27 今回のMVP
先輩がいる。
先輩の腕の中にいる。
3ヶ月ぶりの先輩の腕の中は、温かくて、安心できて、そしていつもの先輩の匂いがした。
「大学は?」
「午後の講義が急に休みになったんだ。どうしても会いたくなって、帰ってきた」
見上げると、どこか翳りのある瞳をした先輩が少し困ったように笑う。
あ、この笑顔。
数馬くんの笑顔と似てるけどやっぱりどこか違うと気づいたら、またちょっとだけ泣きたくなった。
先輩の家に着いたら、私たちに気づいた数馬くんが飛び上がって驚いた。
「え、兄貴どうしたの? 帰って来たの? あ、乙葉も」
「こんにちは」
「時間できたからちょっと帰ってきただけ。日曜の昼にはあっちに戻るけど」
「なんだよ急に。あ、そっか、いろいろ解決したし?」
突然の帰省の理由に思い当たった数馬くんは途端に上機嫌になって、どことなく優越感を漂わせた。
「今回のMVPって俺じゃない? 問題解決にも貢献したし、俺のおかげで2人が拗れずに済んだわけだし」
「そうだな。数馬がいなかったら乙葉をもっと傷つけてたかもな」
おどけた様子の数馬くんとは対照的に、先輩はどういうわけか予想外に深刻な表情をしている。
重い空気に耐えられなかったのか、数馬くんはわざと冗談交じりの軽い調子で続けた。
「まあ、いきなり3人で来て玄関先で大騒ぎしてんの見るの面白かったしさ、おかげでまた忍と連絡取れるようになったし。あれ、忍が今日うちに来るって言ってたんだけど。知らない?」
「多分あとから来るんじゃない? 楽しみにしてたから」
私は咄嗟に、数馬くんに助け舟を出した。
そういえば、先輩が正門にいるとわざわざ教えに来てくれた桐生くんを放ったらかしにして来ちゃったことに気づく。
すごい慌てようだったけど。
まあ、そりゃそうか。でも、ここに来たら私もいるからまたびっくりするかも。
そこまで考えたらふふ、と笑ってしまった。
「桐生くんと忍がまさか同じ人間だったとはな。世間って、狭いな」
先輩が硬い表情のまま、感慨深いといった様子でぼそりとつぶやく。
その世間の狭さに、どれだけ救われただろう。
偶然とも必然とも思える不思議な出会いに、私は心から感謝していた。
それから、何ヶ月かぶりに先輩の部屋に入った。先輩の部屋の中は、クリスマスに見たときより物がなくなって、少しがらんとしていた。
先に部屋に入った先輩が腕を広げて待っていて、私はその中にぽすんと収まった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
先輩はそう言って、私の唇にキスをした。
先輩に抱きかかえられたまま、今回の騒動の一部始終を聞く。
浮気じゃなさそうっていうのはわかっていたけど、何があったのかを事細かに丁寧に説明されて、正直ホッとした。
信じてよかった。
信じられて、よかった。
「乙葉」
「うん?」
「浮気かもって不安にさせてごめん」
先輩の声は、思わず息を吞むほど苦しさを滲ませていた。
「それはいいよ。浮気じゃなかったんだし。そもそも先輩のせいじゃないし」
私は、安心させるように先輩の胸に顔を押しつける。
先輩の匂いが一層強くなって、くらくらして、でも安心する。
「俺はお前のこと傷つけたくない。俺のことで嫌な思いもさせたくない。なのに、浮気かもって不安にさせたのが悔しくて」
「ふふ。確かにびっくりしたけど」
確かにびっくりはした。
何が起こったのかと混乱した。
でも。
「先輩はさ、いつも私にちゃんと言葉で説明しようとしてくれるじゃない? だから、何があっても、何かあったのならなおさら、先輩なら説明してくれると思ったの。先輩の話を聞かないうちは、何かを決めつけたり、疑ったり傷ついたりしたくなかったの。それだけ」
見上げてそう話したら、満足そうに目を細めた先輩が私の唇にまたキスを落とした。
「俺は今回のことで思い知ったよ」
先輩が私の首元に顔を埋める。
いつもより、もっと近い距離に、私の心臓はびくんと跳ねる。
「お前がいない世界は、つまらない」
先輩の吐息が、首元にかかる。
「お前がいなくて寂しい。やっぱり毎日会いたい。会って、抱きしめて、お前の体温を感じられるのがこんなに幸せなことなんてな」
そう言って顔を上げた先輩は、なんだか今にも泣きそうな子どもに見えた。
だから私は、思わず手を伸ばして先輩の頬を撫でる。
慰めるように。
元気づけるように。
先輩は、自分の頬を撫でる私の手を取って、手のひらに口づけた。
「乙葉、愛してる」
その瞬間、私は目を見開いて、そして動けなくなった。
「愛、なんてほんとはよくわからないけどさ。お前のことはずっと好きだし、好きすぎてどうしようもないのはもうずっと前からなんだけどさ」
息をするように甘い言葉を言い連ねるのが通常運転の先輩が、珍しく照れくさそうな顔をする。
「お前がいないと生きていける気がしない。俺の世界はもうずっとお前が中心だから、一緒にいるのも、隣で笑うのも、幸せにしたいのも、信じてほしいのも、全部乙葉だよ」
思い詰めたような先輩の目が、私を捕らえて離さない。
私も、先輩から目を逸らせない。
私は恐る恐る口を開いた。
「あ、『愛』ってさ、どういうのを『愛』って言うんだろうって思って」
「うん?」
「先輩、LINEでも『愛してる』って言ってくれてたよね」
「ああ、うん」
「すごくうれしかったけど、じゃあ自分は? って思って。私は先輩を『愛してる』って言えるのかな」
穏やかでいながら少し険しさの残る表情で私を見ていた先輩は、その言葉で「ふっ」と笑った。
「乙葉は正直だな」
「……そう、かな」
「『愛』なんて、人それぞれなんじゃね? 俺はお前と離れてみて、こういう気持ちが『愛』なのかなと思った。でも人それぞれだと思うし、俺が愛してるからってお前も俺を無理に愛そうとしなくていいよ」
「でも」
「無理に同じ気持ちを返そうとしなくていい。もとから俺の方がお前のこと好きなのわかってるし、乙葉は乙葉のスピードで、俺を好きでいてくれればいい」
先輩は、私の心の奥に触れるような優しい笑顔を見せた。
私だって、先輩が好きだ。
いつも一緒にいたいし、触れたいし触れてほしい。会えないと寂しい。先輩のいない世界なんて考えられないし、大好きって、言える。
でも、「愛してるか?」と聞かれたらわからない。
それがわかったら。
先輩を愛していると、先輩と同じくらいの気持ちで向き合いたいと、思えるようになったら。
「私が先輩のこと『愛してる』って思えるようになったら、先輩の好きにしていいよ」
「ん? 好きにしていい?」
先輩は私の言葉の意味がわからなかったらしく、きょとんとした顔で私を見下ろした。
「だ、だから、その」
「え?」
「そのー」
言おうとして、やっぱり恥ずかしくて言えなくて、私はわかってほしいという想いを込めて先輩の顔を見つめる。
みるみる心拍数が上がり、体温が上がり、顔が赤くなっていくのがわかる。
これ以上はもう無理、というところで
「え? ほんとに? そういう意味?」
先輩の声は上擦っていた。
私は黙って頷く。
恥ずかしい。恥ずかしいけど、きっと「そのとき」はもっと恥ずかしいんだろうなと思う。
「愛」って、先輩を想う気持ちが、恥ずかしさを上回ることなのかもしれないと思った。
「わかった」
先輩の低い声が、でもいつもより艶のある声が、愛しさを閉じ込めて甘く響く。
「乙葉が俺を『愛してる』と思えるようになったら、そのときは、俺はお前を大事に抱くよ」
そう言って、先輩は私の頬に手を当てて、キスをした。
そのキスは、生まれて初めての、大人のキスだった。




