5-3 母上は邪魔をする者を赦さない|レオンハルト
――― 楽しい休暇の始まりになりそうですわ。
母上がそういう『楽しい始まり』の鐘を持って馬車から降りてきたのは恰幅のいい男。2日前からその存在に気づいていたくせに『いま気づきました』的表情は流石の一言だし、妖精のような淑やかな立ち姿からは想像できないほど母上の目は猛禽類のように猛々しい。
つまり、そうとうご立腹だということ。
なにしろこの休暇は母上が将軍になってから初めて取得した長期休み。だからこそ陛下も「2ヶ月はちょっと取り過ぎじゃない?」と言いつつも承認してくれたこの休み、母上はそれはそれは心の底から楽しみにしていた。
マックス小父さんのところに連日押しかけは道中の観光スポットを根掘り葉掘り聞いていたらしい。そのおかげでとても充実した道中だった、流石は母上。別荘周辺については事前にゲートを使って店など現地情報をリサーチしていたらしい。
そして母上はエレーナ姉さんと水着も買っていた。
水上戦もあるということで母上は華麗に泳ぐ技術も騎士団で習得なさったが、その際にきていたのは軍服。着衣水泳だった。だから母上が水着を買うのは人生初めてとのこと。
ここで父上と母上は似合う似合わないの喧嘩をした。母上に似合わない水着があるわけがない。単に父上の嫉妬。父上は母上の水着姿を他の男に見せたくないだけだなのだ。
「ストリンガー侯爵、お久しぶりです」
この国では挨拶は目下の者からするのがマナー。偉大なる将軍の母上、侯爵、そして伯爵だから一番最初の挨拶は伯爵になる。
「やあ、伯爵。突然来てすまないね」
全くすまなく思っていない態度だでマーウッド伯爵に挨拶したあとストーカー侯爵は母上を見る。母上もストーカー侯爵を見る。二人の無言の譲り合いが始まる……というか、侯爵のこの態度はあり得ない。お前が先だと声を大にしていいたい。
大方こういう小者は母上が孤児だったことを理由にして蔑んでいる。
そんなこと母上には一切責任がないことであるし、いまの母上はスフィンランの愛し子でウィンスロープ公爵家の後継ぎもしっかり生んで揺らぎなど一切ない完璧な公爵夫人だ。女神と見紛うほどの美しさをもつこの唯一無二の存在に、恰幅のよさだけしか勝てない小者が勝負を挑むとは笑ってしまう。
「ハルト、母様への賛辞がちょっと鬱陶しい」
「エレーナ姉さん? 俺、声に出てた?」
「目を見れば分かるわ」
目……確認のためイヴァン兄さんを見たら苦笑で肯定された。姉さんに鬱陶しい思いをさせてしまった、反省しよう。
「ご無沙汰しております、閣下」
「そうですわね、ストーカー侯爵」
先に折れる羽目になった上に母上にストーカー呼ばわりされて侯爵の笑顔が引きつる。
「ごめんあそばせ。2日ほど前から薄気味悪い馬車にストーカーされていて、つい、うっかり」
「……ストーカー…………」
「美人や可愛い子どもたち変態ホイホイになることは仕方がありませんわ。黒のに追い払わせようとも思ったのですが、街中では迷惑になるので止めましたの」
黒のをけしかけようとしたのは母上で、それを止めたのは姉さん。この男は思慮深く心優しいエレーナ姉さんに深く感謝すべきだと思う。
「ハルト、鬱陶しいわよ」
「はーい」
「“くろの”?」
ストーカー侯爵は黒のを男の名前だと思ったらしく俺とイヴァン兄さんを見たが、「違いますわ」と母上の声がやんわりと割り込む。
「好奇心旺盛で可愛らしいところは同じですが、あの子ですわ。やっときたようです」
母上の指さす先を見たストーカー侯爵が顔を青くする。こちらに飛んでくる黒竜。見慣れた俺でも迫力満点、とても美しい。黒のはまた何かを咥えている。
「また拾ってきたのね」
「また?」
ストーカー侯爵が首を傾げると同時に黒のが上空5メートルの至近距離で止まり、首を大きく下げてベッと口に咥えていたものを落とした。2メートルとちょっと落下した男は這ってストーカー侯爵のもとにいこうとした。やはりこいつが雇い主か。
「く、くるな! 護衛、何をしている!」
ストーカー侯爵が喚き、黒のに咥えられてきた男も騒ぐ。小者たちの煩さに母上が顔を歪めると同時に黒のが鳴く。静かになった。流石だ。
「お気をつけて。使役契約を結んだ竜は主人に忠実ですが竜本来の性格はそのままですからね」
母上が手を伸ばすと、黒のはぐるぐると喉を鳴らしながら撫でられる。
「可愛い子なのですが、気に入らない奴をどつき回して甚振るのが大好きなのです。本当に誰に似たのかしら。まあ、そういうことなので、お静かに」
「「は、はい」」
黒のの性格の元祖、おちゃめな母上が可愛く微笑む。
「ストーカー侯爵、マーウッド伯爵に御用があってきたのでは?」
正しい翻訳。『用事があるはずよね? なかったらどうなるか、よく考えて答えなさい』。
「こ、こちらをお持ちしました。う、うちで行われる、その、や、夜会の招待状です」
そう言って封筒を出したストーカー侯爵に母上は笑顔で舌打ちをする。分かります、どつく口実がなくなりましたからね。
しかしストーカー侯爵の言葉にマーウッド伯爵が首を傾げる。
「このようにスフィンランの伯爵様をお迎えする日と近かったので、欠席とお返事させていただきましたが?」
運、実際にこうして俺たちは来ている。侯爵よりも母上を優先する伯爵の行動は正しい。
「こ、こちらの手違いのようだな。忙しいときに申しわけなかった」
マールウッド伯爵が間に入ったことで母上の圧が薄れ、ストカー侯爵はだいぶ体制を立て直した。そして、この先の話の流れは俺でも手に取るようにわかる。
「閣下はご都合はいかがでしょう。もし宜しければ……「宜しくないので遠慮しますわ」……あ」
母上が会話をぶった切る。
「あの、お時間のあるときに……「全くありませんわ。子どもと遊ぶのと夫に構うのでとても忙しいので」……あ」
父上、構っていただけるようですよ。よかったですね。
「あの、真珠にご興味は?」
「ありませんわね」
興味はないそうだが似合いそうだな。
「それでしたら、あんこは?」
あ……母上はその『あんこ』なるものに興味を持っていた。聞いた相手も伝聞の伝聞みたいな感じで要領は得なかったが、豆を甘く煮て作ったものらしい。とりあえず分類はスイーツ、母上の大好きなもの。その『あんこ』を食べてみたいと母上はここ数日ずっと言っていた。
「その招待状、あまっているならいただけるかしら?」