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第六章:なんと半額

 時刻は午後3時になろうとしていた。亮介はスーパーの前に自転車を停め、汗を拭った。夏の一日で最も気温が高くなるのは午後2時から3時だという。油揚げを買うついでにまた飲み物を買わねば、と思いながら、足早に店内に入る。

 主婦と見受けられる女性客を中心に混雑した店内は、コンビニほどではないがよく冷房が効いている。

 亮介は子供の頃から、何度もこのスーパーには来たことがあった。親に連れられてきたり、一人で来たりと、その時によってまちまちだったが、店内の配置くらいは覚えていた。まっすぐに豆腐や油揚げが陳列されている棚に向かう。


「あれ……売り切れ?」


 棚にはほとんど商品がなかった。豆腐1丁、油揚げ1パックすらない。一体どういうことなのか。

 亮介が困惑していると、不意に店内の陽気な音楽が途切れ、男性の声で店内放送が入った。いらっしゃいませー、いらっしゃいませー、いらっしゃいませー、と音程を変えながら3回早口に唱えた後で、こう続いた。


「――本日のタイムセールについてご案内します。本日のタイムセールは、夏祭りの関係で、いつもより1時間早め、間もなく午後3時から、となります。間もなく3時から、タイムセールが開始されます。本日のタイムセールは、大豆食品がなんと半額。納豆、豆腐、豆乳に油揚げ、どの製品も、半額。午後三時から、特設コーナーにて開催されます、お得なタイムセールを、どうぞお見逃しなく」


 次の瞬間、店内にいた客達が、一斉に一つの方向へ移動し始めた。

 亮介は一瞬呆けたが、はっと我に返って、群れに遅れるまいと移動を始めた。放送によると間もなくタイムセールが始まり、今日の対象は大豆食品、その中には油揚げが含まれている。

 タイムセールの開場である特設コーナーには、すでに人だかりができていた。いや、人だかりなどという表現では生ぬるい。人の山、人の海――それもオバチャンたちの、だ。


 ――え、あれの中に入らないといけないの?


 亮介は息を呑んだ。そこはまさに戦場であった。押さないでください、まだあります、という店員の声が響くが、そんなもので止まるオバチャンたちではない。次から次へと人だかりに飛び込み、かき分ける者が現れている。しかも、なかなか人が集団から抜けだしてこない。つまり、一度中に入ったら出るのも困難、あるいは欲に任せていくらでも商品を確保しようとしている、このどちらかであると予想できた。


「――うわっ」

「ちょっと、邪魔よ!」


 背後から見知らぬ女性にぶつかられ、亮介はよろめいた。女性はそのまま、人の山に飛び込んでいく。

 亮介はだんだん苛立ってきた。なんで油揚げ一つすんなり買わせてくれないんだ。


「くそっ」

 吐き捨てるように言うと、亮介は特設コーナーへ駆け出した。




 芙美子は相変わらず、社の中に腰を下ろしていた。

 手に持った携帯電話を、操作するでもなく弄びながら、5年前の夏の日を思い返す。

 あの時のことを亮介は覚えていないのかもしれない。彼にとっては、なんでもないただの夏の日だろうから。だが芙美子にとっては違った。確かに芙美子はあの時狐を見て、この社の存在を知ったのだ。もっとも、山道に迷って怒られたり心配されたりしたことの印象が強く残っていたが。

 その後中学、高校と進むに連れて亮介とは疎遠になった。しかし芙美子は亮介のことを見ていた。逆に、亮介にも見て欲しかった。だから委員長という役目を引き受けるようになったのだ。クラスの代表なら、嫌でも目立つから。

 もっとも亮介からは委員長、という言葉の響きだけで避けられているように感じたこともあったが――。

 不意に、携帯電話が鳴った。ぼーっと考え事をしていた芙美子は、慌てて電話を受けてしまう。

 画面に表示されている名前を確かめることもせずに。


「――あ、もしもし委員長!?」

 聞こえてきたのは、クラスメイトの長田の声だった。明るく、芙美子とは違う方向でクラスの中心的な存在だった。慌てて画面を確認すると、間違いなく「長田さん」と表示されている。

「――もしもし、長田さん?」

 声が震えないように気をつけながら、答える。


「委員長、今日どうしたのー? もう、みんな心配したんだからねー」

「ご、ごめん……今朝はちょっと、体調悪くて……」

「そっか。じゃあしょうがないね……ねえ、乾くんから話聞いてる? 来れそう?」

「あ、うん、夏祭りだよね。行くつもり、だよ」

「ホント? やったー!」


 電話口の向こうで、長田は誰かに「委員長来るってー」と言った。

「それでね、今LINEの方には送ったんだけど、集まるの早めたいなって思ってて。4時位に集まろうって、乾くんに伝えてもらいたかったんだけど、乾くん反応なくって……」

「4時……?」

 急な話だった。今は3時過ぎ。間に合うのだろうか。


「うん。せっかくだし、今朝できなかった文化祭の話したいしさ、早くから出店はやってるみたいだし」

「……そっか、わかった。4時、間に合うかわからないけど、頑張っていくね」

「ありがと委員長! それじゃあね!」


 ぷつっ、と通話が終わる。

 芙美子はその音を聞くやいなや、亮介に電話をかけた。

 しかしコール音すら聞こえず、ただ電源が入っていないか圏外だ、という旨のメッセージが流れてきた。


「圏外って……どういうことよ、ちょっと」

 芙美子は呆然として、携帯電話を見下ろした。ディスプレイにはご丁寧にも、「乾亮介 圏外」の表示。

「どうしよう……」




 亮介は脚を引きずるようにしながら、スーパーを出た。

 右手にはビニール袋が握られている。中身は油揚げ。やっとの思いで掴みとった、高級油揚げ1パック2枚入り、半額になって249円だ。

 左手には、スマートフォン。画面全体に大きくヒビが入っている。

 オバチャンたちの押し合いへし合いは、亮介の想像を遥かに超える熾烈な争いだった。揉まれ潰されながらやっと陳列棚にたどり着き、油揚げに手を伸ばした時、ポケットからスマートフォンが滑り落ち、人の波間に消えていった。


 おかげで亮介は、渦中を脱した後も人だかりが完全になくなるまでその場で待たなくてはならなかった。踏みつけられひび割れたスマートフォンは、いくらボタンを押してもうんともすんとも言わず、亮介はがっくりと肩を落とすこととなった。

 これでは芙美子とも連絡が取れない。一刻も早く戻るのが最良であったが、亮介に自転車を漕いで全速力で神社を目指す体力は残されていなかった。スマートフォンをポケットにねじ込み、前かごに買い物袋を放り込んで、自転車にのろのろとまたがり、それほどスピードを出さずに漕ぎだす。

 のろのろ、とまでは行かないまでもやや低速でもと来た道を戻って行く途中。


「あ、乾」

「ほんとだ、乾くーん」

 前方、コンビニの前にたむろする集団から、声をかけられた。


「あ……なにしてるの、こんなところで」

「何って、もう少ししたら集まる時間じゃん、私たち学校出てから時間つぶしてたんだー」

「もう少しって……6時じゃなかったっけ」

「あ、やっぱり乾、LINE見てねえんだな」

「うん、今ちょっと、電池切れちゃって……」

「しっかりしてよー、委員長に電話かけちゃったからね、乾くんが返事してくれないから」

「ご、ごめん……」

 亮介は違和感を覚えた。


「電話かけたの? 出たの、あいつ」

「うん、普通に出たよ? 乾くんから今日の話聞いてるって言ってたから、てっきりもう会ったのかと思ってたけど」

「いや、会っては会ったんだけど……で、何時に集まることになったの?」

「4時」

「……4時?」

 亮介はスマートフォンで時刻を確認――しようとして、使用できない状態であると気づく。


「今、何時?」

「3時50分くらい? 委員長に電話したら、4時に来れるって言ってたよ、ちなみに」


 亮介は頭を抱えたくなった。

 芙美子が彼女たちの信頼を損ねるようなことが、これ以上あってはならないと思っていた。芙美子は委員長だ。亮介のような、クラスにいてもいなくても同じで、居場所を確保するために努力する必要があるタイプの生徒ではない。しかし、こう何度も約束を破るような真似をして、後々クラスの中で孤立する要因になったり、疎まれたりするのは、亮介は嫌だった。


「わかった――じゃあ、俺はこれで」

「え? 私たち今からちょうど神社に行くんだよ、乾くんも一緒に行こうよ、せっかくだし」

「いや、俺はちょっと……」

「長田ー、察してやれよ。乾はこれから、委員長を迎えに行くんだろ?」


 からかうような声のトーンで、男子生徒の一人、海堂が言う。

「え……そうなの?」

 長田の声の調子も、それに近いものに変わる。


 亮介が芙美子との間柄をからかわれるのは、久しぶりだった。小学生、中学生の頃は、それが嫌で嫌でたまらなかった。それで、芙美子を遠ざけるようになり、やがて芙美子自身が亮介から遠ざかっていった。

「……そうだよ。だからちょっと急ぐんだ」


 それじゃ、と返事を聞かずに自転車を漕ぎだす。

 誰かが背後で、ぴゅうと口笛を吹いた、ような気がした。

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