬢になどなるわけないという見立ては間違っていなかったとジェイは少し満足して、眠りについた。
「コツンコツン」
ジェイは窓を叩く音で目を覚ました。
「ったく毎朝うるせぇってんだよ……」
通り名のせいではないが、ジェイが最も心を許している存在がその鴉だったかもしれない。家族とも疎遠で女は信じない、どっちもすぐに金を持って逃げるからだ。鴉は金に興味がない。光物に食指を動かされる鴉にとっては、百ドル札の束より、一セント硬貨の方が価値があるに違いない。それに、金を持って逃げるどころか、鴉は時々対価としてか光る何かを置いていく。ガラスの破片や、剥き出しになったイヤホンコード、そんなまるで価値の無いものばかりではあったが、それは棚の上のラックにまとめてしまってあった。
だからというわけでもないが、なんとなくジェイは、毎朝鴉にくるみをやっていた。
その日もくるみをやると、四角い何か金属片のようなものを置いて行った。
ボタンのようなものが付いている事に気が付いたジェイはそのボタンを何気なく押してみた。
すると、その瞬間に、町を揺さぶる程の轟音が響き、アッパーカットを顎に喰らったヘビー級のボクサーのようにジェイの視界が歪む。鼓膜を突き抜けて大脳に直接擦り付けられたような爆発音が聞こえた。
窓の外、鴉の飛び去った辺りで、だ。
開け放したままのカーテンの向こう、ジェイの住むマンションからおよそ数十メートルの空中に、雷雲のような黒煙がもくもくと立ち昇っていた。
ジェイは直感的に理解した。あの鴉が、ジェイの押したボタンによって爆発させられたのだ。
呆然と手にしたものを見つめるジェイの周りが徐々に騒々しくなっていく。
あたりは悲鳴とサイレンが入り乱れる惨状になり、ジェイがマンションから階下を見下ろすとパトランプが朝日よりも眩しいくらいに光っていた。
冷蔵庫からライム味のペリエを取り出してコップに一杯飲み干すと、ジェイはベッドに戻った。
狙われる理由は数え切れない程にあったが、命を狙われる程に、となるとあまり考えられなかったし、リバティーシティーやオーヴァータウンのチンピラが、太陽を盗んだ男の教師のように爆弾を作れるインテリだとも思えない。
そこでジェイに一つの推測が思い浮かんだ。狙われたのは、自分ではないのではないか。あの鴉はジェイの家以外にも、いくつもの家を回っている。例えば、あの金持ちの娘の家、とか。
ジェイはあの金持ちの娘について調べてみる事にした。
住所がわかってさえいれば、今時調べられない事の方が少ない。ましてやあれほどに目立つ家なのだから、社会的にもなんらかの知名度はあるに違いなかった。
ジェイの目論見は間違っていなかった。
その家は鉄鋼業で財を成している一家の別荘のようだった。そしてあの女の父親について調べている内に、黒い噂も目に付くようになった。ギャングの一家と繋がりがあり、そのパトロンになっている、麻薬の密売に関わっている、そんな噂があちらこちらに立っていた。
そして一般にダークウェブ、と呼ばれるインターネットの裏側にまで忍び込んだジェイは、そこであるホームページを見つけたのだった。
それは「kill for me」という殺人依頼のサイトだった。
そしてそこに、あの女の写真と名前、それに殺害方法や、報奨金が書かれていたのだった。
『こいつの父親は私の娘を無理やり犯しました、仕返しに殺してやってくれる方を募集します』
そう書き込まれていた掲示板に、理想の殺害方法は殴打や裂傷による外傷性ショック死や、爆死、毒殺など苦しむやり方であればなんでも、と記載されていたのを見て、ジェイは事の真相を確信した。
そして一つ、決心したのだった。ジェイは計画を頭の中で構築しながら、再びベッドに潜った。
夕方のダウンタウン、ジェイはいつものように街に立って女を物色していた。地方から出てきた女が週末になると増えて、仕事がやりづらくなる。家出しているケースを除けば、地方の女は大概引っかからない。田舎臭い女に声をかけるのはキャリーを引いている場合のみだ。
しかしその日は、他の誰にも声をかけるつもりは無かった。待ち人がいるからだ。それはあの、金持ちの娘。
爆発事件があってから一週間ほどが経ち、その間、あの娘は姿を現さなかった。誰かに殺されてしまったのか、と新聞に目を通していたがそんなニュースも出回ってはいなかったし、なにより、掲示板の掲載が取り下げられていなかった。
毎日街に立ってはその娘を探し、空振って家に帰る。
そんな生活を続けてようやく七日目の夕方、ジェイはその娘を見つけた。間違いなく掲示板の娘だ。護衛も三人周囲に溶け込んでいる。
ジェイは口を開けたままで歩く頭の悪そうな二人組に声をかけた。風俗に勧誘するするつもりは無かったのだが、たまたまその二人の進行方向が、金持ちの娘の方角だったからだ。護衛に怪しまれないように近づくために、二人と会話をしながらひっそりとその金持ちの娘に近づいていった。ダウンタウンの人混みの中で一際目立つ、その女と、ジェイが交差した、その瞬間。
ジェイは二本のバタフライナイフを娘の腹部と首筋に刺し込んだ。
そしてすぐさま三本目のナイフを取り出すと、肺に穴が開くように背中から深々と突き刺した。
娘は悲鳴をあげる事もなく声も出せないといった様子で呻きながら前のめりに倒れ込んだ。
その辺りはすぐに血溜まりが広がり、頭の悪そうな二人組が最初に悲鳴をあげた。
騒ぎにざわつくダウンタウンを尻目に裏通りにジェイが走り抜けると、護衛の一人が銃を抜いて追いかけきていた。その銃口がジェイを捉えるより一瞬早く、キーを差し込んでおいたバイクにまたがってジェイが裏通りから幹線道路に抜け出ていく。護衛が遮二無二撃った銃弾がジェイとすれ違った車のフロントガラスを突き破る、それに驚いたドライバーの滅茶苦茶なハンドル操作によって車は横転し転がって銀行に突っ込んだ。どこかに電話をする護衛のスーツがサイドミラーで確認できなくなる程小さくなり、やがて見えなくなって少し進んだ先の公園でバイクを乗り捨てて、トイレに隠していたシャツに着替えて地下鉄の駅に向かった。三つある路線の内、最も観光客の多い地下鉄を選んで一駅だけ移動すると、そこから自宅までタクシーで戻った。自宅に戻る途中、三台のパトカーと三台の覆面パトカーとすれ違ったが、ジェイはピスタチオの殻を剥くのに夢中でほとんど気が付かなかった。
自宅に戻るとまず、レモン味のペリエをコップに半分くらい飲んでから、掲示板と銀行口座を順番に確認した。事前に予定を連絡しておいた事もあってか、迅速に金は振り込まれ、掲示は消されていた。
ジェイは別の掲示板に数行の掲示をかき込むと、シャワーを浴びてから、ベッドに潜った。
ジェイは二日後に殺人の容疑で捕まった。
殺害の動機を問われても一切答えなかったそうだ。
そして、その数日後、一つの不思議な事件が、世界中のインターネットで話題となった。
ある朝、マイアミの公園に、突如として高さ10メートルにもなろうかというくるみの山が現れたのだ。
そしてこれは、おそらく誰も気が付かなっただろうが、その山のてっぺんに、一枚の黒い羽根が乗せられていた。