第一章:こまきつね
夏の盛りのある日の昼下がり。草加芙美子は、雑木林を一生懸命に歩いていた。小学校の裏山はこの地区の子供達にとっては庭のようなものだったが、芙美子は今、普段は踏み込まないような深いところまで歩いてきていた。陽光が高い木々に遮られ、昼なのに少しばかり暗く感じる。足元も普段遊んでいるあたりより少し不安定で、傾斜もある。
短めの髪に半袖半ズボンの彼女は、額に汗を浮かべながら、叫ぶように声を上げる。
「――ねえ! どこまで行くの!」
普段はうるさいほどの蝉の声が、なぜかこの林ではまったく聞こえない。よく通る彼女の声は、木々の間を縫うように進んでいく背中に向けられている。
「亮介! ねえ!」
先を行く乾亮介は、木の幹に手をついてちらりと不機嫌そうな顔を芙美子に向けた。スポーツ刈りに半袖短パン、よく焼けた肌と相まって腕白な印象を与える少年だ。
「ついてくんじゃねーよ!」
「どこまで行くのよ!」
「うるせーついてくんな!」
その言葉を無視して、芙美子は亮介に追いつこうと再び歩き始めた。それを見た亮介は「ついてくんなブス!」と、彼が思いつく限り最高の罵倒の言葉を投げかけ、再び前を向いて歩き始めた。
傾斜に苦戦しながらも、芙美子は今しがた亮介が手をついていたのと同じ木のもとにやってきた。
「亮介ー!」
亮介の姿は、彼女の視界にはなかった。
「もう……置いてかないでよ! 夏祭りはー? 行くんじゃないのー!?」
あたりを見渡しても、ざわざわと木々が鳴るだけ。応える声はない。薄暗い林の中に一人残されたことに気がついた芙美子には、そのざわめきすら恐ろしく思えてくる。芙美子は小学校ではクラス委員長をしていて、亮介は彼女の幼なじみだった。イタズラばかりする亮介と優等生の芙美子はなにかと喧嘩をしたが、それでも一緒にいる時間が誰より長かった。毎日一緒に遊んだし、今日だって夏祭りに一緒にいくことになっていた。はやく亮介を見つけて、一緒に山を降りないと。夏祭りが始まる前に、お母さんに浴衣を着せてもらうんだから。恐怖を義務感で押さえつけ、芙美子はまた歩き出す。
亮介の名を呼びながら、林の中を歩いていく。時折ざわざわと鳴る木々の音と、芙美子自身の足音以外には、何も聞こえない。
もう亮介なんか放っておいて、帰ってしまおうか――そんなふうに考え始めた時。不意に芙美子は、背後に気配を感じた。
「亮介?」
振り返ると、そこには誰もいなかった。代わりに、一匹の獣がいた。
狐だ。
「きつね……?」
狐はじっと芙美子を見ていたが、やがてぱっと身を翻し、走り去っていく。
「あっ、待って」
思わず芙美子は、狐を追って駆け出した。これまで歩いてきたのとは逆の、斜面を降りる方向へ。
狐は、少し走っては立ち止まり、芙美子の顔をじっと見て、また走りだすのを繰り返した。まるで芙美子が追ってきているかを確かめるように。やがてその姿を芙美子が見失った時、彼女はこれまで見たこともない、小さな社の前に立っていた。
「なに、これ……」
この山の中腹には神社があって、そこの参道で毎年夏祭りが開かれているから、芙美子もその社殿は見たことがあった。大きくて立派、とは言わないが、目の前にある小さな社ほど寂れてはいない。
変わった形の狛犬が、彼女を見据えている。
ふと気になって振り返ると、視界の下の方に、参道の石段が見えた。夏祭りの準備が着々となされている様子に、芙美子は自分がここに来た目的と、それからもうそろそろ帰らないと母親に叱られる、ということに思い至った。
芙美子は慌てて踵を返すと、うろ覚えながらおおまかに自分が来た方向にあたりをつけ、駆け出した。駆けて、社が見えなくなったあたりで、盛大にすっ転んだ。
結局芙美子は夏祭りが始まるまでに家に帰ることはできなかったし、そもそも山を降りられないままだった。あたりが暗くなってますます怖くなって、その場を動けずにいた。ふもとでは子供が行方不明になったということで夏祭りどころではなく大騒ぎになっていたのだが、彼女がそんなことを知る由もなかった。
やがて探しに来た大人たちによって芙美子が発見された。彼女の母親は芙美子を叱りはしなかったが、一人で山の上の方まで行ってはダメよ、とだけ彼女に言った。彼女はただうんと頷いた。本当は一人ではなかったのだが、そんなことを言ったら亮介が大人たちから叱られるのが彼女にはわかっていたから。
※
それから5年。ある夏の日の夕方。
「ここ、お稲荷様だったんだ……狛犬じゃなくて、狐だ」
こまきつね? と首を傾げながら、芙美子は5年ぶりに境内に踏み込んだ。あの頃とは容姿もだいぶ変わっている。長い黒髪は背中へまっすぐ伸び、身に着けているのも指定のセーラー服だ。スカートの丈は膝よりも下。
5年前は狛犬――狛狐の手前で引き返したから、実際には5年越しで初めて境内に踏み入ったことになる。
この社は、山の中腹の、毎年夏祭りがある神社から、さらに奥へ山を分け入ったところにある。あの事件の後に知ったことだが、あの神社はもとはこの社を使っていたのだそうだ。どうして移動したのかはわからなかったし、そもそも下の神社がお稲荷様を祀っているのかどうか、芙美子はよく知らない。
知らないが、なんとなく、お願いごとをするならこの社かなという気がしたので、わざわざ神社の裏手に回って細く急な階段を上り、ここまでやってきたのだ。
崩れかけの社に近づいて、鈴も賽銭箱もないので、とりあえず手を合わせてお願いごとをする。手を合わせて目を閉じて――あの日のこと、そしてあの頃のことを思い出す。
――まだ毎日のように一緒に遊び、一緒に登下校をしていた頃のこと。いつ頃からかな、こんなふうに、遠ざけられているみたいになっちゃったのは。友達にからかわれて顔を真赤にした亮介が、不機嫌にまかせて山の普段入らない奥の方までずんずん入っていってしまったあの日。追いかけていくと、背後ではクラスメイトたちが笑っている声が聞こえた。芙美子は気にならなかったけど、亮介はきっととても嫌だったのだろう。
それから亮介を見失って、狐に導かれるようにしてこの社を見つけた、あの日。
――また、あの頃みたいに――
「珍しく人が来たと思ったらあの時のガキかー。どうしよっかなー、助けてやろうかと思ったのに勝手にどっか行っちまったからなあ、あの時」
「だ、誰!?」
目を閉じていた芙美子は、突然声をかけられて狼狽えた。お願いごとが口から出ていたかもしれない。こんな山奥に、自分以外に人がいるとは思っていなかった。恥ずかしさで真っ赤になりそうだ。
「だいたいお願いをしようってのに、お供えの一つもないんじゃねえ……」
声は社の中から聞こえてくるようだ。恐る恐る、もう一度尋ねる。
「誰……?」
「俺か?」
軽い調子で声が応じる。
「俺はあれだよ、神様だ」
「か、神様?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「そう。まあ今日のところは保留かなあ、でもなんかそれだけってのも……あそうだ、いいこと考えた」
事態についていけない芙美子をよそに、声は勝手に話を進めていく。だいたい神様だなんて、そんなのウソに決まっている。きっと社の中に誰か隠れているのだろう、と芙美子は結論づけ、社の中を覗き込むべく一歩を踏み出したその時。
ぼろぼろの木の扉がバタンと勢い良く開け放たれ、
「――ほらよ、今日はもう帰んな」
声とともに猛烈な風が吹き、芙美子は「きゃっ」と小さな声を上げた。
風が止むと、林はしんと静まり返った。もちろん、社の中も。開け放たれた扉の向こうには、誰もいない。
「誰か居るんじゃないの?」
声をかけても、応えるものはない。
結局芙美子はその後しばらく社の周りをうろついてみたが、人っ子一人どころか獣一匹見つけることはなく、日が暮れる前に山を降りた。
狐につままれたような心持ちで。