3.水底は思ったよりも下にある|アイシャ
反射的に抱きついてしまった……き、気まずい。
触れ合ったところからレオの体温が伝わってくることぼーっとしそうな自分を叱咤する。元夫婦だったころには散々触れた体温じゃない。いや、最近も触れたじゃない。
「おや?」
割り込んできた声に腕を離すきっかけを与えられ、パッと離れる。いいタイミングよ、ミゲル子爵……いや、こいつが来たせいよね。それをレオが私に教えようと後ろを指さしたから、私が驚いてあんなことになったのよね。
「ウィンスロープ公爵、横恋慕なさるなど随分と稚拙な仕返しをなさるのですね」
……ん?
ミゲル子爵、妙な勘違いをしているぞ……でも、まあ、うん、『仕返し』か。
目をレオに向けると、私の思惑を察したレオの目が『えー』という。でもそれのほうが楽なのよ、協力してよ~。
「仕返し、とは?」
『心当たりありません』って顔でレオが首を傾げてみせる。レオもそうだけど私もそう、このくらいできないと将軍じゃないって言うのよね。
なんだって将軍職に腹芸や表情筋の柔軟性を求めてくるのかしら。魔物にそんなものはいらない。腹芸も表情筋も対人間。将軍職の仕事の半分は、こうやって筋違いな嫉妬をする奴らへの対応。魔石が採れる魔物と違って人間相手は勝っても得るものが特にないからただ面倒。
「私の妻は閣下の元奥方ですからね」
「ああ、2番目の元妻のことを言っているのか」
2番目の元妻。やや説明気味だが、ミゲル子爵はカレンデュラ夫人の夫。ついでにカレンデュラ夫人は数日後にまた元妻になる予定。30歳過ぎても『ご令嬢』になるのかな?
「カレンデュラは閣下ではなく私を愛していたんですよ」
……え?
思わずレオを見る。レオは目線で『仕方がない』と肩を竦めてみせる。嘘……ミゲル子爵って「お前は愛されてなどいない!」とか「間男はお前のほうだ!」とかやりたいタイプの男なの?
面倒くさっ!
15年前、サンドラ夫人やカレンデュラ夫人がいくつもの嘘を連ねて作り上げた嘘は完璧だった。
お二人とも、嘘を作って満足してはいけません。作った嘘を完璧なままに保たなければいけません。金でも体でも欲での繋がりなどすぐに切れる、出し惜しみしてはいけません。それができないなら嘘を吐いたもの全員を殺すべきだった。そうすれば誰も嘘を暴けなかった。
まあ、もう遅いか。
中途半端に善人ぶったせいで『エレーナ』が嘘を連ねた糸を切り、まるで真珠が転がるように1粒1粒どんどんと転落している。救うか捨てるかは私たち次第。
ミゲル子爵はカレンデュラ夫人の元浮気相手。
つまりレオとは夫と間男の関係だけど、あのプライドの超高いカレンデュラ夫人が進んでミゲル子爵と不倫していたとは思えない。あの裁判で私が書いたとされる手紙を鑑定した者はミゲル子爵が手配していた。そんなミゲル子爵との不倫なんて、カレンデュラ夫人にとっては嘘を自ら暴露するようなもの。
レア王妃やフウラ様を選んだサンドラ夫人に比べるとカレンデュラ夫人はまだまだと言いたいところだけど、そのカレンデュラ夫人を選んだのはサンドラ夫人だから何とも言えないわね。
あの裁判の嘘が明るみに出たことでカレンデュラ夫人は風前の灯火。その夫人に騙されたって態でミゲル子爵は被害者になろうとしているけれど、それを信じるおめでたい奴はいない。
カレンデュラ夫人との不倫が明らかになった時点で、つまりとっくの昔に子爵の運命は決まっていた。
「出ていってもらえますか、彼女は私を選んだのですから!」
おめでたい上に劇場型、手がつけられない馬鹿だわ。馬鹿に申し訳ないくらいの馬鹿だわ。
「誰がお前を選んだんだって?」
……ん? レオ、どうして応戦するわけ?
「そこの彼女、チェッコリ商会のシャイアン会長代理のことです」
「……………………誰だって?」
レオがこっちを見る。私は笑う。溜め息を吐くレオ、賢くって助かるわ。
「誤解だ。私はここで休んでいただけ。あとから来た彼女とは、マナーとして少し話をしただけ」
「……そうでしたか」
「誤解が解けたなら失礼する。失礼、シャ……シャイヤン会長代理」
惜しい! 『シャイヤン』ではなく『シャイアン』。最後に噛まなければ満点な対応だった。
「お待ちください。あの……本当にウィンスロープ公爵様なのですか? あの火の、アイグナルドの将軍の、あのウィンスロープ公爵閣下! ……あ……ですか?」
会えて興奮している一般人の振り。
シャリーンを参考にしてみたの、どう?
「……はい」
ほらほら、『面倒です』って顔をしないで。ちょーっと巻き込むだけじゃない。
「ご、ごめん……あ、申しわけありません。わ、私が代理を務めるチェッコリ商会の代表はスフィンランの将軍様で、私たちは北部を拠点に魔石の取り扱いをしようと思っております」
「……魔石?」
「はい。ここだけのお話ですが……「シャイアン会長代理、話が違う!……ミゲル子爵様?」
よしっ!
「その話を私に持ち掛けたのは貴女のほうではないか」
「でも……」
この男、自分の弱みと言える嫌がることを隠さないから楽だわ。
「ウィンスロープ公爵のほうがいいので」
「なっ!」
二の句がつげない、を辞書で引いたらこの顔になるはず。
「公爵家ですし、資産家ですし、将軍様なので社会的信頼度は段違いです。スフィンランの将軍様が採った魔石、そんな重要なものを扱う相手ですよ? 初期投資額もかなりなものになりますし……」
子爵家では不安、という念を込めてミゲル子爵を見る。
「で、でも、ウィンスロープ公爵家は商会をお持ちではありません」
「うちなら明日にでも商会が作れる、必要ならいくつでも」
レオならそう言ってくれると思った。
普通なら信用のない商会なんて危なっかしくて土俵に上がれないけれど、相手は瀕死で干からびかけた商会だからね。
ミゲル商会は子爵の祖父が設立したもので、初代は才能豊かで堅実な経営者だった。2代目はそこまで才を持たなかったが父親の苦労を見ていたのでそれなりの経営ができていた、しかし3代目のこの男、典型的な苦労知らずの坊ちゃんだった。
この男がカレンデュラとやらかしたことで先代子爵は数年前に亡くなっている。まだ亡くなる年齢じゃない。息子のしでかしたことを推察し、心労によるストレスで亡くなったに違いない。
父親というストッパーがなくなったミゲル子爵。
豪奢な生活を送る子爵によって商会の資産は食い潰されていった。信用が落ちてこれまでのツケの支払いの催促がきたのと、エレーナの登場が同時期だったため、商会の瀕死はカレンデュラ夫人のせいだと決めつけた。
かつては最愛の妻だったかもしれないが、数年前からミゲル子爵は平民の女性を愛人として囲っている。離婚も早々に決断。他意はないけど、男って離婚を決めるの早いわよね、他意はないけど。
商会の瀕死の原因はカレンデュラ夫人だけではないから、カレンデュラ夫人を切り捨てても商会は持ち直さない。計画的に考えられない頭の悪いこの男、一獲千金を狙って怪しい取引に次々と手を出している。瀕死、加速。だからこの男は北部の魔石の販売権がどうしても欲しいのだ。
「このように魅力的な女性と出会えるならいくら投資しても惜しくないな」
レオさんや、手慣れてないかい?
「王都には魅力的な男性がとても多いのですね。どの方も素敵で、実は『ここだけの話』は他にも数人してしまいましたの」
「大丈夫ですよ。ここだけの話が『ここだけの話であるわけがないこと』は少しでも知性がある者なら分かるはずだ。なあ、ミゲル子爵」
レオの問い掛けにミゲル子爵はぼんやりしている……んもう、ぼんくら!
「シャイアン会長代理との時間を終えるのは名残惜しいが、今すぐにでも商会を設立しないと。誰かに先を越されては大変だからな」
ミゲル子爵がハッとする……やっとわかったか、ぼんくら!
「シャ、シャイアン会長代理は今夜はどちらにお泊りですか?」
「ここから直ぐですわ」
「ああ、レミニセンスですね」
レミニセンスとは上流階級に属する者がこぞって利用するホテルの名前。
「明日、必ずお伺いします。お会いしていただけますか?」
「それでは……朝の9時でいかがですか?」
「分かりました」
……分かっていない奴ほど『分かっている』というのはなぜなんだろう?
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