side伊織 ⑧
まだ薄暗さの残る明け方、ふと目が覚めた。
体の左側に違和感があって、視線を落とすと腕の中で乙葉があどけない顔をしてぐっすり眠っていた。
昨日の夜のことが一気に頭の中に蘇ってきて、体中の血液がまた沸騰しそうになる。
乙葉は、可愛かった。もうめちゃくちゃ可愛かった。今まで何百回何千回と想像してきたより、ずっとずっと可愛くて、愛しくて、そして溺れた。
今まで以上に、いや今までとは比較にならないくらい、乙葉を手放すなんて考えられなくなった。
いつまでもこの腕の中に閉じ込めて、甘やかして、俺だけでいっぱいにしたいと思うほど。
初めて乙葉の家に行って両親を何とか説得できたあの日、俺が家に帰ると母さんは心配した様子で待っていてくれた。
「どうだった? 大丈夫だった? 首尾は?」
「何とか」
俺の反応に母さんは飛び上がるほど喜んで、すぐさま父さんに報告に行こうとした。
「ちょっと、2人に話があるんだけど」
自分の浮かれようとは対照的に息子が深刻な表情をしていると気づいた母さんは、何かしら不測の事態が生じたのだと察したらしい。
リビングにいた父さんに、「伊織が話があるんだって」と言ってから自分もテーブルのいつもの位置に座った。
俺は、2人を前にして一度深呼吸し、それから意を決して口を開いた。
「今すぐってわけじゃないけど、俺、乙葉と結婚するから」
一気に言い切って、そのまま2人の表情を確かめる。
2人は、ぽかんとしていた。
ぽかんとしたまま、数秒が経過する。
そして二の句が継げずにいる俺を尻目に、先に我に返ったと思われる父さんが困ったような、ちょっと笑いそうな顔になった。
「え、知ってるけど」
「は?」
「いや、そうなんだろうと思ってたから。別に今更改まって言わなくても」
思ってもみない返事に、俺の頭の中は混乱を通り越して一時停止する。
「そうよー。深刻な顔するから何かと思ったら、そんなことなの? あなたがそのつもりなんだろうなっていうのはもうだいぶ前からわかってたわよ。だから冬にも連れてきたんでしょう?」
母さんも、何を今更といった様子で半笑いだった。
あれ。
「そんなこと」?
いやいや、いくら俺がだいぶ以前からそう決めていたとはいえ、この両親の反応は何なんだ?
乙葉の父親なんか言語道断って感じではじめは聞く耳も持たなかったし、若いからとか学生のくせにとか時間が経てば気持ちも変わるとか、嫌というほど苦言や批判を繰り返してたじゃないか。
軽すぎる。この人たち、軽すぎるよ。
俺の心の中の混乱と動揺を見透かしてか、父さんがのほほんと顔をほころばせた。
「乙葉ちゃんの両親にも話したのか?」
「あ? ああ、うん。それ前提で、東京行きを許してくれって言った」
「東京行きも結婚も許してもらえたのか?」
「結婚はまあ、今すぐってわけじゃないし、ゆくゆくはって感じで。東京行きは乙葉の受験次第かな。東京の大学を受けることは許してもらえた」
「そうか」
父さんは徐に立ち上がり、冷蔵庫の前まで行くと中を開けて缶ビールを2本手に取った。
「じゃあ今日は祝杯だな。お前も飲むか?」
「は? いやいや、そこはもうちょっと、『ほんとに大丈夫なのか?』とか『あとで後悔するに決まってる』とか『気持ちが変わったらどうするんだ?』とか言わなくていいのかよ」
「そういうの、乙葉ちゃんのとこで散々言われてきたんじゃないの?」
母さんが興味のなさそうな顔で立ち上がり、食器棚の方に向かったと思ったらグラスを3つ持ってきてテーブルの上に置く。
「私も一緒に飲んでいい?」
「いやいや、だからさ」
「伊織って、昔から頑固っていうか一度決めたことはなかなか曲げないところがあったでしょ。今回もそうなんだろうなって思うの。乙葉ちゃんとつきあうようになってだいぶ経つし、半分以上は離ればなれで過ごしてるでしょ? それでも自分の気持ちがこの先も揺らがないって自信持って言えるなら、多分、ほんとにそうなんだろうなって思うのよ。唯一無二の存在に出会ってしまったんだわね」
「母さん、いいこと言うね」
「でしょう? それに、私としてもああいういい子はぜひお嫁に来てほしいものよね。数馬のこともだいぶ助けてもらったし、素直で真っすぐだし、ああいう娘がほしかったもの」
「ああ、そうか。伊織が乙葉ちゃんと結婚したら、あの子は娘になるのか。いい娘ができてよかった」
目の前の2人は上機嫌でビールを開け、勝手に盛り上がり始める。
乙葉と結婚したいと言っても反対されることはないだろうとは思っていた。
でも、「そこまで言うならちゃんと責任は取れ」とか「若気の至りだったとあとで後悔することのないように」とか、ある程度説教というか釘を刺すようなことはあるだろうと覚悟していたのに。
……俺の覚悟って。
酒盛りを始めた2人を放っておいて、俺は数馬の部屋に向かった。
昨日乙葉たちが泊まって夜更かしして騒いでいたらしく、数馬はもう寝る態勢に入っていた。
「もう寝るのかよ」
「だって昨日あんま寝てないし。女子たちがいなくなったあとも忍とずっと話してたんだよね」
「そうなのか?」
「ていうか、忍がずっと一人でぺらぺらしゃべっててさ。俺、半分寝てたんだけど。好きな子ができるってそんなにいいもの?」
俺がいるというのにお構いなしでベッドに横になりながら、数馬は半ばいじけたように不服そうな言葉を並べる。
「好きな子? 忍、好きな子がいるのか?」
「ほら、あの子だよ。1年生の。どこが可愛いとかあーだこーだ言って。だったらさっさとつきあえばいいのにさ、受験があるとか構ってあげられなくなるからとか言ってて。めんどくさ」
数馬はうんざりと不機嫌そうな声で、「で、兄貴はどうしたの?」と首だけを俺の方に向けた。
「あ、いや、俺、乙葉と結婚するつもりなんだけどさ」
「だよね。そう思ってたよ」
ここでもやっぱり薄いリアクションに、俺は複雑な心境になる。
「でも乙葉にはちゃんと言ってなかったんでしょ。乙葉、兄貴にそういうつもりがないんじゃないかってめっちゃ泣いてて大変だったよ。なんで言ってなかったの?」
「そんな軽々しく言えることじゃないだろ。結婚なんて一生に一度の大事なことなんだし。乙葉が東京に来たら、言うつもりだったんだよ」
「そうなの? まあ、ちゃんと話したならいいけどさ。大事にしないと、いなくなっても知らないよ」
最後の数馬の言葉は、結構グサッと来た。
確かに、乙葉がヘソを曲げて東京に来ないと言い出し、電話を切られたあとの数日は生きた心地がしなかった。
本気で言ったんじゃないだろうけど、もしも乙葉が本気で、その上俺から離れていきやしないかと不安に駆られてしまって気が気じゃなかった。だから予定を早めて、夜行バスで帰ってきた。
乙葉のいない世界など、もう俺には考えられない。
「ん…」
乙葉が寝返りを打って、俺の腕からするりと抜け出し背中を向ける。
思わず乙葉の肩に手を伸ばし、後ろから抱きしめて白く光るうなじにキスをした。
もう、離さない。
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