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溺愛のススメ  作者: 桜祈理
3年生

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45 どうでもいい

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「え、なんで」


 やっとの思いで絞り出した声は、震えていた。

 言われた言葉を理解しようとするのに、霧の中に放り込まれたような感覚で一向に思考が進まない。

 

「親がどうしても許してくれないんだったら仕方ないだろ。大学だってちゃんと行かないと。投げやりになって、何もかも捨てて東京に来るなんてのはよくないよ」

「先輩は、私が東京に行かなくてもいいの?」

「そうは言ってない。来てほしいに決まってるだろ」

「だったらいいじゃない。形はどうでも東京に行ければ」

「よくない。俺は、お前の人生に責任持てない」



 え?

 どういう意味?


 聞きたいのに、声が出ない。




 ふと、以前瑠々たちと話したことを思い出す。


 みんなは私と先輩との間で当然「結婚」の話が出ていると思ってたと言っていた。


 私だって、一度も考えたことがないわけじゃない。

 むしろ、このまま先輩とずっと一緒にいられたらいいと思っていたし、そしたら「結婚」という2文字もいずれ現実のものになるかもしれないという期待だってあった。



 でも。


 先輩はそんなふうには思ってないんだ。

 だから、「責任持てない」なんて、言葉が出てきたんだろう。


 「結婚」という言葉がこれまでの会話の中に出てこなかった理由に思い当たり、先輩との未来を勝手に願っていたのは自分だけだったという事実に気づく。



 なんだ。そっか。



 私の中の、どこか中心に近いところで何かに大きな亀裂が入り、音を立ててガラガラと壊れていく。

 その音をどこか遠くに聞きながら、私の意識は暗い水底に沈んでいく。


「わかった」


 感情のこもらない声は、そのまま先輩に届くのだろうか。


「じゃあもういい。東京なんか行かない」

「は? 何言って」

「行かない。もうどうでもいい」

「乙葉、落ち着け」

「落ち着いてるし。でももういい」


 明らかに大きなため息が聞こえた。

 私の言葉に先輩がひどく落胆しているのがわかって、もう本当に泣きたくなる。


「じゃあね」


 私はそれだけ言って、勢いに任せて電話を切った。



 先輩からまた電話がかかってくるかと思っていたのにその後スマホが鳴ることはなく、自業自得とわかっていながらますます気持ちは沈んでいった。





 それから何日か経った。


 親とは依然としてろくに話もしていない。


 お母さんは何度か話し合おうとしていたのか私の様子を窺っているように見えたけど、お父さんは完全に私を無視していた。


 だから私も、父親なんか最初からいないと言わんばかりの態度で生活している。


 先輩からもあれきり電話が来ることはなく、予定では明日先輩が帰ってくる。


 本心ではないとはいえ東京に行かないと言ってしまった手前どうすることもできないし、何もする気にならないし、どうせ私の味方なんかいないし、もうどうでもいいやと完全に不貞腐れて日々を過ごしていた。





 高校での夏期講習も最終日を迎え、夕方家に帰ると弟の将吾がリビングでくつろいでいた。


 中学校もとっくに夏休みに入っていて、午前中は部活に行っていたはずだ。


 生まれてすぐに心臓の疾患が見つかった将吾は、それから幾度となく入退院と手術を繰り返した。でも適切な治療と本人の生まれ持った生命力のおかげで、今ではすっかり元気になっている。

 年に数回ほどは通院して経過の観察をしているらしいけど、長時間の激しい運動でなければ体を動かしていいし、当初心配されたような生活上の制限もほとんどない。


 要するに、傍から見れば「普通の人」である。


 その「普通」の中学生の将吾はアイスを食べながらスマホを弄っていて、私が帰ってきたことに気づくと揶揄うように話しかけてきた。


「姉ちゃんさ、父さんとケンカでもしたの?」

「なんで?」

「2人とも全然話さないからさ。空気悪いし」

「そう?」

「明らかにピリピリしてるよね? 俺何にもしてないのに、父さんに話しかけたらちょっと睨まれたんだよ。完全に八つ当たりだよね」

「そうね」

「何があったのか知らないけど、ちゃんと話し合った方がいいんじゃないの?」


 5つも年下の弟が話す正論に、私はドス黒い苛立たしさしか感じない。



 わかってるわよ。

 わかってはいるけど、もう何を話し合えばいいのかわからなくなってるのも事実なわけで。


 このまま本当に東京に行かないのなら、話し合う必要はない。

 親の言う通り、地元の大学か隣県の大学にでも行けばいい。


 東京じゃないのなら、どこだって同じだし。


 頭ごなしに東京行きを否定されている以上、何をどう説得していいかもわからない。


 そもそも、東京に行く必要なんかある?


 先輩は、私との未来を考えてないのに。


 結局そこに致命的なダメージを受けていると薄々気づきながらも見ないふりをし続ける私は、もうずっと堂々巡りを繰り返していた。

 そしていい加減、自分でもうんざりしていたのだ。


「もうどうでもいいのよ。ほんとどうでもいい」

「え、なに? どうしちゃったの?」

「大学も東京もほんとどうでもいい。私がどうしようが、何しようが、あんたたちに関係ないじゃない」

「姉ちゃん、何言って」

「何を言ってるんだ」


 突然背後から怒りの混じる尖った声が飛んできて、振り返るとそこには何故かお父さんがいた。


 帰ってくるには早すぎる時間なのに、なんで? と混乱している私を見据えて、お父さんはつかつかと近づいてきた。


「乙葉。関係ないってなんだ。将吾は弟だ。家族なんだから関係ないことじゃないだろ」

「は? 将吾には関係ないでしょ。ていうか、将吾にも関係ないけどあんたにはもっと関係ないから」

「乙葉!」


 激昂したお父さんの右手が高く上がり、すごいスピードで振り下ろされた瞬間がまるでスローモーションのようにゆっくり見えた。


 左頬をぶたれた痛さに顔を顰めてお父さんを睨み返すと、私はそのまま家を飛び出していた。

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