5-5 エレーナの様子がおかしい|イヴァン
「エレーナは海が気に入ったのか?」
「うーん、上手く言えないけれど『気に入った』とは少し違う気がするわ」
レオネル様とアイシャ様の会話を聞きながら僕はエレーナを見る。エレーナは日を追うごとに海を見ている時間が伸びている。
この別荘にきた日の夜。
隣のエレーナの部屋のベランダの扉が開く音がして、まだ起きているのかと思いながら僕も起きてベランダに行った。眠くなるまで話をしよう。そんな暢気な気持ちは、欄干から身を乗り出して今にも落ちそうになっているエレーナを見た瞬間に吹っ飛んだ。
急いで隣のベランダに飛び移って体を引っ張りエレーナは無事だったが、エレーナは自分がどんな状況だったか全く分かっていなかった。エレーナはただ海を見ていたと言った。
海に何かいるのかと思って見てみたが特に何もなく、隣のエレーナを見ると彼女の目は光を失っていた。そして「こっちだって……姉様が……」と呟いた。
波の音の聞こえ方は人それぞれだとしても「姉様」とは?
「アイシャ様、つかぬ事をお聞きしますがエレーナが『姉様』と慕うような人物はいますか?」
アイシャ様は思い当たる節はないと答えた。
「憧れの女性ではないか? シャリーン嬢はアイシャを『お姉様』と呼んでいるだろう」
そういう感じではない気がする。
「そういう人物がいるならエレーナは私やイヴァンに話したと思うわ」
アイシャ様が首を横に振る。僕もそんな人がいるなんて聞いたことがない。
「レオ、あなたの隠し子なんじゃない? その子が『お姉様よ』といってエレーナに近づいて、エレーナは優しい子だから私に言えずにいるとか」
「隠し子なんているか!」
実は僕もその線は考えた。
「ハルトのことは隠していたじゃない」
アイシャ様の言葉にレオネル様はぐうの音も出なくなったが、とりあえず隠し子の件は脇に置いておこうと思う。有力ではない。両親から聞く限りお二人はいつも見てるほうが照れるような熱愛っぷり。レオネル様が浮気をなさるという線は一応消してもいいだろう、一応。
「「姉しゃまー」」
双子たちが駆けてきて話は一端終わりになった。エレーナはいつも通り双子と遊びはじめる。その笑顔もいつも通りだ。
「姉しゃま、海、行こー」
「行こー、海」
双子のおねだりにエレーナが戸惑った顔をこちらに向ける。本当はここに着いた次の日に海で遊ぶ予定だったがエレーナが倒れたことで延期し、それからやや波が荒れている日が続いているのでアイシャ様は海に入る許可をまだ出していない。
「母様」
エレーナの困ったような顔にアイシャ様も困った顔をする。双子にとって目の前に見たことがない遊び場がある以上、あそこに行かないという選択肢はないことがお分かりなのだろう。
「いいんじゃないか? いまは俺もいるし、俺たちがいれば何があっても何とかできるだろう」
そう言ったレオネル様をアイシャ様が胡乱な目で見る。
「……なんだ、その目」
「不幸体質のレオがそう言うときって何かしらある気がするのよね」
「そう言われると……そんな気がしてきた」
レオネル様の気弱な発言にアイシャ様は溜め息を吐く。
「フラグ回収でもいいから、何が起こるか見てみましょう。今のままでは何もできないものね。それでは全員水着に着替えて、20分後にここに集合ね」
ん?
「何で水着? 海辺を散歩するならこのままの格好でもいいだろう?」
レオネル様が僕の頭の中を代弁してくださった。
「海辺でのハプニングと言えば『溺れる』が一番可能性が高いでしょう? 誰が溺れてもいいように事前に水着を着ておく、それがリスク管理よ」
「お前、着衣水泳やっただろう」
「これだからお坊ちゃんは。海水でベトベトになった服を洗うのって大変なのよ? 溺れると分かっているなら水着を着ておきましょうよ」
「決まってない」
「でも、あなたはレオよ?」
最もいいのは海辺にいかないだと思うが、そんなことを言えるわけがなく意気揚々と部屋に引き上げるアイシャ様とそれを追うレオネル様を僕は苦笑して見送った。そんなアイシャ様をハルトは尊敬の目で見ている。
「イヴァン、私たちも溺れてもいいように水着を着てきましょうか」
「なんか水着を着る理由が違う気もするけれどね」
◇
「確かに海が荒れているわね……そんなに風が強いようには感じないけど」
「そうだな……ただ海のすぐ傍なのにマリナが少ない気がするな」
空は晴れているけれど海で遊んでいる者はいない。せいぜい岩場から釣り糸を垂らしている人たちがいる程度。海水浴シーズンのビーチとしては異様な雰囲気である。
ハルトが海で二枚貝を採っていた子どもたちに話を聞いたところ、波の高い今日のような日は人魚に連れていかれるから海に入ってはいけないと親にきつく言われているらしい。
「「人魚か……」」
ハルトの報告にレオネル様とアイシャ様が苦笑いをする。
「人魚は肉食だもんねえ」
「マックスが一度齧られかけたなあ」
怖っ。
人魚が知能が高い上級の魔物で、歌で人間を誘い出して捕食することは知識として知っていたが、身近でかじられかけた人がいると情報がリアルになる。
「そんなの素晴らしい歌だったのですか?」
「マックスは歌に聞きほれて落ちたんじゃないわ。人魚って基本的に美女、着衣の習慣がないから人間の上半身は裸。大胆にさらけ出された胸に見惚れて騎竜から落ちて、襲い掛かられて齧られかけたのよ」
「マリナがいなかったら海中に引き込まれ、骨まで食べて行方不明になるところだたな」
海辺の町で行方不明になっても捜索は行われない。人魚は群れで行動しているため、行方不明の理由が人魚だったら捜索者が襲われるなど二次被害の恐れがあるからだ。
「それに人魚は人間を恨んでいるでしょうしね。復讐するぞって気持ちが半端ないんでしょう」
音に苦さが混じるアイシャ様の声。全員の目が向けられたアイシャ様は肩を竦める。
「人魚は知能の高い厄介な魔物だけれど、個体数が少ない希少種でもあるわ。それは人間が乱獲したからよ」
通常魔石は魔石は魔物の心臓ともいえる魔核が結晶化したものだが、人魚は涙として魔石を落とす。通称『人魚の涙』は青よりも青いと言われるほど美しいもので、その希少性から小粒でもかなりの高値で取引される。
観賞用に捕らえた人魚はわざと苦痛を与えられ、人魚は泣くたびに命を削られ、最終的に人魚が衰弱死してしまう例がとても多かったと聞いている。
そう言えば、人魚の涙って何かの薬の……。
「エレーナ!」
不意にレオネル様が声を上げる。
まさかフラグ回収?
慌ててレオネル様の視線を追えば、さっきまで傍にいたはずのエレーナが波打ち際に向かっていた。足取りはフラフラしている。あの夜のようだと思ったときには僕はエレーナに駆け寄っていて、力いっぱい腕を引いて波打ち際から離す。
「どうしたの?」
やはり今回も自分のしたことを分かっていない。キョトンとした顔をしている。
「危ないじゃないか」
「危ない? そんなことない、大丈夫よ」
そういって海を見るエレーナの目は僕には異様に見えた。ここが北部なら分かる。でもエレーナは初めて東部にきたと言っていた。それなのにエレーナの目に浮かぶのは哀愁、愛おしいものを見ていような目で海を見ている。
何かがおかしい。
僕がエレーナの腕をつかんだ手に力を籠めたとき――。
「呼んでる」
エレーナがそう呟いた瞬間、波が大きくせり上がった僕は咄嗟にエレーナを抱きしめる。
「エレーナ!!」
アイシャ様がエレーナの名を呼ぶ声が聞こえた。
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