君の名は
鑑札に刻印されている県は、こことは3犬以上も隔たっているから、そこから歩いてきたとは考えにくいので、まずはこの近くの警察と、愛護センターに連絡を入れることにした。もし、自分の犬が行方不明になっていることを飼い主が気が付いていれば、ここに連絡を入れているはずだからだ。しかし、今のところ特に白っぽい老犬を探しているという届はないということだった。次に、念のため鑑札に刻印されている地域の保健所に電話を入れてみる。調べて、折り返すからという返答が得られたので、それを待つことにする。
清水が再び入院舎に入ると、そこに居る小型犬たちが一斉に騒いでアピールしてくる。常連で来ていて、病気の時は清水が担当している、少しがっちりめのチワワのケージを開けて少しかまってやる。チワワはお腹を見せて喜んでいる。
「じゃあな」
ケージの扉を閉めて、当初の目的である先ほどの老犬のケージを開ける。清水はクリーム色の四角いコントローラーのようなものを電源をいれ、老犬の体の上を何度かすべらせる。左右の肩甲骨付近と、背中のラインなど犬の体幹を何度も往復する。
しばらく続けたあと、コントローラーのようなものの電源を切り、ケージを閉める。
「マイクロチップなんて入っているわけないよな。ねえ、どっから来たんだよ」
犬に話しかけ、入院舎から出て行った。
頼みの綱の鑑札だったが、鑑札を発行した県からの連絡によると、数年前に引っ越したらしく狂犬病予防接種の書類は届かなくなっており、飼い主の所在は不明ということだった。本来、飼い主が引っ越すときには、転出届を提出し、引っ越し先で転入手続きをしなくてはいけないが、それをされていなかった。
つまり、結局ここにきて犬の飼い主の情報は全くなく、あとは、いなくなったことを気付いた飼い主が警察や愛護センターに問い合わせてくれるのを待つしかない。
院長室のドアをノックする。ハイどうぞと、緊張感のない返事がする。山田動物病院の院長山田だ。保護犬は、すぐには飼い主が見つからない可能性が出てきたから、院長に報告して、しばらく病院で保護することをお願いするつもりでいる。動物病院の本来の仕事ではないが、すぐに愛護センターに引き渡すのはやはり忍びない。
「失礼します。あの、先ほど犬が保護されてきまして」
清水は今までの経緯を報告し、しばらく病院で保護したい旨を伝える
「なるほど。つまり清水先生の早合点で、預かってしまったってことだね。ま、預かっちゃったものは仕方ない。でもできるだけ飼い主が見つかるように手は打ってよ。僕たちも動物達には世話になってきているから、恩返しのつもりで場所は提供するよ」
本来、迷子の動物は愛護センターに保護を頼むのというのが政府の決めた手順だが、多くの院長たちでさえそこに躊躇があるというのが、動物行政の大いなる矛盾なのだ。
丁重にお礼を述べて院長室を辞して、これから飼い主探しのプランを考えることにした。
「お前、なんていう名前なんだよ」
人で迷子やどこかで救助された際は、必ずまず名前を聞かれ、可能なら住所や電話番号を聞くだろう。しかし、動物の場合は、その動物が自分の名前や住所(家の場所)を知っていたとしても聞き出すことはできない。
「清水先生、なに独り言いってるんですか」
やってきたのは、看護師の関口だ。ふんわりした雰囲気を持つ彼女は、動物達にも割と好かれる。
「ああ、関口さん。さっき保護された犬を預かっちゃってさ、飼い主探ししなくちゃいけなさそうなんだよ」
清水は今までの経緯をかいつまんで話し、戯れに名前を聞いていたのだと伝えた。
「そっか、名前なしじゃかわいそうですもんね」
顎に手を当てて考え込むような様子を見せた関口は
「先生、良くスパイ映画とかで、偽名を使っているスパイに本名で呼びかけて思わず応えちゃうってやつがあるじゃないですか。それやってみましょうよ」
と少しいたずらっぽい顔で、清水に提案した。つまり、適当な名前であの老犬に呼びかけてみて、反応を見て名前を当てようということらしい。非現実的だが、午後の診察まで30分もなく、すぐには対策も練れないだろうという諦めもあり清水も戯れにその提案に乗ることにした。
老犬を入院舎から連れてくる。相変わらず素直にリードの後をとぼとぼ無表情についてくる。相変わらず老犬は従順で寂しそうな顔をしている。
「先生がみたところの、この子の背景の推測はどんな感じですか」
そこから名前を推理するつもりらしい。
「そうだな。歯や眼の状態から10歳以上、雌、ノミの寄生はないし、爪も伸び放題ではないから、それなりにちゃんと飼われていたと思う。でも何となく埃っぽいから、こまめにシャンプーをしている感じではないからもしかしたら外飼いかもしれない」
「その他ヒントはないんですか」
ヒントが欲しいのは僕の方だとは思った清水だが、少し考えて
「そういえば、さっき預かるとき頭の上を手が通ったら、少し首を縮めて避けようとしたから、ぶたれたりしたことがあるのかもしれない」
「それはひどいですね。飼い主さんのとこなんか帰らなくていいんじゃないの」
清水の当て推量にやや本気で腹を立てている関口さんをみて、自分の推理がかえってこの犬の飼い主を見つけにくくしそうだと、少し後悔した。今後は確かな情報だけ伝えるようにしようと、内心で反省する。
「じゃ、私から行くね」
「ハナコ!」
犬、動かず。相変わらず少し悲しそうな顔をして立たずんでいる。
「シロ、サクラコ、ムク、ミミちゃん」
どれも反応なし。やや下の方に視線を向けたまま、老犬はたたずんでいる。
「ん~違うのかな。今度は先生の番」
そういわれて清水も一応、思いつく名前を呼びかけてみる。正しい名前を呼んだら本当に反応があるのだろうか、という疑問が浮かぶが言葉にはしないことにした。
「じゃあ、チロ」
白犬だからシロ、シロ、チロ。という変異を想定している。清水が小学生の頃に夢中で読んだノンフィクションに出てくる犬の名前とも一緒だ。
反応なし。
「ハナ」
犬の様子から、そこそこ管理されているけれど、外飼いかもしれず、攻撃性もないがあまり人に興味もなさそうな犬。このような感じの飼育をするのはおそらく、若い夫婦ではないだろう、どちらかというと一戸建て住まいの老夫婦という感じだ。という清水の推理から導き出された名前だ。
反応なし。
「チヨコ」
清水がこの犬から受けたインスピレーションによる名前。
反応なし。
「ミルク、プリン、コメ、こころ、さつき、マル」
思いつく名前を適当に読んでみたが当たるはずもなかった。関口さんも、それ以上名前のストックもないようだったから、2人は即席の名前当てゲームを終わりにして、老犬を入院舎のケージにしまいに行き、午後の診察の準備を始めた。




