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君の名は  作者: 空井 純
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君の名は

 置いていかれた犬は、居心地の悪そうな顔をして、小さくベロを出し入れして、ちょうど落ち着かない人が、乾いた唇を潤そうとするような仕草を繰り返している。手渡されたリードは標準的な長さで、清水と犬の間でだらりとしていて、そこに感情のやりとりが無いことを示している。

 清水は、リードを左手にたぐめて軽く引いてみた。犬は、一歩目をつまずくように動き出したが、その後は、恐る恐るではあるが、素直についてきた。警察や愛護センターに知らせる前に、まずはこの犬の特徴や状態を確認しなくてはいけない。

 とぼとぼとついてきた犬をそっと診察台に乗せった。清水の手が、犬の頭部を通り過ぎたとき一瞬目を細め身を引いたが、それ以上の抵抗は見せず、おとなしく台の上に乗せられた。体重は8㎏、色は全体的に白く耳と背中のちょうど峰になる部分の周辺だけ背骨に沿って薄い茶色の被毛が覆っている。特別特徴的な斑などはみられない。体格の目安になるBSCは2.8つまりやややせ型、爪はそれほど伸びていないが、白い被毛は何となく薄ら汚れているので、管理の状態は劣悪ではないが、それほどマメにはされていなさそうだ。

 下腹部を確認したところ、どうやら雌らしい。次に尾の付け根をチェックして、ノミの寄生がないかを確認する。しばらくだとはしても、動物病院内にいるからには、ノミが寄生していたら、他の動物への感染源となる。ノミの感染なし。この初夏にノミ感染が無いとなると、やはり飼われて予防がなされていたのだろう、そして逃げ出してそれほど経っていないのだろうと考えられた。


 ここまで犬はおとなしくしている、診察台から飛び降りようとも、清水に咬みつこうともしない。おとなしいというより、無気力に感じる。今までどんな生活をしていたのだろうと、同情とともに、僅かに興味がそそられる。

 攻撃的ではないようなので、頭部も診察を勧める。

 顔周りを触っても嫌がる様子はなく、従順だ。眼に光を当ててみると、奥が白っぽく見える。よく白内障と間違えられるが、核の硬化症という老化現象による水晶体の濁りだ。そこから推測するに若くはなく、すくなくとも7歳以上だろう。右眼のすぐ下のいわゆる頬には傷跡のようなものがある。これは何かのけがによる古傷か、歯周病による排膿の跡が考えられる。歯をチェックするためにそっと唇を持ち上げる。日本犬は神経質なところがあり、いくら従順でも急に我慢の限界がきて怒り出すことがあるから、特に口周りを触る時には油断はできない。しかし、この犬はそれでも怒らない、というかすべてを諦めたように受け入れているようにも見える無表情を変えないのだ。

 清水は、少しこの犬が可愛そうになってくる。今までどのような生活があってこんな諦観を身に着けたのだろう。歯の状態は比較的悪く、やはり頬の傷跡は歯周病によってできたもののようだった。歯の状態からみると10歳以上かもしれない。


「お前、怒らないんだな。どこから来たんだよ」

 聞いても仕方がないのはわかっていても、清水はというか動物病院のスタッフは動物によく話しかける。それに何の意味があるのか清水は考えたこともないが、動物のみならず、機械や道具にも話しかける日本人的なアニミズムなのかもしれない。しかし、アメリカ人だって動物に話しかけるから、やはりアニミズムではなく、生き物としての親しみという面が強いのだろう。

もちろん犬は答えない。

 聴診や触診で特に大きな病気や外傷もなさそうだということを確認して、犬を台から下し、とりあえず入院室として使っているケージに入れるために入院舎に連れて行く。リードを引くと、相変わらずとぼとぼとついてくる。入院舎を開けると、そこに居る5~6頭の犬が急な侵入者に向かって吠え始める。清水の病院ではペットホテルも請け負っているから、入院舎と言っても病気の犬ばかりではないのだ。暇を持て余している小型犬は、人が来れば構ってほしくて声をあげる。保護されてきた犬は、同種の犬たちの吠え声にも無関心のように、斜め下をボーっと見つめるようにたたずんでいる。

「はいはい。みんなうるさいよ」

 と注意しているようで、それほど効果のない声を掛けて、清水は保護されてきた老犬の部屋にタオルと、水の皿を設置して整えてやる、その手前に連れて行くと老犬は意外と軽い足取りで、ケージにひょいと入って行った。リードを外すときに、そういえば大事なチェックを忘れていたと、犬がつけていた首輪を外す。確か狂犬病の鑑札がついていたのだ。それ以外に、電話番号や名前などが書いてあるかもしれない。


 老犬のケージの扉を閉めて、明るいところで、よく見ようと外した首輪を持って診察室に戻った。そこで、改めて首輪を見た清水は、ヤバイと思った。狂犬病の鑑札は、確かに首輪についていた。しかし、その届け先は清水の住む地域のものではなく、遠くの県名が刻印されていたのだ。

 通常は引き受けない迷い犬を気安く預かったのは、鑑札がみえたこととリードが付きっぱなしだったことから、すぐに飼い主がわかるだろうとたかをくくったからだ。しかし、これではわからない可能性がある。そして、首輪に迷子札のようなものも、電話番号の記載もみつけることはできなかった。




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