1、聖騎士団員の帰郷
グロテスクなシーンがあります。ご注意ください。
この世で最も安らげるはずの場所で、モリーは一人、戦い続けていた。
* *
モリーが実家である薔薇荘に帰るのは、実に四年ぶりだった。
モリーの母は産褥熱で亡くなり、船員の父は一年の大半を遠洋に浮かぶ船の上で過ごす身だったので、薔薇荘に住んでいた父方の祖父母がモリーを育てたのだ。
モリーは祖父の没後、祖母と従妹たちの生活費と学費を稼ぐべく聖騎士団入りを志し、十八歳の時に故郷である連邦第一南東州を出て、連邦第二沿海州の州都アーケイディアにあるアーケイディア単科大学・聖騎士養成科に入学した。そこで座学と戦闘訓練に励みながら二級守護者の資格を取得したのが二十一歳の秋。 卒業後すぐに入団してからは各地を転戦し、悪霊や魔物に汚染された場所の浄化や、戦闘中の拠点となる仮聖域の確保を担った。そうしているうちに満三十歳の引退日まで残り一年を切っていたのだ。
彼女がそのことに気付いたのが一月前。そこでさっそく、引退後のことを考えて一度帰郷したい、と聖騎士団長に頼み込み、後輩の二級守護者であるメグの休暇明けと入れ違いになる形で一週間の休暇をもぎ取った。
騎士団本部のあるアーケイディアの中央駅から、薔薇荘に最も近い駅のある第一南東州スカーレットタウンまでは夜行汽車で一泊二日。薔薇荘は、スカーレットタウンの東部からシャーロット湖の西岸まで広がる森、スカーレットウッズの中に建つ一軒家だった。カエデ類を主体とするこの森は、その名の通り、秋になると見事な緋色に染まる。熊や狼のような危険な動物は生息せず、楓糖蜜や野苺、キノコといった恵みが豊かで、スカーレットタウンの人々からは「気の良い隣人たちの森」と呼ばれていた。
モリーは先にスカーレットタウンに住む叔母の家を訪ねた。訪問予定日時は事前に手紙で知らせていた上、実際に時間通りだったが、叔母はリビングで食事中だった。だからという訳ではないが、モリーは長居せず、預けていた薔薇荘の鍵を受け取ったその足で森の中に向かった。
夕刻だったせいか、森の中はいつになく静かで、近隣の子どもたちの姿もなければ、気の良い隣人たちの声さえ聞こえなかった。
森の中の一本道を歩くこと一時間。急な雷雨が彼女を襲った。
「そうだった、この時期は夕雨が降るんだった」
長らく故郷を離れ、数年に一度、冬至祭りに帰るだけだったモリーは、この辺りでは夏の終わりのこの時期になると夕雨が降ることをすっかり失念していた。雨具はなく、当然ながら森の中に雨宿りする場所もない。町に戻るよりも薔薇荘に急いだ方が早いと判断した彼女は、そのまま駆け足に近い早足で先に進んだ。
十分ほど歩くと、記憶にある通りの薔薇荘が現れた。薔薇荘は築百年ほどの木造建築で、この辺りでは評判の家だった。モリーが少女だった頃はその名に相応しく、家の周囲や中庭に多くの薔薇が植えられていた。だがモリーが十四歳の時、薔薇の棘で手に怪我をした叔母が、町で雇った人間を使って全て抜いてしまったのだ。以後、二度と薔薇荘に薔薇が植えられることはなかった。薔薇を全て抜かれた薔薇荘は、モリーの目には羽根を全て毟られた小鳥も同然だった。それでもこの家を訪れる人々は、薔薇荘の美しさを絶賛したのだが。
家を見た瞬間に、彼女の心臓は大きく跳ねた。雨の中急いでいた足も、一瞬止まった。
しかし轟く雷鳴に、彼女は我に帰った。この雨の中、いつまでも外にいる訳にはいかない。彼女は家まで駆け出し、ポケットに入れていた鍵で玄関のドアに掛けられた錠を開けると、滑り込むように中に入った。
* *
そして、彼女が目にしたものは――。
* *
重く軋む音を響かせて、玄関のドアが閉まった。モリーは、いつもの癖で後ろ手でドアを閉めてしまったのだろうとしか思わなかった。それ以上は何も考えなかった。濡れた髪と服が重く、蒸れた靴の中も不快だったので。
「おかえりなさい。まぁ大変、随分と濡れてしまったのねぇ」
久しく聞いていなかった祖母の温かい声に、モリーはずぶ濡れの髪をかき上げ、顔を上げた。
そして、短く悲鳴を上げた。
そこに立っていたのは、彼女を育ててくれた優しい祖母ではなかった。
着ている服も、背格好も髪型も、確かに記憶にある祖母のもの。しかし、その顔は祖母に似ても似つかないどころか目鼻の判別すら付かず、真っ黒に朽ちた木材さながら。それは、知人や家族に擬態して家に入り込む悪霊の類だった。
モリーは思い出した。祖母が四年前に亡くなったことと、祖母が亡くなる前日に残した遺言書によって、自分がこの家を相続したのだということを。
――このくらい、大した悪霊じゃないのに!
唱え慣れたはずの祈りの言葉が、なかなかすらすらと出て来ない。
せめて気迫だけでも負けまいと悪霊を睨みつけ、人差し指をまっすぐに突き付けたまま、上手く回らない舌で祈りの言葉を唱えた。
祈りの言葉を言い切った瞬間、ようやく悪霊の姿が腐木のようにボロボロと崩れ、跡形もなく消えた。
どうも調子が良くない、雨に濡れたせいで熱が出たのだろうか、と彼女がその形の良い額に手を当てた時。
台所の方から、甲高い悲鳴が聞こえた。まだ幼い、聞き覚えのある声だった。
「まさか、アリス?」
モリーは台所に向かって駆け出した。
台所には、七歳になったばかりの従妹のアリスの姿があった。アリスは床にべたりと座り込んだまま、しきりに短い悲鳴を上げながら、そこから逃げようと必死に手足を動かしていた。
「アリス、もう大丈夫よ!」
モリーがアリスを抱き起こしたが、アリスはモリーを見ず、震えながら台所の中心を指差した。
「は、灰色の、灰色の女の子が……!」
台所の中心に置かれた作業台と流し台の間には、髪も肌も灰色の、少女の姿をした何かが立っていた。
モリーはそれを直視しないよう、灰色の姿が見えた時点で軽く目を逸らした。その灰色の悪霊の、強膜と虹彩と瞳孔の境も分からない漆黒の深淵のような目を見つめてしまうと、自力で立つことも目を逸らすことも出来なくなると知っていたからだ。
彼女は台所の中心を凝視したままのアリスの目を後ろから左手で覆い、右手でアリスの華奢な身体を抱き寄せ、その耳元に囁いた。
「落ち着いて、アリス。アイツのことは絶対に見ないで。大丈夫、目を合わせなければ、アイツはこっちに何も出来やしないから」
「……モリー。モリーなの?」
「そうよ。ただいま、アリス。よく頑張ったわね。一人?」
「アウロラが二階で片付けをしてるの。モリーが帰って来る前にお願いね、ってお母さんに言われて」
モリーは鍵を取りに行った時の叔母の様子を思い出し、舌打ちしたくなった。従妹のアウロラはアリスの姉で、歳はアリスと二つしか違わない。それなのにあの思慮の浅い叔母は十歳にも満たない娘二人をこの森の中の一軒家に放り込み、子どもたちだけで片付けるように命じたというのか。その間に自身は家で一人、呑気に食事などして、と。
「二階の、アウロラのところに行きなさい。ここは私に任せて。分かった?」
「……一人は怖いよ」
既に半べそをかいているアリスに、モリーは膝を折って目を合わせ、落ち着いた声で優しく言い聞かせた。
「大丈夫。アリスは強い子でしょ?」
「でも……」
悪霊に対処するためには、アリスを二階に避難させる必要があった。何しろ相手の力の源は子どもの悲鳴や泣き声なのだ。モリーがあと一押ししようと護りの指輪を忍ばせた右ポケットに手を入れかけた、その時。
再び、子どもの叫ぶ声が聞こえた。今度は二階から。アウロラの声だった。