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溺愛のススメ  作者: 桜 祈理
2年生

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36/75

29 離れていても

「そうなの?」


 居丈高に振る舞う桐生くんに対して、先輩は涼しい顔をして尋ねる。


「距離ができて離れちゃったら気持ちも離れて別の人を好きになっちゃうってことだろ? そういうものなのか?」

「そ、そうですよ。そういうものでしょ」

「ふうん。じゃあ忍はさ、今は近くにいるから乙葉のことが好きだけど、離れちゃったら気持ちも離れるってことなんだな」


 一瞬でリビングが静まり返る。


 なるほど。確かに、そういうことになってしまう。


 自分の主張がブーメランのように返ってきて、桐生くん自身を容赦なく直撃した。


「いや、だけど……」

「確かにさ。そばにいられないのも、会えないのも寂しいよ。でも俺、それでも乙葉を諦められないし、3ヶ月会えなかっただけでむしろほんとに乙葉のことが好きだと気づいたよ。離れて初めてわかることもあるよ」


 落ち着き払った柔らかい口調が、この場を制圧していく。


「このまましばらく俺たちは離ればなれだし、どうにもできないくらい寂しくなったり大事なときにそばにいられなかったりするかもしれない。でも、離れても気持ちまで離れることはないってことを、これから俺が証明していくから。だから見とけよ」


 きっとこの先、どんな未来が待っていても自分の気持ちに揺らぎようがないことを確信している先輩は、どこまでも清々しく、潔く、そして誇らしげだった。


 それから、横にいた私の方にゆっくりと顔を向け、目配せをする。

 その目にはいつも以上の「愛しい」が溢れていた。


「まあ、あれだ、兄貴の溺愛ぶりを知ってる身としてはさ」


 自分の投げたブーメランに直撃されて動けないままの桐生くんを労わるように、数馬くんはニコニコして言った。


「忍にがんばってほしいとは思うんだけど、多分無理だろうなあって思うんだよね」

「は?」

「だって忍、いいやつだからさ」

「俺が?」

「口では今回のことも兄貴の浮気だって騒いだり、ほかにもいろいろ言ってたんだろうけどさ、いざとなると兄貴と乙葉の邪魔するどころか乙葉に味方しちゃってるじゃん。結局はいいやつなんだよな。いいやつのまま、兄貴から乙葉を奪おうなんて無理だと思うよ」


 確かに、桐生くんは口ではいつも散々ひどいことを言って瑠々を怒らせていたけど、数馬くんに連絡するときも協力的だったし、さっきだって先輩が正門にいることをいち早く教えに来てくれた。


 ほかにどんな思惑があったとしても、桐生くんの行動はいつも、その言葉とは裏腹に私と先輩の味方をしてくれていたことに気づく。


「そんなつもりはなかったんだけど」


 桐生くんは眉をしかめて、ひどく不服そうな顔をする。


「俺がどんなにアピールしても、多少力技で攻め込んでみても、乙葉ちゃんの気持ちが先輩にしか向いてないって見てればわかるじゃん。自分のことを好きになってほしかったけど、乙葉ちゃんが幸せそうな顔するのって先輩のことだけだし」


 「俺だって乙葉ちゃんに不幸になってほしいわけじゃないし」とつぶやく桐生くんは、何だかとても不機嫌そうで、そして多分いじけていた。

 

 今週、突如として巻き起こった怒涛のあれやこれやを思い出す。

 今こうして穏やかな気持ちでここに立っていられるのも、桐生くんや数馬くんや、いろんな人たちのおかげなわけで。

 私は、大きく息を吸った。


「桐生くん、ありがとう。それから、ごめんなさい」


 私の言葉に、桐生くんはわざとらしく、投げやりに深いため息をついた。


「わかってたよ、こうなることは。でもいいの? あと2年は先輩と離ればなれなんだよ? ほかのやつらが高校生同士でいちゃいちゃしてるの見て、うらやましくなるかもよ?」

「何それ」

「一緒に文化祭楽しんだり、手をつないで帰ったり、そういう普通のことはできないんだよ? それでもいいの?」


 聞かれた私の視界に、何故かもう答えを知っているかのように微笑む数馬くんの顔が映り込んだ。


 そういえば、私たちが初めて数馬くんに会いにここに来たとき、先輩の浮気を真っ先にきっぱりと否定したのは数馬くんだった。


 私とは違う角度で先輩のことを間近で見てきたからこそ、兄である先輩を信じている。


 そんな先輩に選ばれた私が、どんなふうに答えるかなんてとっくにお見通しなんだろう。


「寂かったりうらやましかったりはすると思うけど……でも私、桐生くんに最初に言ったよね。先輩のことが好きだからって。私にとっては、先輩が全てだから」


 言い終わると同時に、ふわっと先輩の匂いがしたかと思ったら後ろから抱きしめられていた。振り返ると真横にある先輩の顔が、蕩けるような視線を向けている。


 ちょっと、先輩。恥ずかしいよこれは。


「結局なに? 今回のことって、乙葉ちゃんと先輩の絆を深めただけだったってこと?」

「そうなるね」

「なんだよもう。期待して損した」

「まあまあ、忍には俺がいるじゃん?」

「お前、男だろ」


 リビングの空気がほろっと解けて、目の前の男子2人が急にわちゃわちゃし出した。


 緊張感から解放されて思わず先輩を見ると、2人のことを微笑ましそうな顔で眺めている。


 あ、この顔は。


「忍」


 先輩は桐生くんの名前を呼んで、


「乙葉のことは渡せないけど、数馬のことは頼むな」


 と言いながら、リビングをあとにした。


 残された桐生くんは「ふん」と返しながらも、「んなことわかってるよ」とつけ加えた。





 次の日の土曜日も一日先輩と過ごし、日曜日の午前中には東京に戻る先輩を駅まで見送りに行った。


 わかってはいたことだけど、散々桐生くんにも言われたけれど、やっぱり寂しい。


 夏休みになったらまたすぐ帰ってきてくれるとわかっているのに、改札を抜けてホームに近づけば近づくほど、寂しさが絶え間なく押し寄せる。


 涙が出るのを我慢しようと眉間にシワを寄せすぎて、先輩に笑われてしまった。


「ったく、乙葉はほんと可愛いな」


 いつもと変わらない言葉に、胸が締めつけられる。


「シワ、寄せすぎたよ」


 言いながら、先輩が私の両頬に手を当て、眉間に軽くキスをした。


「あ、乙葉、最後にキスして」

「え?」

「乙葉からキスしてよ」

「な、こんなとこでなに言って」

「ダメ?」


 2つ年上の男の人の甘えたような目を見て、先輩も寂しいんだと気づく。


 LINEができても、通話できても、直接お互いの体温を確かめることはできない。触れ合って、確かめ合って、満たされ合うことはまたしばらくできない。


 私が何も言わないのを承諾と受け取ったのか、先輩は期待のこもった顔をしながら目を閉じて、少しかがんだ。私は柱の影に隠れるようにして先輩の頬に手を当て、それから先輩の唇に触れた。


 一瞬だけ触れて、足りなくて、もう一度触れようとしたら、目を開けた先輩の瞳に射抜かれる。


 足りない。

 足りないの。


 気づいたら私は先輩の首に抱きついて、唇を奪っていた。

 先輩もそれに応えるように私を抱きしめて、私たちは深く、お互いの何かを満たすように口づけた。

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