55 時間という概念
夏休みが近づいたある日、先輩の部屋でレポートをまとめていると、不意に先輩が言い出した。
「ゼミのみんなで遊びに行くことになったんだけど、乙葉も行かない?」
「ゼミのみんなっていつもの?」
「そう、いつもの」
一度先輩の大学に遊びに行ってからというもの、夏目さんや大我さんとはたびたび会っていた。
早乙女さんともあれ以来一度だけまた学食で会って、肉食女子の武勇伝の詳細をじっくりと聞く羽目になった。
刺激の強さに途中から先輩に耳を塞がれてしまい、後半どうなったのか聞けなかったのがものすごく悔しいんだけど。続きが気になる。
過去の対立や確執はすっかり水に流して、とはいかないまでも、同じゼミ生ということもあって早乙女さんと先輩たちは時折衝突しつつもそれなりの関係を築いているようだった。
そして、先輩のゼミにはもう1人女の人がいるらしい。
早乙女さんとは真逆のタイプらしいけど、早乙女さんのキャラが強すぎてこれまであまり話題に上らなかった。
「どこに遊びに行くの?」
「うーん、まだちゃんと決まってないけど、海かなー。大我が乗り気でさ、お前にも声かけたらって言われて」
真後ろに座る先輩が、私の肩に顔を乗せたまま話すから首元に息がかかってくすぐったい。
私がレポートとか勉強で忙しくて先輩の相手ができないと、先輩は私の真後ろに陣取って後ろから抱きかかえたまま、いろいろちょっかいを出してくるので困る。
鉄の意志で勉強を続行するときもあるけど、なんやかんやで結局なし崩しになって、そのままってこともある。ていうか、そっちの方が多い。
圧倒的に。
前に先輩に抗議したら、
「目の前に乙葉がいるのに、何もしないでいるなんて無理」
「可愛すぎる乙葉が悪い」
「2年以上我慢したんだし、乙葉に触りたいのを我慢する必要なんかもうないだろ」
などと怒涛のように反撃され、ぐうの音も出なかった。
そりゃあ、先輩に触れられて、甘やかされて、求められるのが嫌なわけはない。むしろこんなに幸せなことがあったんだなあと思う。
2年以上我慢したのは私だって同じだし、だから余計に先輩の甘すぎる愛情に溺れてしまっている自分がいる。
「でもさ」
私の肩に顔を乗せた状態のまま、先輩が続ける。
「海って言ったら水着じゃん? 乙葉の水着、俺は見たいけどほかのやつらに見られるのは嫌なんだよな」
「じゃあ、行かない方がいい?」
私はパソコンから目を離さずに答え、課題に集中しようとしてることをアピールする。
いや、先輩の言うことに反応しちゃってる時点で全然集中できてないってことなんだけど。
だって、先輩がずっと首元で話すから、くすぐったいんだもの。
ほんと、油断も隙もない。
「いや、一緒に行きたい。乙葉の水着見たい」
「見たいの?」
「向こうにいたときはそういうのなかったしさ。乙葉と大学生っぽいこととか、いろいろしたい」
先輩はすでにパソコンの画面から視線を外した私の頬に軽くキスをして、いたずらっぽくささやいた。
「レポートやんないの?」
「邪魔してる人がなに言うの」
「邪魔してないよ。俺は俺の欲望に従って、乙葉を愛でてるだけ」
「それを邪魔って言うんでしょ? 先輩が勉強してるとき、私は邪魔しないのに」
「だって、真面目な顔して勉強してる乙葉ってさ」
言いながら先輩の手は緩やかに私を拘束し、先輩の唇は私の耳を捕らえる。
「妙にそそるんだよ」
もう。
結局、レポートは中断の憂き目に遭った。
それから何日か後。
週末に先輩のゼミのみんなが集まることになり、私も便乗して顔を出すことになった。
みんなが集まるときは、だいたい夏目さんの部屋になる。
先輩と一緒に中に入ると、すでに大我さんはリビングのソファに寝転んで自分の家のようにくつろいでいた。
「乙葉ちゃんおつかれー。あれ、なんかますます可愛くなってない?」
「ふふ。どうも」
「大我、乙葉にちょっかい出すのはやめろ。この世から消えたくないならな」
「伊織が怖いよー」
初めて会ったときも、うっすらというよりはもうちょっと濃い感じで気づいてはいたけど、大我さんは相当チャラい。
いくつかのサークルを掛け持ちしていて、顔が広くて調子が良くて、女子に優しいから人気もある。
「いろんな子と仲良くしたい」と言っていたのは本当らしく、特定の彼女は作らないけど多分いろいろと経験もあって、手慣れている。
言ってみればそういう方面では先輩と真逆のタイプなんだよなあ。
なんで仲良くなったのか、とても不思議。
一方の夏目さんも、第一印象通りの「いい人」だった。
冷静沈着で新参者の私のことも常に気遣ってくれる紳士だし、3人のまとめ役と言っていい。
多分女子受けも悪くないと思うのに、浮いた話はあんまりない。
私と先輩の共通意見として、夏目さんは今いちばんの優良物件だと思うのだけど、当の本人は「今はあんまりガツガツ行く気にならない」と言っていた。
夏目さんがガツガツ行く日は来るのだろうか。
そんな、普段は温厚で冷静な夏目さんに関して不思議なことといえば。
「なんでいつも遅れてくるんだよ、お前は。時間という概念がないのか?」
「ちょっと遅れたくらい何よ。許容範囲でしょ?」
「就活のとき同じこと言ってみろ。速攻で落とされるぞ」
「就活でそんなこと言うわけないじゃない」
夏目さんと早乙女さんである。
この2人、会えばとにかく言い争い、口論が絶えない。ああ言えばこう言うの応酬で、逆によく続くなあと感心するほど。
あ、瑠々と桐生くんのやり取りの、もうちょっと強烈でアグレッシブな感じといえばわかりやすいかもしれない。
「ごめんなさい、私が早乙女さんとの待ち合わせに遅れたから……」
早乙女さんの後ろに、初めて見る人が控えめに立っていた。
この人がもう一人のゼミ生、水無瀬梓さんだと気づく。
「なんだ、それならそうと早く言えよ早乙女」
「なんでそこで私が怒られないといけないわけ?」
「もういいから入ったら? 水無瀬はここに来るの初めてだよな? あ、乙葉ちゃんも水無瀬に会うのは初めてか」
剣呑な空気になりかけた場をうまく収める大我さんを目の当たりにして、こういうときチャラくて調子のいい人がいるのは重宝するなあとしみじみ思う。
先輩と夏目さんと大我さん、三者三様ではあるけれど、これはこれでバランスが取れているから仲がいいのかな、などと初めて腑に落ちた気がした。
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