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君の名は  作者: 空井 純
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君の名は

 午後の診察も、あまり忙しくなく、清水が担当したのは予防接種の診察が3件だけだった。診察の間、犬は名前を呼ぶと反応するのかという疑問がしばしば頭に浮かんでくる。今日の清水は、何とかの接遇セミナーを受けて感作された人のように、いつになく診察中に、動物に名前で呼びかけていた。

 清水の得た感触としては、わからない、だ。

 呼びかけて反応する犬もいるし、反応しないこともある、読んで反応する場合も、名前を呼びきる前に反応することも多く、名前を認識しているのか、雰囲気で反応しているのか、はたまた診察中は緊張しすぎて反応しなのかの判別は難しかった。

「水野先生、うちの子この間リード抜けちゃって逃げ出してね。でも自分で帰ってきたのよ」

 半分うわの空でいた清水だが、診察中の山内さんの声ではっと現実に戻ってくる。しかも山内さんは、清水の名前を水野と言い間違えたが、ミズという音に引き戻されたことを清水は自覚している。名前は必ずしもフルで呼ばなくても反応するものなんだ。

「山内さん、なんて言いました」

「だから先生、うちの子逃げたんだけど、自分で歩いて戻ってきたんですよ。えらいわよね~」

 まんざらでもない顔をして抱きかかえられているのは、ダックスフントのショコラちゃんだ。茶色いダックスだからショコラ。

「それはすごいですね。それに交通事故に巻き込まれなくてラッキーでしたね」

 気づかれるかどうかぎりぎりのチクリを入れてみる。山内さんは気ずかないようで、素直に褒められた喜びをたたえた顔で

「いつもね、お散歩の帰りはショコラちゃんに任せてるからね、お家までの道も覚えていたのよね~」

 散歩は必ず、飼い主が行先を決めてリードを引っ張らないように歩きましょうというのが、トレーニングの際の基本だ。しかし、山内さんはその原則から離れていることは気にも留めていないし、むしろそのせいで利を得たと自慢している。ノーリードで放す飼い主は問題外だが、小型犬の多い日本では意外と皆、独自の散歩を楽しんでいる。トレーニングの原則から適当に離れても、それなりに生活していけるという矛盾した現実にどう付き合っていくのがいいか清水はまだ迷っている。犬はきっちりトレーニングすべきなのか、動物との生活というのはごちゃごちゃとして過ぎていくそういうものなのか。そんなことに気を取られているうちに、自分のことを先輩獣医師の水野と呼び間違えたことを山内に伝えるタイミングを逸して、水野として診察を終えた。

「でも、犬が家までの道を覚えている可能性は検証してみる価値があるかもしれない」

 夕方の散歩の時間に試してみようと、清水はひそかに心に決めた。


 夕方16時頃から、動物病院の入院舎では夕方の投薬や看護、給餌などが始まる。ペットホテルとして利用している、病気ではない犬たちは(猫は散歩はさせない)、散歩の時間であもある。通常は看護師達が主体となっての仕事なのだが、例の老犬の散歩は清水が担当することにした。幸い、午後の診察は混んでいないので、他の獣医師に任せて清水が散歩に出ても差し支えなさそうだ。

「じゃあ行ってくるね」

 老犬の首輪にリードを付け、さらにもう一本予備のリードをかける。万が一どちらかが外れてしまっても逃がしてしまわないように、散歩に出る際はどの犬も2重のリードを付けることになっている。ケージを開けて呼び出したときは、例の調子でとぼとぼ出てきた老犬だが、リードを付けられると、散歩だと気付いたのか、完全に下がっていた尻尾が60度程度に中途半端に上がり、僅かに左右に振られた。

「おまえ、散歩好きなのか」

 相変わらず返答を期待しない問いかけをしながら、清水は病院の裏口から外に出た。老犬は、意外と軽快な歩様で、とっことっこ歩いていく。尻尾も60度のままキープしている。よく犬たちが排泄する人気の電柱では、一人前に臭いをかぎ次いで排泄もした。散歩を楽しんでいるようだ。病院に保護されていらい、常に物寂しそうな表情でいるこの老犬に清水は少なからず哀れを感じていたから、この散歩の様子に少しうれしくなった。

「おい。好きな方に行っていいんだぞ。おまえんち分かるか、そこまでついていくから、ほら歩いてみな」

 老犬に促してみる。とっとっとと、やや前のめりにつんのめりながら老犬は、病院から左側の坂を下り始めた。清水は、犬に先導されるようにその後をついていく。坂を下り切ると川があるのだが、そこも迷わず右に折れて川べりの道を進んでいく。

 やがてしばらくしくと、庭にうっそうとした木が茂る、大きな旧家があることを清水は知っていた。

「お前、お金もちの家の子なのか」

 老犬はプシュッと小さく鼻を鳴らし、まっすぐ歩いていく。獣医師に成るような人間は、どこかに動物の不思議な力を目の当たりにしたいという希望を持っているものだ。災害の予知をしたり、飼い主の危機を知らせたり、飼い主が寂しきもちでいるときに不思議と寄り添ってくれたり、ここほれわんわんと言ってくれたり。

 老犬は、軽快に歩き続け、その勢いのまま旧家を通り過ぎた。動物が不思議な力を発揮しりこともあるが、それはやはりめったに遭遇しないからあこがれるのだ。


 その後も、景気よく歩いていくが、慎重に臭いをかぐでもなく、自分の家を探しているわけではなさそうだ。20分ほどで清水は見切りをつけ、自分が主導となってリードを引いて病院への帰路についた。

 散歩に出て40分程度経っていた。病院業務を抜けて散歩に出るには時間を使いすぎた。

「清水、ちょっと長く抜けすぎじゃないか」

 先輩の水野が声を掛けてきたのは、看護師などからの陳情を清水に伝えるためのようだ。

「すみません。保護犬の家が見つかるかと思って、一緒に歩いいたら、つい時間が経ってしまって」

 水野は意味が分からないという表情を見せたが、一応先輩らしく。飼い主をみつけるつもりなら、ビラやSNSなど利用したほうが良いとアドバイスして立ち去っていった。

 けっきょくその日、警察や愛護センター-から迷子犬の情報が寄せられることはなかった。



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