32 私の家
想像以上に壮絶な体験談を、息を潜めて聞いていた。
「乙葉は、数馬が学校に行かなくなった理由って聞いた?」
戸惑いを隠せない私を気遣ってか、先輩はふっと笑って空気を和ませる。
「私は、本人からは何も。でも桐生くんが、『新しいクラスに馴染めない』って相談されたことがあるとは言ってたよ。クラスで何かあったらしいけど、詳しいことはわからないって」
「そっか。これは俺の勝手な想像なんだけどさ」
先輩はどこか懐かしむような、でも何かを悔いるような、少し悲しそうな顔をした。
「数馬って、昔から俺とは違って愛想がよくて、まわりの空気読んでうまく立ち回るような器用なところがあったんだよな。でもそうやって人の期待に応えようとしすぎて、疲れて嫌になったのかなって思ってさ。まあ親からしたら、誰とでも仲良くやってきた数馬がいきなり学校に行きたくないなんて言い出す理由がわかんないから、焦って無理やり行かせようとして、反発されて、それでますますどうしたらいいかわかんなくなったんだろうけどさ」
「そういえば、数馬くんが『人に会いたくない』って言ってたっていうのは聞いたよ。まわりに合わせるのが嫌になっちゃったからもう人に会いたくないってなって、それで学校に行かなくなったのかな」
「うーん、そうなのかもな。でも親たちは数馬にそれまで通りに戻ってほしかったんだろうし、数馬は数馬で全部リセットしたくなったのかな、なんてさ。まあ、ほんとのところはわかんないんだけど」
数馬くんが学校に行かなくなった頃のこの家を思うと、居たたまれない気持ちになる。
お互いがお互いを傷つけたいわけじゃないのに、衝突して、失望して、打ちひしがれて、多分壊れかけた瞬間もあっただろうけど、そうした葛藤を経験してもなお、家族は家族であり続けている。
きっと、乗り越えられたからこそ手に入れられた新しい家族の姿が、ここにはある。
「さっきの明るい雰囲気からは想像できない話だね」
「まあ、今は数馬も落ち着いたし、親たちも数馬の言うことを尊重して好きなようにやらせてるからな。家族ってのは、傍から見たら平和そうでも中身はいろいろだし、良いところも嫌なところもいろいろあるよな」
そう言って、私を見つめる先輩の目がまるで全てを見透かすかのように凪いでいるから、私は落ち着かなくなった。
何故そんな目をするのだろう。
否応なしに思い当たることが頭に浮かんで、心の内側が俄かに波立つ。
「せ、先輩は」
「うん」
「知ってるの? 私のことっていうか……私の家のこと」
「だいぶ前にな、昂生に聞いた」
持っていたマグカップをテーブルに置いた先輩は、そのまま私の頭を撫でて言った。
「ちらっとな。全部じゃないんだろうけど。小さい頃のことだろ?」
動揺してうまく笑えない。
先輩に隠そうとしていたわけじゃない。知られたくなかったわけでもない。ただ、人に言いたい話でもなかった。
もうずっと、見ないようにしてきた、幼い頃の私の記憶。
「私が覚えてるのは、昂ちゃんたちに連れられてあちこち遊び回ったこととか、昂ちゃんたちの家族と遊園地に行ったこととか、おばさんが誕生日にケーキを作ってくれたこととか。楽しかったんだよ。だから別に、親のことも仕方ないって思ってるし、恨む気持ちはないの」
蔑ろにされていたわけではない。
お父さんもお母さんも、私を愛してくれていたと思う。
でも私の幼い頃の記憶の中に、私の家族はほとんど登場しない。代わりににいるのは、橘家の人たち。
弟が生まれるまでお母さんがずっと入院していたことや、その間は昂ちゃんの家に預けられていたこと、お父さんは運悪く単身赴任でいなくて、生まれた弟も大きな病気を患って入退院を繰り返していたことなど、成長するにつれていろんなことを知った。だけどそういう事情だからわかってあげて、許してねと言われても、まだ幼かった私には理解できるはずもない。
何かあるといつも弟が優先されて、私は選ばれない理由が、小さい頃はわからなかった。わからないから寂しかった。常にどこか、寂しさを抱えていた。
でも昂ちゃんたちがいつもそばにいてくれて、たくさんの時間を一緒に過ごしてくれたから、いつの間にか「そういうものだ」と納得するようになった気がする。
だけど弟がだんだん元気になって、お父さんも単身赴任から帰ってきて、ようやく4人での生活が始まるとなったその日、私は橘家を離れるのが嫌で、泣いた。
それから家族4人での新しい生活はぎこちなく始まって、そしてそれは今も続いている。目の前には両親や弟がいるのに、いつも薄くて透明な壁に隔てられているような気が今もしている。
「仕方なかったのはわかってるつもりなの。だから親を責める気持ちにはなれない。でもなんかね、自分は親のいちばんにはなれないんだなあってどっかで気づいたんだよね。それから誰に対してもそういうものかって思って。だから、先輩が私を選んでくれて、うれしかったの」
私は家族にとって「いちばん」にはなり得ないと気づいたとき、全ての人間関係を諦めたのかもしれない。
それなりに人とはうまくやってきたつもりだし、人間関係で困りごとを抱えることもほとんどなかった。でもそれは、人に何かを求めることをしなかったからだ。そして自分自身も、人に求められることはなかった。
私の頭を優しく撫でる先輩の手を取って、頬に当てる。
大きい。
温かい。
安心する。
「先輩に『つき合う?』って言われたとき、うれしかった。彼女って、その人にとっての“いちばん”ってことでしょ? だからそのあと瞳子さんのことを知って、もし本当に先輩が瞳子さんを好きだったとしても彼女としていちばんにしてくれたのは先輩だから、それでいいやって思ったの」
先輩は、初めて私を「いちばん」に選んでくれた人。
「俺にとっては、乙葉がずっといちばんだよ」
頬に当てていた先輩の手が、いつの間にか流れていた私の涙を拭いてくれていた。




