終章:どっちが好き?
石段を夢中で駆け上がる。
足がもつれて、転びそうになる。この半日で何度も石段を昇降したせいで、いい加減足は疲労しきっている。それに今しがた全速力で自転車を漕いできたのだ。
この細い石段を転げ落ちたら、怪我で済むかどうかもわからない。だが、速度を緩めることはできない。急がないと――亮介の頭にあるのは、それだけだった。
だが、とうとう石段の中腹で立ち止まってしまう。膝に手をつき、息を整える。
それからもう一度、石段の頂上を睨みつけ、走りだす。
芙美子は、社の前に座っていた。所在なく携帯電話を開けたり閉じたりしているが、操作する素振りもなく、また着信が来る気配もない。
ぴくり、と頭の上の耳が震えた。
石段から――誰か来る。
やっとの思いで石段を登り切った亮介は、倒れ込みそうになりながら踏みとどまり、再び膝に手をついた。
ぜぇはぁと荒い呼吸を繰り返す亮介に、芙美子が駆け寄る。
「亮介!」
亮介は何も言えず、ただ手に持っていた袋をずい、と差し出した。
芙美子はそれを受け取って、中を覗き込み、
「ありがとう、亮介」
「――はやくしろよ。また遅刻するぞ」
「……うん」
芙美子はビニール袋から油揚げのパッケージを取り出し、それを手に社へ向かった。
「――おっ、やっと持ってきたのか」
「ええ」
突然聞こえてきた声にも、芙美子はもう驚きはしない。代わりに、とつぜん一人で話し始めた芙美子に亮介が驚いた。が、すぐに例の声が聞こえているのだと気づき、黙って見守ることにする。
「ったく、最近の若者は手がかかるぜ……」
「ごめんなさい、そこまで気が回らなくて」
「まあ、結果オーライだ。俺は油揚げが食えて、お前は願いが叶う、そうだろ?」
「……願いも大事だけど、その、元に戻してくれない?」
「あーそうだったな、忘れてた。……でも意外と、それが着いてたほうが喜ばれたりするんじゃないのか?」
その言葉に、芙美子は黙りこむ。そして肩越しに振り返る。
「――ねえ、亮介」
「なんだよ」
「耳と尻尾、あるのとないの、……どっちが好き?」
「はあ? なんだよそれ」
「いいから答えてよ。正直に」
芙美子は亮介に向き直った。
正面から真剣に尋ねられ、亮介は困ったような顔をした。
「いや、その……ナシじゃないというか、そう思うけど……」
顔をそむけながら、言いづらそうにそう答えた亮介は、「あ、でも」と言いながら再び正面を向いた。
「ひげはないほうがいいんじゃないかな」
「……ということなので、全部元に戻してください」
「せっかく着けてやったのに、もったいねえのー。まあいいや、俺には関係ねえし」
そう声が答えると、突然、びゅうと風が吹いた。亮介の背後、彼の方を向いている芙美子にとっては正面から。
思わず芙美子が顔を腕でかばう。手に持ったままのビニールがガサガサと鳴る。
「――それじゃあな。うまくやんなよ」
やがて風が止み、芙美子が腕を下ろすと、亮介が安堵したような表情を浮かべた。その顔にあったはずのひげはきれいさっぱり消え、耳も、尻尾も、嘘のように消えている。
何より不思議なのは、未開封の油揚げのパッケージが、開封されないままで中身だけ忽然と消えていたことだった。
空になったビニールの袋を芙美子と亮介はしばし見つめていたが、やがて顔を見合わせて笑った。
芙美子は自分の頭の上に手を伸ばしてみた。さっきまであった2つの突起物は、ない。顔を触ってみた。左右数本ずつのぴんと伸びたひげは、ない。
芙美子はその場でくるりと回転してみた。
「どう、まだなんかついてる?」
「いや、なんにも」
そういえばスカートの穴はどうなったのだろうと芙美子は触れてみた。穴は開いていないし、尻尾もない。
「――行こう」
「――うん」
すこし狭い石段を、歩調を揃えて、二人が降りていく。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今後も小説家になろうで活動していくつもりですので、よろしくお願いします。
頂いた感想・評価やTwitterでのコメントは励みになります。ありがとうございます。