3-9 幸せな夢の結末|アイシャ
「母様、起きて」
その声に目を覚ますとエレーナがいた。
「……夢?」
小さな声だったのにエレーナには聞こえたらしく、朱色の瞳に好奇心が満ちる。もっと深い赤だった元夫の目を思い出す。
「いい夢だった?」
「さあ、どんな夢か覚えていないの」
エレーナの顔に見るからに『残念』という字が浮かぶ。
「朝ご飯できているから早く食べにきてね。先に……」
「エレーナ!」
部屋から出ていこうとしたエレーナを呼び止める。
「吃驚した、なに?」
「あ、いや、ごめん……」
大きな声を出してエレーナを驚かせてしまった。そういう私も大きな声を出しちゃって驚いている。
「なに?」
「……今朝も美人ね」
エレーナがおかしそうに笑う。
「ありがとう。母様もため息を吐きたいくらいの美人よ、涎が出ているけれどね」
「え?」
慌てて口元を隠す私にエレーナがハンカチを渡してくれる。
「今日はいい天気なの。洗濯するから、早く起きて着替えて」
「……うん」
揺れるエレーナの黒髪に、また元夫の姿が浮かぶ。アイツの夢でも見ていたのだろうか……未練がましい。
「着替えよっと」
ベッドから起きて大きく伸びをする。微かに硫黄が混じる石造りの砦の独特の匂い、北部で採れるハーブで作った石けんの香りはいつもの私の部屋の香りだ。
「母様、涎出して寝てるなんていい年して恥ずかしいよ」
敷かれていた生成りのシーツをはがしたエレーナが涎の痕に呆れている。
「ケーキの夢でも見ていたの?」
ケーキ……ドクリと心臓が大きく音を立てる。なに?
「ケーキ……ではなかった、うん、なかった」
そうよ、ケーキの夢なんて見ていない。たったいま食べたいって思っただけだわ。
「ケーキなんていうから食べたくなったじゃない。ちょっと行って買ってこようかな」
「辺境伯の領都はちょっとの距離じゃないし、そんなにケーキばっかり食べると太るよ?」
「さっきも思ったけれど、女性に年齢と体形のことを言うんじゃありません」
「別にいいじゃない。見た目の年齢は20代だし、中身はもっと子どもだし」
「子どもに子どもって言われたくないわ」
「母様って私よりも子どもっぽいよ。偏食で甘いものと肉ばかり、もっと野菜も食べなきゃ」
「う゛う゛う゛」
両手で両耳を塞いでエレーナの説教を拒否する姿勢をアピールする。呆れた顔をするエレーナにふと違和感を抱く。
「そんな服を持っていた? レーヴェ様から頂いたもの?」
「似合ってる?」
そういうとエレーナは目の前でくるっと回ってみせる。ふわふわしていたスカートがふわりと浮いた。似合ってはいるけれど、臙脂の服なんてどうして着ているの?
見慣れないデザインだし……そう言えばあの子はこんな服をよく着ていたっけ。
「フウラ様から頂いたの」
「え?」
「まだ寝呆けているの? フウラ様、自分の友だちの名前を忘れてどうするのよ」
「いえ、覚えているけれど、どうしてエレーナがフウラ様を知っているの?」
話したことあるのか……だめだ、覚えていない。でもエレーナがフウラ様に会ったことはない。これは確かだ。
「この前、家族で遊びに来てくれたじゃない」
「家族で?」
「ちょっと、母様。どうしちゃったの? まさかヒョードル様のことも忘れてしまった?」
覚えている。でもヒョードルが家族で、いえ彼だけでも砦に来るわけがない。二度と会わない。その誓いはこの15年間ずっと守っている。
「あ、母様。またみんなと喧嘩したんでしょ」
「喧嘩なんてしていないわ。ちょっと、エレーナ、あなた……」
「そうだよね、母様がいつも喧嘩するのは父様だよね」
……いま、なんて?
父様?
誰が?
どうしてエレーナがアイツを父様なんて呼ぶの?
「ダメよ! ダメ、エレーナ!」
「母様?」
「あの男を父親だなんて……あなたを、あんな目に……」
驚き、哀しみ、屈辱、虚しさ、怒り。制御の感情が頭をかき回す。言葉が選べない。
「だめ、だめよ」
ただ駄目だとしか言えない。でも本当に駄目なの。もうあの惨めさを味わいたくなんてない。エレーナにも味あわせたくない。
「どうして母様がそんなことを言うの?」
「え?」
……どうしてエレーナは怒っているの?
「父様は母様が可哀そうだから私を母様の娘にしてくれたんだよ?」
「……なにを言っているの、エレーナ?」
理解できない私にエレーナが溜め息を吐く。
「父様は本当の子どもを流産しちゃった母様が可愛そうだから、お詫びにって私を母様の娘としてあげたんじゃない」
「何を言っているの? あなたは私の娘でしょう?」
「それはそうだけど、母様が本当に産んだわけじゃないでしょ?」
エレーナ?
「だって母様のあの子は死んじゃったじゃない」
喉が絞められた感じがして、ヒュウッと口から空気が漏れる。
「私はその子の代わりなの」
「そ、それならあなたを誰が産んだというの?」
何でこんなことを聞くの、私。私に決まっているのに。
「カレンデュラ様に決まっているでしょう、父様の奥様。私の本当のお母様」
なにを今さら、という顔をエレーナがする。
……あら? エレーナはこんな顔をしていたかしら。カレンデュラ様にどことなく似ている。
カレンデュラ様を最後に見たのは、新聞だった。白いウエディングドレスを着て、レオと手を重ねていた。貴族らしく微笑むレオの隣がよく似合っていた。レオはもう私の家族じゃない。私の家族はエレーナだけ。
「エレーナは……あなたは私の赤ちゃん、赤ちゃんなの」
「母様、何度も言わせないで。あなたは私を生んでいないわ」
ぐにゃりと視界が歪んだ直後、パッと赤く染まる。
「あの日、私は死んだもの」
「ひっ」
真っ赤な世界でエレーナが持っていたシーツを広げる。そこには真っ赤な血がべっとりとついている。
反射的に退こうとして、一歩下がった足がびちゃりと生温かいものに触れた……血?
「ほら。母様の本当の子どもはそこにいるわ」
エレーナが私の足元を指さす。
見たくない。見てはいけない。見たくないって思っているのに、私の首は勝手に動く。
足元に広がっているのは血の池。
そこに浮かぶのはこぶし大のとても小さな頭蓋骨。
「いやあああああ‼」
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