その6
「もうこんな時間か……」
昨夜の一件で宿題が出来なかったガウは、いつもより三十分早く起床して宿題をやり遂げた。朝から一仕事終えた爽快感にこのままもう一度ベッドに潜り込みたい衝動に駆られるも、何とか耐えて制服に着替えた。
朝食を摂りに食堂へと向かうとそこにはヤンとデレクの姿はなく、ガウがその事をキースに問いかけると視線を逸らされてしまう。
嫌な予感を抱きつつもちんたらしていては遅刻してしまうと、ガウは洗濯物を干しに外へと出た。
そしてそこで、有り得ないものを目にし、洗濯カゴを取り落とす羽目になってしまう。
それは明らかにその場に相応しくないにも程があり、寧ろ異常な光景に言葉をなくしてしまう程だった。
洗濯物を干す為の物干し竿は、ちょうど綺麗な花の咲き誇る花壇の横に備え付けられている。そんな花壇に咲き誇る美しい花々と並び、首から下が埋まった状態のヤンとデレクが、そこにいた。
取り敢えず二人を掘り起こし、もう何と言葉をかけていいか解らず、ガウは洗濯物を干さずに泣きながら部屋へと駆けていったのだった。
何度も謝罪の言葉を叫びながら……。
そんな慌ただしい朝を迎えたガウは、疲れ切った表情で学校へと到着した。
昨日のルードの話しですっかり『英雄』に仕立て上げられた現役軍人の先輩が、どこかへ雲隠れし行方不明だと騒いでいるのを聞きガウは思いっきり引いてしまう。
気の毒にと、まるで他人事のように呟いていつも通り教室へと足を向けた。
教室に辿り着く間とそして教室に着いた今でさえ、あちこちから第一部隊の高校生隊員の話しが聞こえてくる。昨日までの『非国民』いじめは一体どこに行ってしまったのかと云うほどに、学校中が浮き足立っていた。
「やれやれ、非国民の次は第一部隊の高校生隊員か……」
ガウの前の席に座ったグレンが呆れたように言葉を零した。
「僕としては本当、助かったけどね」
ホッと胸を撫で下ろし、鞄から教科書を取り出したガウはいつもより明るい表情をグレンに見せた。
そんなガウの隣の席に今度はルナが腰かけた。
「おはよう、ガウ君!」
「おはよう、ルナ」
こんな弾むような挨拶を交わすのは本当に久しぶりだと、ガウは心からの笑顔をルナへと向けた。それを目の当たりにし、ガウに想いを寄せるルナは顔を赤らめるともじもじといつもの台詞を口にした。
「宿題、ちゃんとやってきた?」
「うん! 昨日は色々あって今朝早起きしてやったんだ」
自慢気に胸を張るガウに、唐突に言葉が投げ掛けられた。
「色々って、例えばどんな事だ?」
この声は……っとガウの笑顔がひくりと引き攣った。
声の主に顔を向けたくはなかったが問い掛けを無視する事も出来ず、ガウはそろりと目を向けた。そこには予想通り、ルードの姿があった。
「おはよう……」
今まで全くといっていいほど接点のなかったルードに、ガウは今日入学以来初めての朝の挨拶をした。だが、残念ながら相手からの挨拶は返っては来なかった。
「プライベートな事をずけずけと聞ける程、君はガウと仲が良いのかい?」
「本当! 昨日から何な訳?」
少々厳しい表情でグレンとルナが間に入ると、ルードはふんっと鼻を鳴らした。
「なるほど。ではお前達はどうなんだ? こいつとはそんなに仲が良いのか? 何でも話し合える程に」
最後の言葉にガウがドキリとしたのを、ルードもグレンも見逃さなかった。
グレンは元々人の感情や仕草には聡い所がある。ここ数日のルードのガウに対する態度は明らかにおかしな点があり過ぎた。
恐らくあの一件が原因なのどろうとグレンは推測する。あの時、ガウがルードの父親が第二部隊の小隊長だと叫ばなければ事態はもっと悪化していただろう。
それはいいとして、何故ガウがそれを知っていたのかという所に疑問を持つ。そして昨日、ルードが言っていた事を思い出す。『父親が第一部隊の隊員に写真を見せた』と。
その写真を見せた隊員を、ガウだと疑っているということなのだろうか? だとすれば、ガウとルードの間でそういった会話がなされていたのかもしれない。実際、今現在もルードのガウを見る目は何かを探るような疑念に満ちている。それはまるでガウこそがルードの父親を助けた第一部隊の隊員だと言っているようにみえて、グレンは困惑してしまっていた。
それでも、グレンにとってガウはガウでしかない。もしガウが本当に第一部隊の隊員だったとしても、それを話さないのはそれなりに訳があっての事だろう。
実際、グレンの父親は元師という立場で表向きにはガウよりも高い地位にある。それも影響しているとすれば頷ける。
そして何より、ガウは間違いなくグレンの中では『友人』なのだ。その中で沢山の話しをし、解り合ってきた事実は変わらない。ガウの意見と自分の意見は完全とはいかないまでもある程度一致しているし、理解も出来る。その辺の何も知らない、知っていても疑問すら浮かべない馬鹿な連中よりも遥かに自分の考えを持っている。
だがそれが、第一部隊の隊員から見た見解だとすれば当然だと言えると、グレンはつい勘ぐってしまう。
しかし、グレンは『友人』としての発言を心掛けた。
「それなりに、仲は良いつもりだし、少なくとも君よりはずっと親しいけどね」
「そうよ! あんたはガウ君に助けられたんだから、もっと下手に出なさいよね!」
少々論点のズレているルナに、グレンが小さく溜め息を零した。
そしてこの言い合いの本質を忘れてしまっているガウは、『親しい』とグレンに言われ一人舞い上がってしまう。それを悟られまいと一生懸命に紡いだ言葉は、やはり、裏返ってしまっていた。
「ぼ、僕は、グレンにはいつも色々聞いてもらってるよ!」
勢い込んで口を開いたガウは、思わずその場で立ち上がってしまう。
「ちゃんと自分の気持ちも話してるし、グレンの意見も聞いてるつもりだし! まあ、半分くらいしか理解出来てないけど……」
最後の方は尻つぼみだったが、しっかりと言い切ったガウは今度は恥ずかしさが勝り俯いた。
そんなガウを擁護するようにルナも賛同する。
「私も殆ど理解出来ないけど、二人の話しを聞く限り、軍にお金をかけ過ぎってのは、よお~く理解出来たわ!」
普段から二人の会話を耳にし云わば洗脳に近い形になりつつあったルナが、ガウに想いを寄せる切欠になったのはこうしたしっかりとした意見を持って、ミーハーに軍を持ち上げないという所だった。
だが世間はそういった考えを持つ者をいつしか非国民と言うようになり、声を大にしないながらもガウに賛同している時点でルナもその仲間入りを果たした結果になってしまっている。
それでもガウと違っていじめに合わないのはやはりグレンのせいなのだろう。ルナの知らない所でグレンとの恋仲が一部で噂されている為、権力の象徴であるグレンの恋人には流石に何も出来ないと被害に遭うまでには至らない。その一方で、ルナがガウに想いを寄せているのも窺い知れて三角関係なのではないかとそんな噂までもが流れていた。
結局の所、クラスメート達はいじめやすいガウのみを『非国民』としての対象にしていた。
それが大きな間違いだとは気付きもせずに。
「助けたと言えば、一応俺もそいつを助けたつもりだが?」
「あ、うん。そうだね。ありがとう。昨日も今日も何か凄く平和で、助かってるよ」
へにゃりと笑顔を浮かべるも、これが一時的なものだろうとも理解している為少しばかり複雑な心境だった。
「確かにそうとも言える。だが、君の場合、下心が丸出しだ」
そのグレンの発言にルードが目を瞠った。ガウが第一部隊の隊員だと疑っていたルードには、それはまるでその事を肯定しているかのように聞こえたからだ。
真相を確かめる為に口を開きかけたルードをよそに、朝の予鈴が鳴り響いた。
「あ、予鈴だ! 宿題の答え合わせまだしてないのに!」
今日の朝、慌ててやった宿題に自信のなかったガウは答え合わせをルナに頼もうと思っていたのだが、すっかりその時間をルードに奪われてしまった。
項垂れるガウに「大丈夫よ」と声を掛けたルナだったが、プリントの全問の答えが間違っているのを見て、いつも通りの通常運転に何故かホッとしてしまっていた。
朝のホームルームの時間になり、担任の教師が教室へと入って来たのだが、既に屍になりかけている事にクラス中が首を傾げていた。
昨日から第一部隊の高校生隊員の話題で盛り上がる生徒達とは裏腹に、教師達は数日後に開かれる『保護者説明会』に全神経を費やしていた。そんな裏事情を知っているガウは、居たたまれい想いでいっぱいで、ひたすら一生懸命に心の中で謝罪していた。
午前の授業は元気のない教師達以外特に何も変化はなく、いつものように淡々と過ぎて行った。
「はあ~、漸くお昼だあ~」
「ガウ君は今日もお弁当?」
「ううん。今日の朝は宿題をやってたから作れなかったんだ。だからちょっと購買に行ってくるよ。先に食べてて」
普段ガウは自分でお弁当を作って持って来ていた。流石に兵宿舎の食堂のおばちゃん連中にお弁当までは頼めないと、部屋に備え付けてあるちょっとしたキッチンでお弁当を作っていた。
だが今朝は宿題に追われ、そしてヤンとデレクの救出で作る暇がなかったのだ。
仕方なく一階にある購買へと足を向けたのだが、日頃購買に出向く事のないガウはここで、目を丸くする。
壮絶なバトルを目の当たりにして。
「それは俺のだ!」
「最後の一個、もらったあ!」
「おばちゃん、これ! これは私のだから!」
「横取りすんなー!」
余りの凄まじさに割って入る事が出来ないガウは、どうしたものかと一人途方に暮れてしまう。それでも食いっぱぐれるのはごめんだと、最終手段に打って出た。
ワゴンの端の方に残っているサンドイッチに狙いを定め、小さく呪文を唱える。
シュッとその場から消えたサンドイッチはガウの右手に収まった。
移動魔法である。
勿論お金も移動魔法で開きっぱなしのレジへと入れると、ホクホクとサンドイッチを手に今度は自販機へと目を向けた。こちらも相変わらずの大盛況で、とても買えそうにないとガウは項垂れる。
仕方がないと、一番空いているであろう三階の外れにある自販機へと足を向けた。
三階へ着くと、すぐさま奥の廊下へと踏み出した。真っ直ぐに進んでいたのだが、その途中、聞き覚えのある声が聞こえ思わず足を止めてしまう。
「それで、君はガウが第一部隊の隊員だと疑っている訳か」
ドキリとガウの鼓動が大きく跳ね上がる。
グレンのくぐもった声が聞こえ、大いに焦ったガウはうろたえた。聞くつもりはなかったが、耳に入って来てしまったものはしょうがないと、自分を正当化しつつその場から立ち去る事はしなかった。
「ああ、親父が俺の写真を見せたのは、後にも先にもあいつ一人だけだからな」
次いで聞こえて来た声は間違いなくルードの声で、ガウは益々そこから動けなくなってしまう。
「お前は知っているんだろう? あいつ本人から聞いたか、もしくは、お前の父親から聞いてるんじゃないのか?」
「残念ながら、知らないよ。それにもし知っていたとしても、君に話すような事はしない」
「そうか……知らないのか」
どこかホッとした様子のあるルードに、グレンは首を傾げた。知りたいのではないのかと。
「何だ、知りたい訳ではないのかい? それとも、ガウが第一部隊の隊員だと、認めるのが嫌なのかい?」
的を射た質問に、ルードがぐっと言葉に詰まった。図星か……と呆れた表情を見せたグレンに、慌ててルードが弁解する。
「もし、本当にあいつが第一部隊の隊員だったとして、お前は納得出来るのか? 第一部隊だぞ! あの第一部隊だ!」
少し興奮気味に言葉を吐き出すと、次から次へと止めどなくそれは続いた。
「あんな頭の悪いあいつが、あの第一部隊の隊員だって言われても、正直信じられないし、信じたくもない。いじめられてもヘラヘラして、クラスの連中や教師達に馬鹿だと罵られても何も言い返せないような奴がだ! そんなのが……信じたくないだろう、普通」
「君は随分と夢見がちだね。それともそれほどまでに憧れてるということかな? 少し前まで君が非国民だと呼ばれていたのが嘘のようだよ」
「俺はあいつらみたいなミーハーとは違うんでね。一緒にされたくなかったんだ」
「何も変わらないと思うけど? 今の話しを聞く限りは」
「そんなことはどうでも良い。それより、お前はどうなんだ? あんな奴が第一部隊の隊員だったりしたら、やっぱり幻滅するだろう?」
「まさか。驚きはするだろうけど、幻滅はしないさ。ガウはガウだ。他の連中は非国民だと騒ぎ立てるが、軍に対し、彼の言っている事は正しいし、真面目で一生懸命な所は好感が持てる。まあ、軍事費の事を指摘する辺り、それなりに軍の関係者ではないかと踏んでいたけど、ガウが第一部隊の隊員だというなら逆に納得出来る。俺が軍の総元締の息子と知っていてあんな会話をするっていうのは正直どうかと思っていたからね。ただ単に俺の性格を知ってくれて話していたのか、元々お馬鹿ちんなガウだから、そこまで気が回らないのかと思ってたけど。まあ、第一部隊の隊員だというのなら何もおかしくはないし、寧ろしっくりくる」
結論付けて、グレンが一人納得するとルードが顔を顰める。それを確認したグレンは、大きな溜息をついた。
「認めたくないのなら、今後一切、ガウにはちょっかいを掛けないでくれよ。その方が君にとっても都合が良いだろう?」
「お前は、聞かないのか?」
「聞く? って、ガウに君は第一部隊の隊員なのかいって? 君は本当に小さい人間だな。ガウが話さないというのなら、それは知られたくないと思っているからだろう。それをわざわざ聞いてどうする? 僕はそんな事で彼との友情を壊す気などさらさらないよ。まあ、尤も、本当にそうだと決まった訳ではないしね」
馬鹿馬鹿しいと言うように肩を竦めると、グレンはその場を後にしようとした。
それを止めるようにルードが声を荒げる。
「知りたくないのか!」
「生憎僕は、そんな事に興味はないんでね」
振り返りもせずにひらひらと手を振り去って行ったグレンに、ルードはぎりりと奥歯を噛み締めた。認めたくない気持ちが邪魔をして、自分からガウに切り出す勇気が出て来ない。
遣る瀬無い思いをそのままに、がんっと壁を蹴り飛ばしたルードは不機嫌にその場を後にした。
二人の会話を盗み聴きしてしまったガウはといえば、少々複雑な心境だった。グレンの友情に心を浮き立たせ、その反面、ルードの心無い発言に胸が締め付けられる思いでいた。
「やっぱり、幻滅するのか……」
一人呟いた言葉に、自分で傷つきながら、ガウは当初の目的の自販機へと足を向けた。
その足取りは、果てしなく重かった。
「ガウ君! どこ行ってたのよ!」
お昼休みも終わり、午後の授業がもう直ぐ始まるという時刻、漸く探していた人物を見つけルナが声を掛けた。
「ああ、ごめん、ルナ」
「お昼は食べたの?」
いつも一緒に昼食を摂るのに今日は購買に行ったきり帰って来なかったガウを心配し、ルナの眉尻がうんと下がる。
「勿論、ちゃんと食べたよ!」
一人屋上で細々と昼食を摂り、ルードの言葉を思い出しては傷ついていたガウは、気を取り直し明るい表情をルナへと返した。
「午後の最初の授業は体育だよ。ほら、グランドに行かないと!」
「あ、そっか」
既に体操服に着替えているルナを見てガウは自分の腕時計を見た。
教室に残っているのは数人で、もう殆どがグランドに集合しているのだと認識したガウはルナと共に慌ててグランドへと駆け出した。
昇降口を飛び出すと、直ぐ目の前にあるグランドに目を遣る。既に列になって並んでいる中にルナも混ざり、ここで始業のチャイムが鳴った。
「間に合って良かった……」
そう言葉を零し、ガウはグランドの端の方へと歩き、芝生の敷かれたいつもの場所に腰を下ろす。
第一部隊の隊員であるガウは、身体能力が一般人よりも遥かに高い為、体育の授業はいつも見学している。だが至って健康そうに見えるガウが、何故見学をしているのかと疑問を抱く者も多くいた。
それでも『非国民』のレッテルが貼られてからは余り関心を持つ者もなく、ガウとしては面倒な良い訳をいちいちせずに済んで助かっていたりもする。
ガウの座った芝生の奥には、木々が何本か植えられていて、そのずっとずっと奥には『森』がある。『中』と『森』との境界は随分と離れた所にあるのだが、ガウは体育の授業の時には昼間であってもいつもそちらに意識を向けていた。
そんな時、ふと一人の男子生徒と目が合ってしまう。
ルードである。
『森』に意識を向けつつ先程のグレンとルードの会話をが頭から離れなかったガウは、つい目がそちらに行ってしまっていたのだ。だがまさかルードもガウの方を気にしていたなどとは思わず、ばっちりと目が合ってしまった。
「うわ~……」
ばっと視線を逸らしばつが悪そうに額に手をやると、出席を取り終わったのか、列から抜け出てルードがガウの方へと真っ直ぐに歩いて来た。
それを見ていたグレンは、怪訝な表情を浮かべ、ルードの後を追うように歩き出した。
「君、もうガウにちょっかいを出すなと、言った筈だが?」
ガウの所に辿り着く前に腕を掴まれ、グレンに強い口調で諭される。だがルードはその手を振り解き、ガウに視線を向けた。
「お前は、何故あいつが毎回体育を見学しているのか、知っているのか?」
「今までガウが体育を見学していた事なんか知りもしなかったお前に、答える必要はないだろう?」
痛い所を突かれ、ルードはくっと顔を歪めた。
実際、全くガウに興味のなかったルードは今日までガウが体育を見学していることを知らなかったのだ。
「じゃあ、本人に聞くまでだ」
再び歩き出し、ガウの下へと向かおうとするルードは鬼のような形相をしている。それに少なからず恐怖を覚えたガウは、一歩後ろに後ずさった。
「お前、どうして体育を見学している!」
ガウの近くまで来た所で、ルードが声を張り上げた。
予想以上に大きな声を出したルードに、何事かとクラスメート達が視線を向ける。
「やめろ!」
ルードの腕を再び掴み、止めに入ったグレンはガウに「答える必要はない」と続けた。
突然の事にざわざわとクラスメート達が騒ぎ出すと、流石に教師も止めに入る。
「何をやっている、お前達! 授業中だぞ!」
少し遠い位置から声を張り上げ止めに入った教師を振り返り、グレンが「ほら、いくぞ」とルードの腕を引いた。
そんな時だった。
二人のやり取りを呆然と見ていたガウが、突然何かを感じ取った。
目の前のルードとグレンから視線を逸らし、グランドの奥、『森』のある方角へと目を向ける。
どくりと心臓が嫌な音を立てた事に、ガウはぎゅっと拳を握った。
近づいて来る気配に、顔が青褪める。
それは気配が魔物のもので、魔物に恐怖したからではなく、今この場に、この学校目掛け、魔物が向かって来ているという事実にだ。
そしてもうひとつ、ガウにとって都合の悪い事がある。
それは、自分が第一部隊の隊員だとバレてしまうという事だ。ルードが発した『幻滅』という言葉が、ガウに大きく圧し掛かる。
それでも、自分の立場を弁え、行動しなくてはならないと覚悟を決めた。
もう、時間もないのだから。
「ごめん、ルード。君の夢を壊して。幻滅させて……本当にごめん……」
「何?」
腕を引かれ、列に戻ろうとするルードへとしっかりと顔を向け、ガウは辛そうに顔を歪めた。
そんなガウの謝罪の言葉の直ぐ後に、事が始まった。
ウーウーウーウー!!
けたたましく鳴り響くサイレンの音がこだまする。
『緊急事態発生!緊急事態発生!』
次いで聴こえて来たのは、魔物の襲来を告げる緊急放送だった。
『緊急事態発生!直ちに建物の中に避難して下さい!』
結界の強度が増し赤く光出した校舎に、呆気に取られていた教師とクラスメートたちに、ガウが大声で叫ぶ。
「全員退避! 校舎の中へ、早く!」
いきなりの大声にも関わらず、誰もその場を動こうとはしない。
何が起こっているのか理解出来ない様子で、ぽかんと大声を張り上げたガウに視線を向けている。
「魔物が森の境界の結界を突破した! 既に『中』に入って来ている! 早く校舎の中に避難するんだ!」
何を言っているのかと、ガウの言葉に首を傾げるクラスメートたちは、まだ事の重大さに気付いていない。それもその筈、昼間に魔物が出るなどあり得ない事だからだ。
それでも、聴こえてくる緊急事態を報せる放送は確かに本物だった。
「グレン、早く中へ! 魔物は真っ直ぐ『こっち』に向かって来ている」
なかなか動こうとしないクラスメートたちに焦ったガウは、グレンへと声を掛ける。だが、グレンもまた突然の事に動けないでいた。
「来た!」
そうこうしている内に『中』に入った魔物が、学校のグラウンドの直ぐ傍までやって来た。
目視で確認出来る魔物は、それはそれは巨大で、強烈な瘴気と邪気を辺りに撒き散らしていた。
「うわーーーーーー!」
「きゃーーーーーー!」
「何あれ!」
グランドに出ていたクラスメートたちから悲鳴が上がる。
校舎程ではないものの、学校の敷地内には結界が張られている為、容易には『中』には入れないがそれでも時間の問題だ。
もう既に、森の境界の結界を一つ破っているのだから。
「早く、中へ!」
ガウの声を聞き全員が校舎へと走る中、巨大な魔物が結界へと体当たりを始めた。
どおんっと大きな地鳴りと共に、赤い壁を作る結界が波を打つ。
何度も何度も。
「嘘だろ……このままじゃ、結界が破られるぞ……」
「何あの大きい魔物……」
「あんなのが『中』に入って来たら……私達、食べられちゃうよ……」
漸く校舎の中へと避難を終えたクラスメートたちが口々に不安を吐露する中、教師も必死に行動する。
「第一部隊の到着まではどれくらいかかる!」
電話越しで叫ぶように問い掛ける教師の姿に、生徒たちは逆に不安を煽られてしまう。泣き出す者も出て、既にパニック状態になりつつあった。
そんな中、ルナがガウの姿が見えない事に酷く慌てた。
「ガウ君! ねえ、ガウ君は?」
ルナの声が響き、パニック寸前の校舎の中は収拾がつかなくなってしまう。
「知るかよ、あんな非国民!」
「喰われちまえば良いんだ、あんな奴!」
「そうよ、あいつを差し出せば良いじゃない!」
「そうだ、あいつを餌にして外に追い払えばいいんじゃないか?」
言いたい放題の生徒達に、教師が制止するように声を上げた。
「馬鹿を言うな! 人一人喰った魔物は、より大きく強くなるんだぞ! そんな事をしてみろ、こっちまで喰われてしまう!」
髪を振り乱し、そんな事を言う教師にグレンは大きな溜息を零した。
所詮、一般人などこんなものかと改めて認識し、肩を落とした。
とここで、ルナがガウの姿を見つけ、青褪めた。
「ガウ君!」
ルナの視線の先は結界の外、魔物の直ぐ目の前だった。
「な、何やってんだあいつ!」
「やめろ! 俺達まで喰われちまう!」
「誰かあいつを止めろ! 止めてくれ!」
懇願するような言葉を放ち、無責任に誰かに縋る生徒たちは自分の事しか頭にない。
そんな呆れを通り越し、救う価値があるのかと本気で疑問に思ったグレンだったが、ガウの『正体』を今ここでしっかりと確信した。
そして、動揺しきりのクラスメートたちに、一つの真実を突きつける。
「誰が止められるって言うんだい? あそこは結界の外だよ。ましてやあの魔物の直ぐ目の前だ。俺達のような一般人じゃ、とてもじゃないがあの瘴気と邪気で即死だよ。まあ、第二部隊の軍人でも、同じだろうけどね」
不敵に笑い、グレンがそう口にすれば、辺りはしんと静まり返った。
「じゃあ、ガウ君は! ガウ君も死んじゃうの!」
ガウの事を心底心配するルナが叫ぶように言う。
「何だ、ルナ。聡明な君が、ここまで言って解らないのかい?」
「あいつが……ガウが第一部隊の隊員だってことだよ」
グレンの言葉を継いでそう言ったのはルードだった。
目の前で見せられては信じない訳にはいかないと、少々苦い表情をしながら。
「「「「「ええええええええーーーーーーーーーー!!!!!!」」」」」
クラスメート達の驚愕の声が校舎にこだました。