↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

冷酷王に嫁いだ人質妃ですが、溺愛の代わりに両国から暗殺者が来ます

作者: 桜野結
掲載日:2026/10/31

嫁いで3か月が経つころには、カミーユ・ド・モンテリエはガルデン王城でいちばん嫌われた女になっていた。


「このスープ、豚の餌かしら」


 晩餐の長卓に、銀の匙の落ちる音が響く。給仕の手が止まり、居並ぶ廷臣たちの顔から、一斉に表情が消えた。


「失礼。豚に悪いわね。豚はもう少しましなものを食べているわ」


「……妃殿下。それはガルデンの古い祝いの料理で、王家の婚礼のおりには必ず」


「まあ。では10年続いた戦というのも、これが原因でしたのね。こんなものを毎年食べさせられれば、誰だって剣を抜きたくなりますわ」


 誰も笑わない。


 長卓の上座で、夫であるエドリック王が、ナプキンを静かに置いた。


 ガルデンの冷酷王。10年の戦で一度も退かず、捕虜の首を城門に並べたと噂される男。黒髪に灰色の目をした、たいそう見栄えのする男だ。嫁いでくる前、リュネールの令嬢たちは扇の陰で囁き合ったものだった。ああいう男ほど、いざ妻を迎えると溺れるように愛するものよ、と。


 溺れるような愛とやらは、3か月経っても、いっこうに届かない。


「妃」


「なんですの、陛下」


「国へ帰れ」


 広間が、凍りついた。


 カミーユは、ゆっくりと葡萄酒の杯を持ち上げた。


「よろしいの? わたくしを帰したら、戦ですわよ」


「分かっている」


「分かっていらして、仰るの」


「分かっていて、言いたくなるのだ」


 エドリックは立ち上がり、それきり振り返らずに広間を出ていった。


 カミーユは杯を傾けた。葡萄酒は、ガルデンの酒にしてはまあまあ飲める。そのことは、誰にも言ってやるつもりはない。


   ◇


 誓いの文句は、子どもでも諳んじられるほど短い。


 ――花嫁がガルデンの王城にある限り、両国は剣を抜かず。


 ――花嫁を戻せば、戻した側が誓いを破ったものとみなす。


 ――花嫁を害せば、害した側が誓いを破ったものとみなす。


 ――花嫁が天に召されしときは、両国は喪に服し、改めて花嫁を立てる。


 ヴェール川に架かる石橋の真ん中で、両国の王がこれを唱え、両岸に並んだ兵が聞いた。春の盛りのことで、カミーユは白い花嫁衣装のまま、橋の東へ渡った。


 ガルデンの城は、その橋から馬で半刻もかからない丘の上にある。戦のあいだは国境の砦だったものを、和平の監視のために王がそのまま居城にしているのだ。


 つまり、カミーユは、毎朝窓から故郷を眺めて暮らしている。


 見えるのは対岸の森ばかりで、懐かしいとは少しも思わなかった。


   ◇


「お嬢様。リュネールから、お使者が」


 侍女のマルトが告げたのは、晩餐の騒ぎから7日後のことだった。


 マルトは、カミーユが本国から連れてきたただ一人の侍女だ。乳母の娘で、物心ついたころからそばにいる。ガルデンの侍女たちはカミーユの部屋に近寄りたがらないので、身の回りのことは、ほとんどこの娘ひとりでこなしていた。


 使者は、伯父であるフィリップ王の侍従だった。応接の間で、彼は気の毒そうな顔をこしらえている。


「ガルデン王より、陛下のもとへ内々のお申し入れがございました。妃殿下を、お引き取り願えないかと」


「あら。陛下は、なんとお答えに?」


「お断りになりました」


「でしょうね」


「妃殿下を戻されれば、それは誓いを破ったのがガルデンの側ということになります。リュネールとしては戦の大義が立つ。ですが、陛下は戦を望んでおられません。ですから、どうか」


 侍従は、そこで少し言い淀んだ。


「どうか、ガルデンの方々と、仲良くなさいますように」


「無理ね」


 カミーユは即答した。


「あの国の人たちは、スープの味も分からないもの」


 侍従は、救いを求めるようにマルトを見た。マルトは、黙って目を伏せていた。


   ◇


 その晩、カミーユの部屋の扉の前で、台所の下働きの娘が死んだ。


 ミナという、14になるかならないかの娘だった。カミーユの夜食の盆を運ぶ途中で、盆の上の焼き菓子を、ひとつだけ口に入れたらしい。


 見つけたのは、マルトだった。


 悲鳴を聞いて扉を開けると、廊下の敷物の上に、娘が丸くなっていた。喉を掻きむしった跡が赤く残り、唇の端に、泡が乾いてこびりついている。散らばった焼き菓子のひとつに、小さな歯形がついていた。


 カミーユは、しばらく戸口に立ったまま、それを見下ろす。


 昼間、厨房の前を通りかかると、この娘が菓子を盗み食いして料理長に叱られているところだった。カミーユは「卑しい」とだけ言って、足も止めずに通り過ぎている。


 卑しくなければ、死なずに済んだ。


 卑しかったから、わたくしの代わりに死んだ。


「……お嬢様、お下がりください。見てはいけません」


 マルトが、震える声で言った。


「見るわ」


 カミーユは膝を折り、娘の見開いたままの目を、指で閉じてやった。


「わたくしが食べるはずだったものよ。見ないで済ませるわけにはいかないでしょう」


 城の医師が来て、首を横に振った。廷臣たちが来て、遠巻きに囁き合った。最後にエドリックが来て、長いこと娘の亡骸を見下ろす。


「妃。心当たりは」


「ありすぎて困りますわ」


「……だろうな」


 王は衛兵に命じて亡骸を運ばせ、それから、低い声で言った。


「これからは、口に入れるものに気をつけろ」


「陛下のお城の台所で出たものですわよ」


 エドリックは、答えなかった。


   ◇


 その夜から、カミーユは考え始めた。


 誰が、わたくしを殺したがっているのか。


 答えは、拍子抜けするほど簡単だった。


 誓いの文句を、もう一度なぞればいい。


 戻せば、戻した側が破ったことになる。害せば、害した側が破ったことになる。けれど、花嫁が天に召されたときだけは、誰も誓いを破らない。両国は喪に服し、改めて花嫁を立てる。


 つまり、わたくしが病で死ねば、誰も悪くならないのだ。


 ガルデンは、この厄介な女を追い払える。代わりに、もう少しおとなしい花嫁を迎えられる。


 リュネールは、いつ送り返されるか分からない爆薬を始末できる。代わりに、もう少し言うことを聞く娘を送り込める。


 毒入りの焼き菓子は、たぶん、病に見せかけるには少し荒っぽすぎた。だから一度でしくじった。次は、もっと上手にやってくるだろう。


 問題は、それがどちらの国から来るのか、だった。


 カミーユは、窓の外の暗い川を見下ろした。


 ――どちらから、ではないのかもしれない。


   ◇


 それからの半月、カミーユはひどく用心深く暮らした。


 食事は、廷臣たちと同じ大皿から、誰かが取り分けたあとの残りだけを口にした。焼き菓子には、二度と手をつけない。眠る部屋は毎晩変え、どの部屋で眠るかはマルトにしか告げない。


 ガルデンの廷臣たちは、それを見て陰口を叩いた。妃殿下は、ついに気が触れたらしい、と。


 構わなかった。気の触れた女を演じるのは、そう難しいことではない。もともと、まともだと思われたこともないのだから。


 半月目の夜、カミーユは東の塔の小部屋で眠っていた。


 目を覚ましたのは、物音のせいではない。


 部屋の空気が、変わったのだ。


 寝台の帳の向こうに、人の気配がある。息を殺しているつもりなのだろうが、衣擦れの音までは殺しきれていない。


 ひとつ。


 いや――ふたつ。


 カミーユは、目を閉じたまま、寝息の調子を崩さないように努めた。


 ひとつめの気配は、寝台の足もとのほうにいた。じっと動かない。ふたつめの気配は、窓のほうから、少しずつ枕もとへ近づいてくる。


 近づいてくるほうの手に、何か柔らかいものが握られている。羽毛の匂いがした。


 枕だ。


 顔に押し当てて、息を止める。朝になれば、妃殿下は眠ったまま心の臓が止まったことになる。病死だ。誰も誓いを破らない。


 ――上手になったわね。


 カミーユは、心のどこかで、ひどく冷静にそう思った。


 枕を持った気配が、寝台の脇で止まる。


 そのとき、足もとのほうの気配が、動いた。


 息を呑む音。


 枕を持った気配が、弾かれたように振り返る。


 闇の中で、ふたつの気配が、互いに凍りついているのが分かった。


 カミーユは、ゆっくりと目を開けた。


「あら」


 月明かりが、窓の隙間から細く差し込んでいる。


 窓際に、黒い外套の男が立っていた。手に、羽毛の枕を握ったまま。


 寝台の足もとには、マルトが立っていた。手に、小さなガラスの瓶を握ったまま。


「ずいぶん、賑やかな夜ですこと」


 誰も、動かなかった。


 男の顔には見覚えがあった。侍従長ベルトランの下で、王の身辺を警護している衛士のひとりだ。


 マルトの手の瓶にも、見覚えがあった。リュネールの森でしか採れない、鈴蘭の根を煎じた薬。心の臓を、静かに、ゆっくりと止める薬だ。飲ませれば、眠ったまま死んだように見える。


 つまり、ふたりとも、同じことを考えていた。


 病死だ。


 それにしても、今夜この部屋で眠ることは、マルトにしか告げていない。衛士は、マルトの後をつけてきたのだろう。両国の刺客が、互いに相手の道案内をしていたわけだ。


「わ、わたくしは」


 マルトが、かすれた声で言った。


「わたくしは、この男がお嬢様を害そうとしているのに気づいて、それで」


「その瓶を持って?」


 マルトの唇が、震えた。


「わ、私は、この女が妃殿下に何かを飲ませようとしているのを見て」


 衛士が言った。


「その枕を持って?」


 カミーユが訊き返すと、衛士の顔が、月明かりの中で白くなる。


 カミーユは、寝台の上で身を起こした。夜着の襟を整え、乱れた髪を後ろへ払う。


 心の臓が、早鐘のように打っている。それを顔に出さないのは、生まれてこのかた、いちばん得意なことだった。


「マルト」


「……はい」


「伯父様に頼まれたの?」


 マルトは答えなかった。答えないことが、答えだった。


「いつから?」


「……お嫁ぎになる前から。もし、もしもガルデンでお嬢様が厄介なことになったら、そのときは、と」


 カミーユは、長いこと乳母の娘の顔を見ていた。


 物心ついたときから、そばにいた娘だ。髪を結い、服を着せ、熱を出せば夜通し額を冷やしてくれた。


 その手が、いま、鈴蘭の瓶を握っている。


「そう」


 それだけ言って、カミーユは衛士のほうを向いた。


「あなたは、ベルトランの手の者ね。陛下もご存じなの?」


「……私は、何も」


「知らないのね。それとも、知らないことにしてあるのかしら」


 衛士は、黙った。


「焼き菓子も、あなたたち?」


 衛士の肩が、びくりと跳ねる。


「……あれは、私ではありません。台所の者が、侍従長の言いつけで」


「そう。荒っぽいやり方だと思ったわ。それで、今夜は枕にしたのね」


 衛士は、もう何も言わない。


 カミーユは、寝台から降りた。素足に、石の床が冷たい。


「ふたりとも、殺さないでおいてあげるわ」


 衛士とマルトが、同時に顔を上げた。


「その代わり、明日の朝まで、互いに見張りなさい。片方が逃げたら、残ったほうを、わたくしは逃げたほうの国の人間だと言うわ。そうしたら、どちらの国にも帰れなくなるわよ」


 それから、カミーユは扉を開けて、廊下に向かって声を張り上げた。


「衛兵! 妃が呼んでいるわ! 縄を2本、持っていらっしゃい!」


   ◇


 翌朝は、月に一度の誓いの日だった。


 ヴェール川の両岸に兵が並び、橋の真ん中で、両国の使者が誓いの文句を唱え直す。戦が終わってからずっと続いている習わしで、今月はちょうど、両国の王がそろって立ち会う番に当たっていた。


 カミーユは、夜明け前に支度をした。


 マルトがいないので、髪は自分で結う。ひどい出来だったが、どうでもいい。花嫁衣装の次にいちばん白いドレスを選び、その上に、ガルデンの紋章入りの外套を羽織る。


「妃殿下、どちらへ」


 廊下で、侍従長ベルトランが待ち構えていた。昨夜の騒ぎを、もう聞いているのだろう。顔色が、ひどく悪い。


「誓いの日ですもの。花嫁が立ち会わなくて、どうしますの」


「妃殿下が橋へお出ましになるのは、習わしにございません」


「習わしにないことをするのが、わたくしの習わしよ」


 カミーユは、縄で手を縛られたふたりを、衛兵に引かせて歩き出した。


 ベルトランの顔から、最後の血の気が引いていった。


   ◇


 川面に、朝の霧が薄く漂っていた。


 東の岸にガルデンの兵が、西の岸にリュネールの兵が、それぞれ槍を立てて並んでいる。数は、たぶん1,000ずつはいるだろう。橋のたもとには両国の旗が翻り、その下に、それぞれの王が立っていた。


 東に、エドリック。


 西に、伯父のフィリップ。


 カミーユは、東のたもとからまっすぐ橋に足をかけた。


「妃! 何をしている!」


 エドリックの声が飛んだ。


 カミーユは、振り返らなかった。


 石畳を、一歩ずつ踏んでいく。両岸の兵がざわめき、そのざわめきが、霧の中で波のように揺れた。


 橋の真ん中には、両国の境を示す白い石が埋め込まれている。誓いの日に、両国の使者が向かい合って立つ場所だ。


 カミーユは、その白い石の上で、足を止めた。


 西を向けば、故郷の森。東を向けば、嫁ぎ先の城。


 どちらにも、一歩も踏み出さない。


「ごきげんよう、伯父様。ごきげんよう、陛下」


 声は、思ったよりよく通った。霧が、音を運んでくれるのかもしれない。


「わたくしを返したい方と、受け取りたくない方がいらっしゃるようですので。ちょうど真ん中に、立ってみましたの」


 両岸が、しんと静まり返った。


「よくお聞きになって。わたくしがここから一歩でも西へ出れば、ガルデンがわたくしを戻したことになりますわ。誓いは破れて、戦になります」


 カミーユは、東を見た。


「わたくしをここから力ずくで引き戻そうとなされば、両岸の兵の前で、花嫁を害したことになりますわね。それも、戦」


 それから、両岸を見渡した。


「そして、もしわたくしがこの橋の上で死ねば。……さあ、どちらの国の矢だったのか、誰にも分かりませんわね。きっと、どちらの国も、相手のせいだと仰るわ。それも、戦」


 西の岸で、弓兵のひとりが、震える手で弓を引きかけた。


 隣の兵が、慌ててその腕を押さえる。だが、間に合わなかった。弦の鳴る音がして、矢が1本、霧を裂いた。


 矢はカミーユの左の欄干に当たり、乾いた音を立てて跳ね返る。


 石の欠片が、頬をかすめる。


 両岸から、悲鳴が上がった。


 カミーユは、動かなかった。


 頬に手をやると、指先に、うっすらと血がついている。膝が、笑い出しそうになっていた。それを、ドレスの下で誰にも見せずに堪える。


「……ほらね」


 声が震えなかったのは、たぶん、奇跡だった。


「こんなふうに、簡単に戦は始まりますのよ」


 西の岸で、フィリップ王が叫んだ。


「射た者を捕らえよ! 誰も弓を引くな!」


 東の岸で、エドリックが叫んだ。


「誰も橋に近づくな! 一歩もだ!」


 両国の王が、生まれて初めて、まったく同じことを命じていた。


   ◇


「さて」


 カミーユは、頬の血を指で拭った。


「わたくしをここまで追い詰めた方々を、ご紹介いたしますわ」


 東のたもとから、衛兵がふたりを橋の上へ引き出した。縄で縛られたマルトと、ベルトラン配下の衛士。


「こちら、リュネールから参りましたわたくしの侍女、マルト。鈴蘭の根の煎じ薬をお持ちでした。眠ったまま心の臓が止まる、たいへん上品なお薬ですわ。伯父様、お心当たりは?」


 西の岸で、フィリップ王の顔が、みるみる赤黒く染まっていった。


「それから、こちら。ガルデンの侍従長ベルトランの衛士ですわ。羽毛の枕をお持ちでした。眠ったまま息が止まる、これまた上品なやり方ですわね。陛下、お心当たりは?」


 エドリックは、答えなかった。


 ただ、東のたもとで、侍従長ベルトランが膝から崩れ落ちるのが見えた。


 両岸の兵たちが、ざわめく。ざわめきは、すぐに怒号に変わる。


 ――病死に見せかけるだと?


 ――花嫁を、闇討ちで?


 ――それが王家のやることか。


 10年も戦ってきた兵たちだ。人を殺すことは、知っている。けれど、それを昼の光の下で、名乗りを上げて、刃を交えてやってきた。眠っている女の顔に枕を押しつけるのは、彼らの知っている戦ではない。


「ご安心なさって」


 カミーユは、両岸の怒号の上に声を重ねた。


「わたくし、両国のどちらも責めるつもりはございませんの。だって、どちらもやったのですもの。どちらか一方だけ責めたら、不公平でしょう?」


 怒号が、ふっと途切れた。


 代わりに、どこからか、こらえきれない笑い声が漏れた。東の岸からだったのか、西の岸からだったのか、カミーユには分からない。


「ただし」


 カミーユは、笑い声が引くのを待った。


「わたくしを狙った分は、責めませんわ。でも、台所の娘の分は別です。ミナという14の娘が、わたくしの焼き菓子を盗み食いして、死にました。毒を入れた者だけは、陛下、差し出していただきます」


 エドリックは、今度はすぐに答えた。


「……約束しよう」


「それから、もうひとつ、お願いがございますの」


 カミーユは、両国の王を交互に見た。


「誓いの文句に、ひと言だけ足していただきたいの」


 フィリップ王が、喉の奥で唸った。


「……なんだ」


「花嫁が天に召されしときは、の、あとですわ。改めて花嫁を立てる、ではなく」


 カミーユは、ゆっくりと言った。


「――花嫁がいかなる理由で死すとも、誓いは破れたものとみなす。病であれ、事故であれ、老いであれ」


 両岸が、静まり返った。


 最初に意味に気づいたのは、エドリックだった。灰色の目が、わずかに見開かれる。


「……つまり、妃が死んだ時点で、どのような死に方であれ、戦になると」


「ええ」


「それでは、両国とも、妃を死なせるわけにはいかなくなる」


「ええ。風邪ひとつ、ひかせられませんわね」


「戦を望む者がいれば、お前はいちばんの的になるぞ」


「ですから、両国で全力でお守りくださいな。これからわたくしを殺したい方は、両国の兵を残らず敵に回すことになりますのよ」


 西の岸で、フィリップ王が叫んだ。


「老いであれ、だと! それでは、お前が寿命で死んだら、そのときに戦が始まるではないか!」


「そうですわね」


 カミーユは、にっこりと微笑んだ。


「ですから、わたくしが死ぬまでに、戦をしなくても済む仕組みを、両国でよくお考えなさいな。花嫁ひとりの命に和平を背負わせるような、くだらない誓いではなく」


 白い石の上で、彼女は外套の裾を払った。


「わたくし、たぶん長生きいたしますわ。性格の悪い女は、長生きと相場が決まっておりますもの。時間は、たっぷりございますのよ」


 霧が、少しずつ晴れてきた。


 両岸に並んだ兵たちの顔が、はっきりと見えるようになる。誰もが、橋の真ん中の小柄な女を見ていた。


 長い沈黙のあと、エドリックが、橋のたもとから一歩、前へ出た。


「……誓おう」


 西の岸で、フィリップ王が、苦い薬を飲み下したような顔で頷いた。


「……誓う」


 両国の王が、橋の両端から、新しい誓いの文句を唱えた。両岸の兵が、それを聞いた。


 カミーユは、白い石の上でそれを最後まで聞き届ける。


 それから、くるりと東を向く。


「では陛下。わたくし、帰りますわね。ガルデンへ」


   ◇


 城に戻ると、カミーユの部屋の前に、医師が3人待っていた。


 ひとりはガルデンの宮廷医師で、ひとりはリュネールから早馬で駆けつけた侍医だった。最後のひとりは、そのどちらも信用できないとエドリックが言い出して、町から呼び寄せた薬師だ。


「妃殿下、お頬のお傷を」


「妃殿下、まずはお脈を」


「妃殿下、こちらの薬湯を」


「うるさいわね」


 カミーユは3人を押しのけて、長椅子に腰を下ろした。ようやく、膝の震えを隠さなくてもよくなった。


 扉が叩かれ、エドリックが入ってくる。


 王は、しばらく戸口に立ったまま、妻の顔を見ていた。頬の傷に、目が留まる。


「……妃」


「なんですの、陛下」


「侍従長は、職を解いた。あれは、私の知らぬところで動いた」


「知らないことに、していらしたのでしょう?」


 エドリックは、否定しなかった。


「それについては、詫びる」


「詫びなど要りませんわ。陛下がわたくしを嫌っていらっしゃるのは、存じておりますもの」


「ああ。嫌いだ」


 王は、あっさりと言った。


「スープを豚の餌と言われた恨みは、生涯忘れん」


「まあ」


「だが」


 エドリックは、深く息を吐いた。それから、ガルデンの冷酷王は、生まれて初めてのことをした。


 妻の前で、頭を下げたのだ。


「頼むから、大人しくしていてくれ。これから先、お前が風邪をひくたびに、私は両国の戦を心配せねばならん」


 カミーユは、夫の黒い頭頂を、しばらく眺めていた。


 溺れるような愛は、どうやら一生届かないらしい。


 代わりに届いたのは、国ひとつぶんの心配だった。


「考えておきますわ」


 彼女は、薬師の差し出した薬湯の椀を受け取った。


「それと陛下。今夜の晩餐、あのスープはお出しにならないでくださいましね。わたくし、あれを飲んだら病で死んでしまいそうですもの」


 エドリックは顔を上げ、何か言い返そうとして、結局、何も言わずに出ていった。


 扉が閉まる。


 長椅子の脇の卓に、封書がひとつ置かれていた。リュネールの侍医が、伯父から預かってきたものらしい。


 開くと、伯父の几帳面な字で、一行だけ書いてある。


 ――頼むから、大人しくしていてくれ。


 カミーユは、こらえきれずに吹き出した。両国の王に、一日で同じことを頼まれた花嫁は、たぶん世界でわたくしひとりだろう。


 入れ替わりに、衛兵がマルトを連れてきた。縄は、もう解かれている。リュネールへ送り返すか、ガルデンの牢に入れるか、妃殿下がお決めになるように、と陛下が仰せだという。


 マルトは、床に額をつけたまま動かない。


「顔を上げなさい」


「……お嬢様」


「新しい誓いは聞いたでしょう。わたくしが死ねば、どう死んでも戦よ。伯父様だって、もうあなたにわたくしを殺せとは言えないわ」


 カミーユは、薬湯の椀をマルトの前に突き出した。


「だから、今日からあなたは、わたくしを死なせないための侍女。まずはこれを毒見なさい。それから、明日からは髪も結うこと。自分で結うと、ひどい出来なのよ」


 マルトは、震える手で椀を受け取る。ひと口すすって、顔をしかめた。


「……苦うございます」


「でしょうね」


 カミーユは椀を取り返し、薬湯をひと口すすった。


 ひどく苦い。


 窓の外では、霧の晴れたヴェール川が、朝の光を映して流れている。対岸の森は、相変わらず少しも懐かしくなかった。


 ただ、ミナという娘のことだけは、覚えておこうと思う。


 卑しくて、わたくしの代わりに死んだ、14の娘。


 あの子の墓には、ガルデンの古い祝いのスープを供えてやろう。豚の餌でも、あの子なら、きっと喜んで食べる。


 カミーユは、苦い薬湯を最後まで飲み干した。


 長生きしなければならないのだ。両国のために、ではなく。


 あの冷酷王に、生涯わたくしの心配をさせ続けてやるために。



お読みいただき、ありがとうございました!

皆様にお願いです

ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に

応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
小娘一人に戦の理由を押し付けてそのくせ小娘ほどの覚悟もない王族達が無能すぎ。 精々死なせないように丁重に扱わせて胃に穴でも開けてやればいい。
とても楽しめる好ましい作品でした。 でも一応丸くは治まったようですが、ハッピーエンドと呼ぶにはあまりに苦くビターエンドと呼ぼうにも渋味が過ぎる。 味覚の『渋い』は英訳できなさそうなのだけれど、さてこ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。