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溺愛のススメ  作者: 桜 祈理
卒業後

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58 怪しい

「というわけで」


 帰ってきてから早速先輩に花梨さんの話をすると、先輩も驚いたりショックを受けたり嫌悪感を露わにしたりと忙しかった。

 特に小泉さんという人が故意に流した悪意のある噂に関しては、それをそのまま信じた自分たちにも非があるとちょっと落ち込んでいた。



 ちなみに、私が帰り際「これから『花梨さん』って呼んでいいですか?」と聞くと、花梨さんは何故かぽっと頬を染めてうれしそうに頷いていた。

 人の悪意に長いこと晒され続けた人は、人の好意にはあまり慣れていないのかもしれない。



「私が思うに、噂ってほんと当てにならないものだよね。ほら、瞳子さんのときも、あの人の彼氏が噂では先輩の親友ってことになってたじゃない?」

「あー。あれな。全然違うのにな。そういえばお前も、忍のことで二股かけてるとか手玉に取ってるとか悪女呼ばわりされてなかったか?」

「あ、そうだったそうだった。だからさ、そこに悪意がなくても、悪意があるならなおさら、そういう噂には尾ひれや背びれがついて本当のこととは程遠くなるということがよくわかりました」

「うむ。俺も反省した」

「あと、見た目だけでその人の中身を判断するのも良くないと思って。遊んでる風に見えるし実際本人もそこは否定しないけど、それだって過去を振り切ろうとしてるだけなんだよ、きっと」

「そうだな。それほど好きだったんだろうな、その人のこと」

「うん」


 花梨さんの報われなかった恋を思うと、気持ちの持っていきようがなくなって俄かには言葉が出てこないけれど。


 誰もかれもが幸せな恋ばかりしているわけじゃない。

 今自分が幸せだからこそ、この幸せは奇跡に近いことなのだと忘れずにいようと思った。





 それから、先輩の研究室の雰囲気はだいぶ変わったらしい。


 水無瀬さんの前では素直に振る舞うようになった花梨さんを見て、夏目さんや大我さんは我が目を疑い、何があったのかと訝しむようになった。

 その上、何かにつけて突っかかってしまう花梨さんを水無瀬さんが諫めるようになり、先輩も花梨さんへの態度を改めると同時に「本当のこと」を夏目さんたちに説明したらしい。


 そうして、お互いに反省したり関係改善に努めたりしようとし始めた矢先のことだった。




「どうも、怪しいんだよな」


 その日のバイトが終わって私の部屋の方に帰ってきた先輩が、荷物を定位置に置きながら渋い顔をしている。


「何が?」

「前に早乙女の話に出てきた、甲斐ってやつがいただろ?」

「あー、はいはい」

「あいつが怪しいんだよ」



 先輩の話によると、甲斐さんとあの小泉さんはそれでも一度つきあったりしたらしいけど、結局別れてそれっきりになったそうだ。


 実はそのあとも甲斐さんは何かにつけて花梨さんへのアプローチを続けていたらしく、そのたびに花梨さんもうまくあしらっていたのだけど。


「甲斐の所属する研究室って俺たちの研究室の向かい側にあるんだけどさ、なんかあいつを見かける頻度が最近増えた気がするんだよな。うちらの研究室の中を窺ってる気配もあるし。早乙女に聞いたら、ここんとこやたらLINEが来て困ってるって」

「やだ、何それ」

「甲斐もさ、顔だけだと結構イケメンなんだよ。だから常に誰かとつきあってる感じなんだけど、大我が言うには最近彼女と別れたばっかりらしくて」

「なに、それでまた花梨さんを狙ってるわけ? しつこくない?」

「あー、まあ、落とせてないから執着してんじゃね? って。大我が」


 何それ。キモい。

 口には出さなかったけどはっきりと顔に出てしまったらしく、先輩に「キモいよな」と返された。


「花梨さん、大丈夫かな」

「一応、水無瀬も早乙女を一人にしないように気をつけてるらしいけど、問題は週末なんだよな」

「あ、学科の合宿なんだっけ?」



 先輩の学科は、毎年前期の講義が終わるタイミングで慰労会的な意味合いも兼ねた合宿があるらしい。

 いくつかの研究室が合同で参加するいうことで、そこそこ大規模なものになるとは聞いていた。


「泊まりって、危険じゃない?」

「だよな。当然飲み会もあるしさ、飲んだ勢いでヤバいことにならなきゃいいなって思うんだけど」

「その甲斐さんって人、そういうヤバい人なの?」

「うーん、わからん。ただ大我はまあ、ちょっと強引だとか手が早いとかは言ってたな」

「手が早い」

「うん。手が早い」

「じゃあ、ダメじゃん」

「ダメだよな、うん」


 甲斐さんという人がどういうつもりで花梨さんにアプローチし続けているのかわからないけど、花梨さんという人間の本質を知った上での行動なのだとしたらもちろん何も言うつもりはない。


 でも、ちょっと派手めで「遊んでる」というイメージだけで言い寄っているのだとしたら、それも自分の欲望を満たすためだけなのだとしたら、ほんとに腹立たしい。


 花梨さんのピュアな気持ちを踏みにじらないでいただきたい。



「お前がプリプリしてもしょうがないだろ」


 面白いものでも見るように、先輩はほのぼのとした笑みを浮かべながら後ろに回って私を抱きしめる。


 先輩は、どうも私を後ろから抱きかかえるのが好きらしい。そしていつも、「落ち着く」と小さくつぶやく。


「何も起こらないように俺たちも気をつけるからさ」

「花梨さんが傷つくようなことだけは絶対に阻止してね」

「はいはい。全く、お前はいつから早乙女にそんなに懐いたんだ?」


 そう言って、先輩は私の体の向きをくるっと変えて、私の顔を覗き込んだ。


「なあ、俺もお前に執着してるけど、キモい?」


 少し不安そうな色がその瞳に滲む。


 私はいつもの先輩の真似をしてふっと笑ったあと、頬に手を伸ばした。


「私も先輩に執着してるから。おあいこじゃない?」


 にっこり笑って頬にキスしたら、先輩は蕩けるような顔で微笑んだ。


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