3-17 終わりにしよう|レオネル
目が覚めたら、やってしまったと思うんだろうな。
眠るのが惜しくてずっとアイシャの寝顔を見ていた。そして寝苦しそうに体を回し、俺に背を向けたアイシャの姿に覚醒は間近だと感じて俺は目を閉じる。すぐにもぞもぞとアイシャが動き始め、寝惚けた振りをして腕に力を籠める。
当然のことだが、ずっとこうしているわけにはいかない。息をひそめて問題を先延ばしていることは分かっている。でも、もう少しだけ。どうせアイシャも状況整理と言いながら、言い訳をまとめるのに時間がほしいだろう。
闘いのあとの高揚感で。
酒のせいで。
それで十分な言い訳になるだろうに、アイシャのことだから俺に襲い掛かったことをどうしようかと悩んでいるのだろう。どうやら記憶は飛んでいないようだ。
薄っすら目を開けて、白い肌に浮かぶ赤い花に苦笑する。俺も直ぐにその気になったのだから、仕掛けたことなど気にしなければいいのに。酔った女をこれ幸いと抱く女なんです、俺は。アイシャ限定だと言い切れるけれど。
それにしても、悩むな。俺を起こさないためかジッとしているけれど、全身から『どうしよう』と苦悶する声が聞こえる。こんなに悩む、その理由は……誰かいるのだろうか。
抱いた感触は久し振りな感じはしたし、痛みを堪えるような素振りもあったから勝手に誰もいないと思っていたけれど、そっち方面が淡白な奴もいるじゃないか。アイシャ相手に淡白とかあり得るのかって思えるけれど、そういう奴だっているだろう。これだけいい女だ。恋人がいてもおかしくない。いや、恋人がいたら祝福しようとしていた夕べの気持ちはどこにいった。
積極的だったのは、そいつへの不満? もしかして俺はそいつの代わりとか……最悪だ。
元夫との睦み合いはカウントしないとか?
そういえば離婚訴訟中の夫婦は過去の良かった思い出や未練が刺激されてこういう関係になりやすいと聞いたことがある。
「どう考えたって浮気だ」
アイシャの声にドキッとする。その声には後悔が滲んでいる……恋人が既にいるのか?
「浮気って?」
「ひええっ!」
間抜けな悲鳴が上がる。アイシャの体に回している腕から心臓の振動を感じる、すごい音。そんなに動揺するわけ? そいつに悪いから?
一夜の過ちにすればいいじゃないか。闘いで昂ったとか、酒のせいとか言い訳はあるじゃないか。必要なら俺も言ってやるから。そいつに、ちゃんと言うよ。
「なあ……」
アイシャの腹を思わせぶりに撫でる。ここでのこと、必要なら洗いざらい話してやる。
「誰かいるのか?」
教えてよ。
「随分と久しぶりのような感じだったけれど、付き合い始めとか?」
どんなやつ?
「それともかなり淡白なのか?」
そんなやつより……そんなやつ、いないで。
「何を言って……」
「教えてくれ」
ぎゅうっと力を込めて抱きしめる。答えを知りのか、知りたくないのか。
「憶測で判断したくない」
それを、いまになって言う俺は狡い。華奢な肩が僅かに震える。……泣かせて、ごめん。
「いないわ。あなたは?」
いない……そっか。俺?
「いない」
アイシャの体からちょっと力が抜けた。ねえ、俺みたいに答えを聞くのに緊張した?
「それなら良かった、女の恨みは怖いもの」
そっちかあ、そうだよな。
「ねえ……」
「なんだ?」
言いかけてやめるなんてアイシャらしくない。
「なんでもない。あとで自分で調べるから」
「……ああ」
そういうこと。良かった、流石にいまここであの女たちの話なんてしたくない。サンドラは離宮に実質軟禁状態、カレンデュラ夫人は近いうちに子爵と離縁して実家に戻る。あれの実家は金銭的に苦しい状態だから、直ぐに彼女を裕福な商人に売り飛ばすと聞いている。
エレーナの将来にあの女たちが影を落とすことはない。
アイシャはもう未来を見ている。
「エレーナのことなんだけど、ありがとう」
「どういたしまして」
やっぱりな、予想を裏切らない女だ。抱きしめる腕に力を籠める。苦しめ、この……って、八つ当たりだな。
「可愛い子でしょう?」
「ああ。君によく似ている」
「あら、私って可愛い?」
「可愛いさ。昔も、いまも、世界で一番君が可愛い」
アイシャの体がガチっと固まる。驚いたか、このくらいなら照れずに言えるようになったんだぞ。
「お世辞の一つも言えるようになるとは」
可愛くない奴。
「やっぱり君は2番だ。1番はエレーナ」
「はいはい」
笑っている……うん、アイシャは笑っている顔が一番可愛いんだ。顔が見たい。
「ねえ、苦しいわ」
「ごめ……」
腕の力を緩めた瞬間、アイシャが体の向きを変えて俺と向き合う。アイシャの夜明けの空の色をした目の中の俺は情けない顔をしている。
「アイシャ、俺は」
アイシャの指が触れて唇の動きを封じられる。封じられないと言ってしまう。ごめんな、未練がましくて。
「ちゃんとお別れしましょう」
うん、その寂しそうな顔でもう十分だ。
「君は本当に俺の予想を裏切らないな」
「いい意味で? 悪い意味で?」
別れを突き付けられたんだ、悪い意味に決まっているだろう?
「両方で」
大好きな君のままでいてくれたことが嬉しい。
「俺が嫌だと言ったら?」
「あなたは優しいからそんなこと言わないわ」
狡い女だ。俺が驚くたびに悪戯が成功したように笑う君の顔、大好きだったよ。
「クソッ」
アイシャの眉尻が下がる。困らせている。
「レオ?」
……分かっている。
「狡い女」
「嬉しい、狡い女になりたかったの」
記憶の中で満足しないでくれよ。
「さようなら、大好きだったわ。窓の外を見たまま100を数えて」
「さようなら、愛していたよ」
愛してる。
「悪いけれど50のうちに出ていってくれ」
笑うアイシャを見納めて、窓の外を見る。
「1、2、3……」
空が明るくなり始めた。世界で一番愛おしくて憎らしい女の瞳の色が薄れていく。
「98、99……100」
白く輝く世界は両手に覆われて見えなくなった。
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