冷酷王に嫁いだ人質妃ですが、溺愛の代わりに両国から暗殺者が来ます
嫁いで3か月が経つころには、カミーユ・ド・モンテリエはガルデン王城でいちばん嫌われた女になっていた。
「このスープ、豚の餌かしら」
晩餐の長卓に、銀の匙の落ちる音が響く。給仕の手が止まり、居並ぶ廷臣たちの顔から、一斉に表情が消えた。
「失礼。豚に悪いわね。豚はもう少しましなものを食べているわ」
「……妃殿下。それはガルデンの古い祝いの料理で、王家の婚礼のおりには必ず」
「まあ。では10年続いた戦というのも、これが原因でしたのね。こんなものを毎年食べさせられれば、誰だって剣を抜きたくなりますわ」
誰も笑わない。
長卓の上座で、夫であるエドリック王が、ナプキンを静かに置いた。
ガルデンの冷酷王。10年の戦で一度も退かず、捕虜の首を城門に並べたと噂される男。黒髪に灰色の目をした、たいそう見栄えのする男だ。嫁いでくる前、リュネールの令嬢たちは扇の陰で囁き合ったものだった。ああいう男ほど、いざ妻を迎えると溺れるように愛するものよ、と。
溺れるような愛とやらは、3か月経っても、いっこうに届かない。
「妃」
「なんですの、陛下」
「国へ帰れ」
広間が、凍りついた。
カミーユは、ゆっくりと葡萄酒の杯を持ち上げた。
「よろしいの? わたくしを帰したら、戦ですわよ」
「分かっている」
「分かっていらして、仰るの」
「分かっていて、言いたくなるのだ」
エドリックは立ち上がり、それきり振り返らずに広間を出ていった。
カミーユは杯を傾けた。葡萄酒は、ガルデンの酒にしてはまあまあ飲める。そのことは、誰にも言ってやるつもりはない。
◇
誓いの文句は、子どもでも諳んじられるほど短い。
――花嫁がガルデンの王城にある限り、両国は剣を抜かず。
――花嫁を戻せば、戻した側が誓いを破ったものとみなす。
――花嫁を害せば、害した側が誓いを破ったものとみなす。
――花嫁が天に召されしときは、両国は喪に服し、改めて花嫁を立てる。
ヴェール川に架かる石橋の真ん中で、両国の王がこれを唱え、両岸に並んだ兵が聞いた。春の盛りのことで、カミーユは白い花嫁衣装のまま、橋の東へ渡った。
ガルデンの城は、その橋から馬で半刻もかからない丘の上にある。戦のあいだは国境の砦だったものを、和平の監視のために王がそのまま居城にしているのだ。
つまり、カミーユは、毎朝窓から故郷を眺めて暮らしている。
見えるのは対岸の森ばかりで、懐かしいとは少しも思わなかった。
◇
「お嬢様。リュネールから、お使者が」
侍女のマルトが告げたのは、晩餐の騒ぎから7日後のことだった。
マルトは、カミーユが本国から連れてきたただ一人の侍女だ。乳母の娘で、物心ついたころからそばにいる。ガルデンの侍女たちはカミーユの部屋に近寄りたがらないので、身の回りのことは、ほとんどこの娘ひとりでこなしていた。
使者は、伯父であるフィリップ王の侍従だった。応接の間で、彼は気の毒そうな顔をこしらえている。
「ガルデン王より、陛下のもとへ内々のお申し入れがございました。妃殿下を、お引き取り願えないかと」
「あら。陛下は、なんとお答えに?」
「お断りになりました」
「でしょうね」
「妃殿下を戻されれば、それは誓いを破ったのがガルデンの側ということになります。リュネールとしては戦の大義が立つ。ですが、陛下は戦を望んでおられません。ですから、どうか」
侍従は、そこで少し言い淀んだ。
「どうか、ガルデンの方々と、仲良くなさいますように」
「無理ね」
カミーユは即答した。
「あの国の人たちは、スープの味も分からないもの」
侍従は、救いを求めるようにマルトを見た。マルトは、黙って目を伏せていた。
◇
その晩、カミーユの部屋の扉の前で、台所の下働きの娘が死んだ。
ミナという、14になるかならないかの娘だった。カミーユの夜食の盆を運ぶ途中で、盆の上の焼き菓子を、ひとつだけ口に入れたらしい。
見つけたのは、マルトだった。
悲鳴を聞いて扉を開けると、廊下の敷物の上に、娘が丸くなっていた。喉を掻きむしった跡が赤く残り、唇の端に、泡が乾いてこびりついている。散らばった焼き菓子のひとつに、小さな歯形がついていた。
カミーユは、しばらく戸口に立ったまま、それを見下ろす。
昼間、厨房の前を通りかかると、この娘が菓子を盗み食いして料理長に叱られているところだった。カミーユは「卑しい」とだけ言って、足も止めずに通り過ぎている。
卑しくなければ、死なずに済んだ。
卑しかったから、わたくしの代わりに死んだ。
「……お嬢様、お下がりください。見てはいけません」
マルトが、震える声で言った。
「見るわ」
カミーユは膝を折り、娘の見開いたままの目を、指で閉じてやった。
「わたくしが食べるはずだったものよ。見ないで済ませるわけにはいかないでしょう」
城の医師が来て、首を横に振った。廷臣たちが来て、遠巻きに囁き合った。最後にエドリックが来て、長いこと娘の亡骸を見下ろす。
「妃。心当たりは」
「ありすぎて困りますわ」
「……だろうな」
王は衛兵に命じて亡骸を運ばせ、それから、低い声で言った。
「これからは、口に入れるものに気をつけろ」
「陛下のお城の台所で出たものですわよ」
エドリックは、答えなかった。
◇
その夜から、カミーユは考え始めた。
誰が、わたくしを殺したがっているのか。
答えは、拍子抜けするほど簡単だった。
誓いの文句を、もう一度なぞればいい。
戻せば、戻した側が破ったことになる。害せば、害した側が破ったことになる。けれど、花嫁が天に召されたときだけは、誰も誓いを破らない。両国は喪に服し、改めて花嫁を立てる。
つまり、わたくしが病で死ねば、誰も悪くならないのだ。
ガルデンは、この厄介な女を追い払える。代わりに、もう少しおとなしい花嫁を迎えられる。
リュネールは、いつ送り返されるか分からない爆薬を始末できる。代わりに、もう少し言うことを聞く娘を送り込める。
毒入りの焼き菓子は、たぶん、病に見せかけるには少し荒っぽすぎた。だから一度でしくじった。次は、もっと上手にやってくるだろう。
問題は、それがどちらの国から来るのか、だった。
カミーユは、窓の外の暗い川を見下ろした。
――どちらから、ではないのかもしれない。
◇
それからの半月、カミーユはひどく用心深く暮らした。
食事は、廷臣たちと同じ大皿から、誰かが取り分けたあとの残りだけを口にした。焼き菓子には、二度と手をつけない。眠る部屋は毎晩変え、どの部屋で眠るかはマルトにしか告げない。
ガルデンの廷臣たちは、それを見て陰口を叩いた。妃殿下は、ついに気が触れたらしい、と。
構わなかった。気の触れた女を演じるのは、そう難しいことではない。もともと、まともだと思われたこともないのだから。
半月目の夜、カミーユは東の塔の小部屋で眠っていた。
目を覚ましたのは、物音のせいではない。
部屋の空気が、変わったのだ。
寝台の帳の向こうに、人の気配がある。息を殺しているつもりなのだろうが、衣擦れの音までは殺しきれていない。
ひとつ。
いや――ふたつ。
カミーユは、目を閉じたまま、寝息の調子を崩さないように努めた。
ひとつめの気配は、寝台の足もとのほうにいた。じっと動かない。ふたつめの気配は、窓のほうから、少しずつ枕もとへ近づいてくる。
近づいてくるほうの手に、何か柔らかいものが握られている。羽毛の匂いがした。
枕だ。
顔に押し当てて、息を止める。朝になれば、妃殿下は眠ったまま心の臓が止まったことになる。病死だ。誰も誓いを破らない。
――上手になったわね。
カミーユは、心のどこかで、ひどく冷静にそう思った。
枕を持った気配が、寝台の脇で止まる。
そのとき、足もとのほうの気配が、動いた。
息を呑む音。
枕を持った気配が、弾かれたように振り返る。
闇の中で、ふたつの気配が、互いに凍りついているのが分かった。
カミーユは、ゆっくりと目を開けた。
「あら」
月明かりが、窓の隙間から細く差し込んでいる。
窓際に、黒い外套の男が立っていた。手に、羽毛の枕を握ったまま。
寝台の足もとには、マルトが立っていた。手に、小さなガラスの瓶を握ったまま。
「ずいぶん、賑やかな夜ですこと」
誰も、動かなかった。
男の顔には見覚えがあった。侍従長ベルトランの下で、王の身辺を警護している衛士のひとりだ。
マルトの手の瓶にも、見覚えがあった。リュネールの森でしか採れない、鈴蘭の根を煎じた薬。心の臓を、静かに、ゆっくりと止める薬だ。飲ませれば、眠ったまま死んだように見える。
つまり、ふたりとも、同じことを考えていた。
病死だ。
それにしても、今夜この部屋で眠ることは、マルトにしか告げていない。衛士は、マルトの後をつけてきたのだろう。両国の刺客が、互いに相手の道案内をしていたわけだ。
「わ、わたくしは」
マルトが、かすれた声で言った。
「わたくしは、この男がお嬢様を害そうとしているのに気づいて、それで」
「その瓶を持って?」
マルトの唇が、震えた。
「わ、私は、この女が妃殿下に何かを飲ませようとしているのを見て」
衛士が言った。
「その枕を持って?」
カミーユが訊き返すと、衛士の顔が、月明かりの中で白くなる。
カミーユは、寝台の上で身を起こした。夜着の襟を整え、乱れた髪を後ろへ払う。
心の臓が、早鐘のように打っている。それを顔に出さないのは、生まれてこのかた、いちばん得意なことだった。
「マルト」
「……はい」
「伯父様に頼まれたの?」
マルトは答えなかった。答えないことが、答えだった。
「いつから?」
「……お嫁ぎになる前から。もし、もしもガルデンでお嬢様が厄介なことになったら、そのときは、と」
カミーユは、長いこと乳母の娘の顔を見ていた。
物心ついたときから、そばにいた娘だ。髪を結い、服を着せ、熱を出せば夜通し額を冷やしてくれた。
その手が、いま、鈴蘭の瓶を握っている。
「そう」
それだけ言って、カミーユは衛士のほうを向いた。
「あなたは、ベルトランの手の者ね。陛下もご存じなの?」
「……私は、何も」
「知らないのね。それとも、知らないことにしてあるのかしら」
衛士は、黙った。
「焼き菓子も、あなたたち?」
衛士の肩が、びくりと跳ねる。
「……あれは、私ではありません。台所の者が、侍従長の言いつけで」
「そう。荒っぽいやり方だと思ったわ。それで、今夜は枕にしたのね」
衛士は、もう何も言わない。
カミーユは、寝台から降りた。素足に、石の床が冷たい。
「ふたりとも、殺さないでおいてあげるわ」
衛士とマルトが、同時に顔を上げた。
「その代わり、明日の朝まで、互いに見張りなさい。片方が逃げたら、残ったほうを、わたくしは逃げたほうの国の人間だと言うわ。そうしたら、どちらの国にも帰れなくなるわよ」
それから、カミーユは扉を開けて、廊下に向かって声を張り上げた。
「衛兵! 妃が呼んでいるわ! 縄を2本、持っていらっしゃい!」
◇
翌朝は、月に一度の誓いの日だった。
ヴェール川の両岸に兵が並び、橋の真ん中で、両国の使者が誓いの文句を唱え直す。戦が終わってからずっと続いている習わしで、今月はちょうど、両国の王がそろって立ち会う番に当たっていた。
カミーユは、夜明け前に支度をした。
マルトがいないので、髪は自分で結う。ひどい出来だったが、どうでもいい。花嫁衣装の次にいちばん白いドレスを選び、その上に、ガルデンの紋章入りの外套を羽織る。
「妃殿下、どちらへ」
廊下で、侍従長ベルトランが待ち構えていた。昨夜の騒ぎを、もう聞いているのだろう。顔色が、ひどく悪い。
「誓いの日ですもの。花嫁が立ち会わなくて、どうしますの」
「妃殿下が橋へお出ましになるのは、習わしにございません」
「習わしにないことをするのが、わたくしの習わしよ」
カミーユは、縄で手を縛られたふたりを、衛兵に引かせて歩き出した。
ベルトランの顔から、最後の血の気が引いていった。
◇
川面に、朝の霧が薄く漂っていた。
東の岸にガルデンの兵が、西の岸にリュネールの兵が、それぞれ槍を立てて並んでいる。数は、たぶん1,000ずつはいるだろう。橋のたもとには両国の旗が翻り、その下に、それぞれの王が立っていた。
東に、エドリック。
西に、伯父のフィリップ。
カミーユは、東のたもとからまっすぐ橋に足をかけた。
「妃! 何をしている!」
エドリックの声が飛んだ。
カミーユは、振り返らなかった。
石畳を、一歩ずつ踏んでいく。両岸の兵がざわめき、そのざわめきが、霧の中で波のように揺れた。
橋の真ん中には、両国の境を示す白い石が埋め込まれている。誓いの日に、両国の使者が向かい合って立つ場所だ。
カミーユは、その白い石の上で、足を止めた。
西を向けば、故郷の森。東を向けば、嫁ぎ先の城。
どちらにも、一歩も踏み出さない。
「ごきげんよう、伯父様。ごきげんよう、陛下」
声は、思ったよりよく通った。霧が、音を運んでくれるのかもしれない。
「わたくしを返したい方と、受け取りたくない方がいらっしゃるようですので。ちょうど真ん中に、立ってみましたの」
両岸が、しんと静まり返った。
「よくお聞きになって。わたくしがここから一歩でも西へ出れば、ガルデンがわたくしを戻したことになりますわ。誓いは破れて、戦になります」
カミーユは、東を見た。
「わたくしをここから力ずくで引き戻そうとなされば、両岸の兵の前で、花嫁を害したことになりますわね。それも、戦」
それから、両岸を見渡した。
「そして、もしわたくしがこの橋の上で死ねば。……さあ、どちらの国の矢だったのか、誰にも分かりませんわね。きっと、どちらの国も、相手のせいだと仰るわ。それも、戦」
西の岸で、弓兵のひとりが、震える手で弓を引きかけた。
隣の兵が、慌ててその腕を押さえる。だが、間に合わなかった。弦の鳴る音がして、矢が1本、霧を裂いた。
矢はカミーユの左の欄干に当たり、乾いた音を立てて跳ね返る。
石の欠片が、頬をかすめる。
両岸から、悲鳴が上がった。
カミーユは、動かなかった。
頬に手をやると、指先に、うっすらと血がついている。膝が、笑い出しそうになっていた。それを、ドレスの下で誰にも見せずに堪える。
「……ほらね」
声が震えなかったのは、たぶん、奇跡だった。
「こんなふうに、簡単に戦は始まりますのよ」
西の岸で、フィリップ王が叫んだ。
「射た者を捕らえよ! 誰も弓を引くな!」
東の岸で、エドリックが叫んだ。
「誰も橋に近づくな! 一歩もだ!」
両国の王が、生まれて初めて、まったく同じことを命じていた。
◇
「さて」
カミーユは、頬の血を指で拭った。
「わたくしをここまで追い詰めた方々を、ご紹介いたしますわ」
東のたもとから、衛兵がふたりを橋の上へ引き出した。縄で縛られたマルトと、ベルトラン配下の衛士。
「こちら、リュネールから参りましたわたくしの侍女、マルト。鈴蘭の根の煎じ薬をお持ちでした。眠ったまま心の臓が止まる、たいへん上品なお薬ですわ。伯父様、お心当たりは?」
西の岸で、フィリップ王の顔が、みるみる赤黒く染まっていった。
「それから、こちら。ガルデンの侍従長ベルトランの衛士ですわ。羽毛の枕をお持ちでした。眠ったまま息が止まる、これまた上品なやり方ですわね。陛下、お心当たりは?」
エドリックは、答えなかった。
ただ、東のたもとで、侍従長ベルトランが膝から崩れ落ちるのが見えた。
両岸の兵たちが、ざわめく。ざわめきは、すぐに怒号に変わる。
――病死に見せかけるだと?
――花嫁を、闇討ちで?
――それが王家のやることか。
10年も戦ってきた兵たちだ。人を殺すことは、知っている。けれど、それを昼の光の下で、名乗りを上げて、刃を交えてやってきた。眠っている女の顔に枕を押しつけるのは、彼らの知っている戦ではない。
「ご安心なさって」
カミーユは、両岸の怒号の上に声を重ねた。
「わたくし、両国のどちらも責めるつもりはございませんの。だって、どちらもやったのですもの。どちらか一方だけ責めたら、不公平でしょう?」
怒号が、ふっと途切れた。
代わりに、どこからか、こらえきれない笑い声が漏れた。東の岸からだったのか、西の岸からだったのか、カミーユには分からない。
「ただし」
カミーユは、笑い声が引くのを待った。
「わたくしを狙った分は、責めませんわ。でも、台所の娘の分は別です。ミナという14の娘が、わたくしの焼き菓子を盗み食いして、死にました。毒を入れた者だけは、陛下、差し出していただきます」
エドリックは、今度はすぐに答えた。
「……約束しよう」
「それから、もうひとつ、お願いがございますの」
カミーユは、両国の王を交互に見た。
「誓いの文句に、ひと言だけ足していただきたいの」
フィリップ王が、喉の奥で唸った。
「……なんだ」
「花嫁が天に召されしときは、の、あとですわ。改めて花嫁を立てる、ではなく」
カミーユは、ゆっくりと言った。
「――花嫁がいかなる理由で死すとも、誓いは破れたものとみなす。病であれ、事故であれ、老いであれ」
両岸が、静まり返った。
最初に意味に気づいたのは、エドリックだった。灰色の目が、わずかに見開かれる。
「……つまり、妃が死んだ時点で、どのような死に方であれ、戦になると」
「ええ」
「それでは、両国とも、妃を死なせるわけにはいかなくなる」
「ええ。風邪ひとつ、ひかせられませんわね」
「戦を望む者がいれば、お前はいちばんの的になるぞ」
「ですから、両国で全力でお守りくださいな。これからわたくしを殺したい方は、両国の兵を残らず敵に回すことになりますのよ」
西の岸で、フィリップ王が叫んだ。
「老いであれ、だと! それでは、お前が寿命で死んだら、そのときに戦が始まるではないか!」
「そうですわね」
カミーユは、にっこりと微笑んだ。
「ですから、わたくしが死ぬまでに、戦をしなくても済む仕組みを、両国でよくお考えなさいな。花嫁ひとりの命に和平を背負わせるような、くだらない誓いではなく」
白い石の上で、彼女は外套の裾を払った。
「わたくし、たぶん長生きいたしますわ。性格の悪い女は、長生きと相場が決まっておりますもの。時間は、たっぷりございますのよ」
霧が、少しずつ晴れてきた。
両岸に並んだ兵たちの顔が、はっきりと見えるようになる。誰もが、橋の真ん中の小柄な女を見ていた。
長い沈黙のあと、エドリックが、橋のたもとから一歩、前へ出た。
「……誓おう」
西の岸で、フィリップ王が、苦い薬を飲み下したような顔で頷いた。
「……誓う」
両国の王が、橋の両端から、新しい誓いの文句を唱えた。両岸の兵が、それを聞いた。
カミーユは、白い石の上でそれを最後まで聞き届ける。
それから、くるりと東を向く。
「では陛下。わたくし、帰りますわね。ガルデンへ」
◇
城に戻ると、カミーユの部屋の前に、医師が3人待っていた。
ひとりはガルデンの宮廷医師で、ひとりはリュネールから早馬で駆けつけた侍医だった。最後のひとりは、そのどちらも信用できないとエドリックが言い出して、町から呼び寄せた薬師だ。
「妃殿下、お頬のお傷を」
「妃殿下、まずはお脈を」
「妃殿下、こちらの薬湯を」
「うるさいわね」
カミーユは3人を押しのけて、長椅子に腰を下ろした。ようやく、膝の震えを隠さなくてもよくなった。
扉が叩かれ、エドリックが入ってくる。
王は、しばらく戸口に立ったまま、妻の顔を見ていた。頬の傷に、目が留まる。
「……妃」
「なんですの、陛下」
「侍従長は、職を解いた。あれは、私の知らぬところで動いた」
「知らないことに、していらしたのでしょう?」
エドリックは、否定しなかった。
「それについては、詫びる」
「詫びなど要りませんわ。陛下がわたくしを嫌っていらっしゃるのは、存じておりますもの」
「ああ。嫌いだ」
王は、あっさりと言った。
「スープを豚の餌と言われた恨みは、生涯忘れん」
「まあ」
「だが」
エドリックは、深く息を吐いた。それから、ガルデンの冷酷王は、生まれて初めてのことをした。
妻の前で、頭を下げたのだ。
「頼むから、大人しくしていてくれ。これから先、お前が風邪をひくたびに、私は両国の戦を心配せねばならん」
カミーユは、夫の黒い頭頂を、しばらく眺めていた。
溺れるような愛は、どうやら一生届かないらしい。
代わりに届いたのは、国ひとつぶんの心配だった。
「考えておきますわ」
彼女は、薬師の差し出した薬湯の椀を受け取った。
「それと陛下。今夜の晩餐、あのスープはお出しにならないでくださいましね。わたくし、あれを飲んだら病で死んでしまいそうですもの」
エドリックは顔を上げ、何か言い返そうとして、結局、何も言わずに出ていった。
扉が閉まる。
長椅子の脇の卓に、封書がひとつ置かれていた。リュネールの侍医が、伯父から預かってきたものらしい。
開くと、伯父の几帳面な字で、一行だけ書いてある。
――頼むから、大人しくしていてくれ。
カミーユは、こらえきれずに吹き出した。両国の王に、一日で同じことを頼まれた花嫁は、たぶん世界でわたくしひとりだろう。
入れ替わりに、衛兵がマルトを連れてきた。縄は、もう解かれている。リュネールへ送り返すか、ガルデンの牢に入れるか、妃殿下がお決めになるように、と陛下が仰せだという。
マルトは、床に額をつけたまま動かない。
「顔を上げなさい」
「……お嬢様」
「新しい誓いは聞いたでしょう。わたくしが死ねば、どう死んでも戦よ。伯父様だって、もうあなたにわたくしを殺せとは言えないわ」
カミーユは、薬湯の椀をマルトの前に突き出した。
「だから、今日からあなたは、わたくしを死なせないための侍女。まずはこれを毒見なさい。それから、明日からは髪も結うこと。自分で結うと、ひどい出来なのよ」
マルトは、震える手で椀を受け取る。ひと口すすって、顔をしかめた。
「……苦うございます」
「でしょうね」
カミーユは椀を取り返し、薬湯をひと口すすった。
ひどく苦い。
窓の外では、霧の晴れたヴェール川が、朝の光を映して流れている。対岸の森は、相変わらず少しも懐かしくなかった。
ただ、ミナという娘のことだけは、覚えておこうと思う。
卑しくて、わたくしの代わりに死んだ、14の娘。
あの子の墓には、ガルデンの古い祝いのスープを供えてやろう。豚の餌でも、あの子なら、きっと喜んで食べる。
カミーユは、苦い薬湯を最後まで飲み干した。
長生きしなければならないのだ。両国のために、ではなく。
あの冷酷王に、生涯わたくしの心配をさせ続けてやるために。
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