第一節 『波乱の幕開け』
方舟シリーズ2作目です。よろしくお願いいたします。
雨が降っていた。嫌な天気だ。
湿度の高い日はジメジメしていて、どうも苦手だった。
だが竹は吸水性が高く、土壌の水はけも良い。そのおかげで、泥に塗れる心配もなければ、雨上がりのジメッとした空気にさらされることもない。
雨は大嫌いだ。
それでも竹林は、ワタシにとってとても住み心地の良い場所だった。
「今日も竹林江華は雨かぁ……。ほんと、嫌になっちゃう」
竹林の山中にある屋敷の縁側に座り、ワタシは空の分厚い雲と降り注ぐ小粒の雨を、琥珀色の虎の目でじっと見据え、溜め息交じりに呟いた。
「早く梅雨、終わってくれないかなぁ……」
山風が吹き、アルビノの白い髪に雨がポツリと触れるたびに、ワタシは反射的にビクっと肩を震わせる。
ネコ科の宿命というべきか、水はとても苦手だった。
嫌ならさっさと家の中に入れ──と言われるかもしれない。
だけど、ワタシは陛下によって任された将軍で、こうして座ってはいるけど勤務中。
何かが起きるまで待機しているだけ。
まあ、何も起きないほうがありがたいんだけど……。
というのも、この地──竹林江華は、標高の高い山岳地帯が広がる険しい土地であり、しかも隣国との国境を接する緩衝地帯。
だから、たびたび領土をめぐって揉め事が起きているの。
幸い、意図的な侵犯はないので大事に至っていない。
けれど、いざこざが起きるたびに、両軍の兵士たちの鬱憤は、どんどん溜まり続けている。
それが爆発するのも、もはや時間の問題だと思う。
「──白“将軍”!」
鬱屈とした色褪せた空を見上げ、物思いに耽っていると、一人の男が駆けて来た。
黒い円錐形の戦笠を被ったその兵士は、肉食獣のように鋭い瞳でこちらを見据え、ワタシの返事を待っていた。
「どうしたの? 無“護軍”」
彼は無赫。
ワタシと同じ剣虎族で幼馴染、そして護衛だ。
濃紺の具軍服を身に纏い、腰には二振りの直刀を携えている。
剣虎族は剣術に秀でた部族であり、獣王朝の四将軍の一角を代々担い続けてきた。
彼は部族の中で二番目に強い剣士で、二刀流剣術においては、ワタシ以上の実力の持ち主だ。
そんな彼が、ここまで緊迫した面持ちで駆けてくるなんて……。
一体、何が起きたんだろう……。
「崇徳宮より泰“承旨”殿がお見えにございます!」
「泰“承旨”殿が……? すぐに通してちょうだい」
「──御意!」
無赫は洗練された所作で一礼すると、すぐさま正門の方へ駆けて行った。
それから少しして──。
「──お久しぶりですな、白“将軍”殿。こうして顔を合わせるのも三年ぶり。いやぁ、相変わらずお美しい」
整えられた口髭の下で笑みを浮かべ、再会の挨拶を述べる泰“承旨”殿に、ワタシも口上を述べる。
「お褒めいただき光栄です。泰“承旨”殿も、年を重ねてますます貫禄が増されたように見えますよ。折角ですから、こちらで旅の疲れでも癒してください」
ワタシは隣に座るよう縁側を手で示す。
だけど、泰“承旨”殿は手で制され、頭を振ってそれを丁重に拒否した。
「いえいえ、それには及びません。すぐに次の場所へ行かねばなりませんので」
次の場所へ?
傘も差さずに、そんなずぶ濡れで?
陛下の忠臣である泰“承旨”殿が、衣服が濡れることすら厭わずに各所を回るなんて、よほどの大事に違いない。
「結論から申し上げます。今朝方、陛下が御崩御なされました」
「……え?」
その言葉を聞いた瞬間、ワタシの思考は真っ白になった。
瞳孔が無意識に開き、時の流れが止まったかのように、呼吸すら忘れて泰“承旨”殿の顔をじっと見つめた。
「陛下が? そんな……。どうして……」
戸惑いが胸を締めつける。
三年前はあれほど元気だったというのに、たった三年で一体何が……。
「それに際し、三日後に葬儀が執り行われます。国境線で緊張状態が続く中、誠に恐縮ですが、今回は参列をお願い申し上げます」
今ここで詳細は伝えられないとばかりに、泰“承旨”殿は陛下の国葬の日程と、崇徳宮への招聘をワタシに命じた。
そこへ──、
「──し、失礼いたしますっ!!」
三人のいる場に、新たな人物が割って入った。
彼は国境の警備を任せている部隊に所属する伝令兵のひとりだ。
赤兎族の特徴である長いウサミミを戦笠に開いた穴から覗かせる姿は、とても愛らしい。
あどけなさの残る少年っぽい顔立ちが、さらにそれを際立たせていた。
「白虎軍の伝令……?」
示し合わされたようなタイミングでの登場に、泰“承旨”殿は訝しげに眉を顰めた。
「あっ……、こ、これは、泰“承旨”様……ッ!!」
「こら、俊弼! 動揺している暇があったら早く報告して!」
泰“承旨”殿の顔を見て、完全に委縮し狼狽えてしまった俊弼に、ワタシは一喝。
彼の意識を現実に再び引き戻した。
「は、はい! すみませんッ!!」
ピシッと背筋を正し、謝辞を述べた後、俊弼は深呼吸を一度して。
「申し上げますッ!! 竹林江華南東の国境、天落山にて竜王国軍が領土を侵犯ッ!! こちらの警告にも一切応じず、先制攻撃を仕掛けてきたため、現在、武力衝突が発生しておりますッ!!」
その報告は、この場にいる誰もを驚かせた。
陛下が崩御された“その日”に、隣国の正規軍が領土を侵犯。
しかも、泰“承旨”殿がここへ到着した、このタイミングでだ。
「なんとっ!」
「これはまさか……。いや、そんなはずは……!」
泰“承旨”殿も、無“護軍”も、そしてワタシも、きっと同じことを考えていた。
「竜王国軍は陛下の崩御を事前に知っていた? だからこのタイミングで侵攻を?」
「それはあり得ませぬ。陛下のご病気は秘匿されておりましたゆえ」
「では、どこから情報が漏れたというのです。泰“承旨”殿も、薄々感じているはずです。国の中枢に内通者がいることを」
「…………」
ワタシの言葉に、泰“承旨”殿は閉口する。
それは無言の肯定とも取れた。
「まずは天落山に向かいます! 無“護軍”、戦の支度を! 泰“承旨”殿は道中、お気をつけて! 三日後に崇徳宮で再び会いましょう!」
「御意ッ!! 直ちに準備しますッ!!」
「白“将軍”殿もどうかご無事で! 貴殿の武運を、この泰“承旨”、心より祈っております!」
二人が去ったのを見送った後、ワタシは残るひとり。
「俊弼。あなたは竹林江華各地の白虎軍に、天落山へ集まるよう伝えて! この戦い、二日で終わらせる!」
そうでなければ、三日後の国葬に間に合わない。
「はっ! 仰せつかりましたっ!」
脱兎のごとく素早い動きで走り去る俊弼の背中を見送って、ワタシも屋敷の中に戻り、出陣の準備を始めた。
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