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君の名は  作者: 空井 純
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君の名は

 その後も、老犬の散歩は清水が担当することにした(ただし他の犬たちと準じて10分程度の短いもの)。

清水としても、老犬の写真入りのビラを作って患者さんに配ってみたり、SNSでも呼びかけてみたが、特に反応はなかった。フォロワーの多そうな人のSNSではしばしば迷子動物の情報が乗り、有効な情報が返されたりしているが、清水の交友範囲では無理のようだ。あっという間に日にちが経っていき、愛護センターだったら、もう保護期間は終わってしまいそうだ。

 朝夕の散歩に連れ出してくれる清水に老犬も僅かに懐いているようで、ケージのある入院舎の清水が行くと、あまり興味がないような顔をしながら、横目でチラッと見ているのを感じる。

「お前、素直じゃないな」

 ケージを開けてなでようとして、頭の前に手が行くと小さく首をすくめて目を細める。何かトラウマがあるのだろう。清水は悪いことをしたような気分になってケージを閉める。

「じゃ、後で散歩のときな」


 今日も散歩では軽快に歩いていく老犬。今日は病院を出てすぐに左に曲がった。毎日道順はバラバラで明らかに家を探している気配はない。そうだ、こういうリラックスしたときこそ、スパイもミスを犯すのではないかと考えた清水は、保護した日からも、頭の片隅で考え続けていた、この犬の名前を口に出して呼びかけた

「ウメ」

 老犬は一瞬肢を止めて、ちらりと振り返った。そして、しまったという感じですぐに前に向き直り、そ知らぬふりをして、前に前にとっとっとと歩いていく。

「ウメだろ。そうだと思ってたんだよ」

 清水はウメに話しかけながら散歩を続ける。

 サクラと似たような花にも関わらず、サクラほどもてはやされず、それでいて、梅の実など実益となるものを提供する梅。この地味で、そっと生きている感じが、この老犬にはぴったりだと思えたのだ。

 ウメは、知りませんよ私は、という態度で散歩を続けている。

 名前がわかったことで、清水は急にこの老犬に愛情が湧いてくる。相変わらず入院舎にいるときは無表情でいるが、散歩のときは僅かに上がる尾、それもまた清水だけが、ウメの本当の姿を知っているようで愛おしかった。

 既に保護されて2週間がたとうとしていた。清水とウメはだいぶ打ち解けていた。病院のスタッフは、清水がウメに懐いていると軽口をたたく者もいたが、清水が入院舎に入れば、ウメもおろしたままのしっぽを僅かに左右に振るようにはなっていた。


 そんな2人の別れは急に訪れることになった。

 その日、先日迷子から自分で帰還した山内さんのショコラちゃんが痒みで来院した。

「山内さんどうぞ」

 清水の呼びかけに、ショコラちゃんと山内さんが診察室に入ってくる。

「先生、ショコラがね痒いみたいなの。ほらこの背中のところ掻いてくれ掻いてくれと寄ってくるのよ」

 清水が話しかける前に山内さんはどんどん話はじめ、診察台の上でショコラの背中を勢いよく掻く実演を始めた。ショコラは気持ちよさそうな顔をして、かつ短い後ろ足をカッカッカッと動かして自分でも掻いているような仕草を見せている。これは痒いところを触られると起こる反射だ。診察台の上にぽつぽつ黒いごみが落ちている。

「山内さん、ショコラちゃんはノミがいるみたいですよ」

 診察台の上のごみをアルコール綿で拭うと、じわっと赤いしみができる。黒いごみの正体はノミのフンなのだ。動物の血液を餌としているノミのフンはこういう反応をする。

「あらやだ、ショコラちゃんは、道路の上しか歩かないのよ。草むらなんて虫がいっぱいいるから嫌よねぇ」

 ショコラも、そうですともという顔をしているが、恐らく迷子になって家に帰るまでに、どこかの草むらで遊んだのだろう。もちろん、真相はショコラにしかわからないことだが。

「まあ、どこで移ってきたかわかりませんが、ノミ取のお薬使えば大丈夫ですから、病院でつけておきましょうか」

 清水は、犬の体表をコーティングして、ノミの駆除と予防のできる薬を、ショコラの首筋にそっと垂らした。山内さんは、まだ、ノミがついたことに不服そうだったが、そうだと気を取り直したように話を始めた

「先生、そういえば、私のお友達のお友達の家で、ワンちゃんが逃げちゃったって話を聞いたのよ。その方に、この前のビラを見せたら似てるかもしれないっていうことなの」

 そのお友達のお友達が、明日病院を訪問したいという旨を清水に伝えるという使命を友達から拝命したため、今日受診をしたらしい。

「そうですか、では明日のお昼ごろに来ていただいても良いですか」

 飼い主が見つかるなんてことはもうないだろうと思っていた清水としても意外な展開だった。


「ウメ、お前の飼い主かもしれない人が、明日来るぞ。でももしお前が帰りたくないっていうなら、病院にいてもいいんだからな」

 保護されてきた時の、ウメの寂しげな顔、無表情の反応、手が顔の近くに来た時の怯えた表情。それらをみると、元の家で幸せに生活していたようには思えない。そこに返さなくてはいけないのか。飼い主が判明した場合、犬が帰宅を拒否する権利はないし、清水も引き渡しを拒否する権利はない。

 でも、と清水は思う。ウメは、首輪やリードに名前も書いていないし、マイクロチップも入っていない。白っぽい犬等意外に大きな特徴もない。ならば、飼い主が、自分の犬だと言い張ったとして、だれがそれを証明できるだろうか。もしも、明日飼い主だという人物にあって、清水が納得できなければ、自分で引き取ろうと密かにこころに決めた。清水は自宅住まいだし、どうにかなるに違いない。



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