2、聖騎士団員の覚醒
灰色の悪霊を後回しにして、モリーはアリスを右の脇に抱え、台所を飛び出した。そのまま長くもない廊下を走り、玄関の方にある二階への階段を駆け上がった。
従妹の手前、流石に口には出さなかったが、心の中で、この事態を引き起こす原因を作った叔母への不満を盛大に叫びながら。
――だから、絶対に薔薇を抜いてはいけないと、あれほど何度も止めたのに!
「何処なの、アウロラ!」
モリーが呼ぶと、かつて祖父母が使っていた主寝室からアウロラの声が聞こえた。
「助けて、窓から何か入って来るの!」
モリーはアリスを抱えたまま、主寝室に続くドアを勢いよく蹴った。幸い施錠されていなかったドアは、すぐに開いた。
「アウロラ、大丈夫?」
「モリー!」
窓から離れた、主寝室ドアから見て左の壁際に身を寄せていたアウロラが、モリーを見るなり飛びついた。モリーはそれを難なく受け止め、窓を見た。
アウロラの言う通り、それは窓の隙間から、じわじわと滲むように侵入してきた。
全体的には極めて粘性の高いコロイド状の液体のようだが、その灰褐色の表面に浮き出しているのは、無数の人間の口。それらは忙しなく開いては閉じてを繰り返し、白い歯や赤い舌を見せたり、低い笑い声を上げたりした。大抵は森の奥に潜み、道に迷った人間を誘き寄せて捕食する魔物だが、時に、こうして家屋に侵入することもある。
モリーはアリスを降ろし、右のポケットから出した護り指輪をアウロラに差し出した。
「これは護り指輪よ。これを右手の指に嵌めれば、どんな悪霊も魔物も襲って来ないわ。だから、これを嵌めて、アリスを連れて逃げて」
しかし、アウロラはそれを拒否した。
「嫌!」
やにわに、アウロラがモリーにきつくしがみついた。同じようにアリスも、反対側から締め付けるように縋りついて来た。どちらも、十歳にも満たない子どものものとは到底思えない力で。
モリーは身動きが取れないまま、窓枠から滲んで来るそれと対峙する羽目に陥った。しかも同時に、階下からは悪しきものが這い上がって来る気配。先程台所にいた灰色の悪霊が子どもたちの悲鳴によって力を増し、上がって来ようとしているらしかった。
「何よ、これしき。私だって聖騎士団最年長の守護者なんだからね!」
自らを鼓舞するかのようにそう叫んだ時――。
――そうだよ、君は聖騎士団でも最年長の二級守護者じゃないか。それなのに、君とは五歳も離れていない従妹たちが、そんなに幼いはずはないだろう?
耳元で聞き慣れない少女の声がした。悪霊の声ではあり得ない、澄み切った美しい声。
モリーはやっと気が付いた。今自分にしがみついている従妹たちが偽物だということに。
彼女は容赦なく二人を振り払った。よく見れば、これまで従妹たちだと思っていたものは、藁を束ねただけの胴体に丸い布製の頭とロープの手足をつけた、二体の呪術人形だった。儀式後に処分から免れ、術者の手を離れて自らの意思で動くようになった魔物だ。
「上等よ、まとめて消してやるから!」
モリーは、自身に宿る破魔の力を全て解放した。
モリーが目を開けると、濃い青紫色の空が見えた。どうやら柔らかな草が絨毯のように生い茂る場所に寝ていたようで、背中に固い地面の感触はなかった。あまりの怠さに起き上がれずにいると、上から少女の声が降ってきた。
「目覚めたようだね。起こしてあげるから、無理せず少し待って。……シェーン。彼女の上半身をゆっくりと起こして、そのまま支えてあげて」
「承知しました。」
そう答えた若い男の声はすぐ側で聞こえた。モリーは慌てて首をそちらに向けた。そこにいたのは端正な顔立ちの青年だった。
「失礼いたします、ターナー嬢」
男はモリーの身体に両腕を回して抱き起こし、しっかり支えてくれた。すると、先程の声の主と思われる十二歳ほどの美しい少女が正面に立っているのが見えた。
少女は屈んでモリーの顔を覗き込むなり、難しい顔をした。
「まずいな、肺炎になりかけている」
少女は肩に掛けていた鞄から小瓶を取り出して蓋を開け、モリーの口元に充てがった。
「これは『森の貴婦人』の秘薬だよ。一息に飲み干して」
小瓶の口からは、馴染みある数種類の香草の香りがした。まだぼうっとしていたモリーは、素直に薬を飲み干した。
「良い子だね。熱も少し下げておこう」
少女がそのほっそりとした冷たい手でモリーの額を撫でると、モリーの頭が急にはっきりして来た。
「これで応急処置は済んだ。モリー・ターナー、私たちはエズメに頼まれて、君を助けに来たんだよ」
「……エズメ…ロイド先生に?」
そう尋ねるモリーの声は酷く掠れていたが、少女は頷いた。
「そうだよ。君が学んだアーケイディア単科大学の教授のね」
モリーは、厳しくも優しい恩師の顔を思い浮かべて泣きそうになり、それを何とか堪えたところで、助けてくれた少女と自分を支えてくれている男にまだ礼を言っていないことに思い至った。
「……助けてくださり、ありがとう、ございます」
少女に、それから振り返って男に感謝し、そこで気付いた。
「……ところで、此処は?」
少女が面白そうにくすりと笑った。
「此処はスカーレットウッズの中心、君が生まれ育った薔薇荘の焼け跡だ。君はさっきまで、焼け跡に居座った『紛い物の家』とも『家もどき』とも呼ばれる魔物の体内に閉じ込められ、今の今まで、奴の作り出した悪夢の残滓に囚われていたんだよ」
モリーは困惑した。
「……叔母は、火事があったなんて一言も……」
「言わなかっただろうさ。火事の原因は薔薇荘の管理を任されていた君の叔母、アイリーン・スターリングの過失だそうだから」
それを聞いたモリーは、一瞬まさかと思い、やがて、あの叔母ならばさもありなんと思い直した。
「君が『家もどき』に飲まれたのは……既に夜が明けたから、一昨日の、夕方のことだね。君は『家もどき』の悪夢に囚われながら、二晩も持ち堪えたんだよ。一度でも絶望したなら、そこに付け込まれて魂を喰われていただろうに」
諦めずによく戦い続けたね、と少女はモリーの頭を優しく撫でた。辺りの暗さが薄らぐ中でよく見れば、少女はその身体に合わないぶかぶかの服を纏っていた。
「……貴女様は、もしや『黒き森の大聖女』様?」
「その仰々しい呼び名は嫌いなんだ。できればベッキーと呼んでほしいな」
少女は肩を竦めてみせ、それから男に命じた。
「シェーン、モリーを抱えて連れておいで。此処の妖精たちの情緒が不安定な今、長居は無用だ」
この辺りでは誰もが妖精に対する遠慮から「隣人たち」という呼び方をするのだが、少女ははっきり「妖精」と口にした。
「承知いたしました」
長身のシェーンに抱き上げられて視点が高くなると、なるほど、そこはかつて薔薇荘があった場所だとモリーにも分かった。
「もう一度、薔薇荘を薔薇でいっぱいにしたかった」
幼い頃に祖父と一緒に薔薇の手入れをしたことを思い出し、涙が止まらなくなった。
「良いね。薔薇は邪を祓い、善き妖精たちの魔力と情緒を安定させる。どうせ家の建て直しはハワードが手配しているだろうし、選りすぐりの薔薇を、今すぐ此処に生やしてあげるよ」
こともなげにそう言う少女に、モリーはつい頼んでしまった。
「出来れば、ラベンダーも一緒にお願いします」
「君って全然遠慮しない子なんだね。でも、最高のおねだりだよ」
少女の朗らかな笑い声が、黎明の森に響いた。
後で叔母をどうにかせねばと思いつつ、モリーは再び夢に落ちた。




