17 忘れないで
それからすぐに、先輩は受験に向けて本格的に忙しくなり、毎日会うことはできなくなった。
私たちはお互いの寂しさを埋めるように、暇を見つけてはLINEしたり通話したりして時間をやり過ごしていた。
試験が全部終わるとわりとすぐに合格したと連絡が来たから2人でお祝いをして、それからすぐ卒業式が来て、またみんなでお祝いした。
ちなみに、昂ちゃんと雅さんは2人揃って隣県の有名大学に合格した。
しかも医学部。
どこまでもチートな2人だった。
入学手続きや引っ越しの準備で忙しい中、先輩はどうにかこうにか時間をやりくりして、学校が終わる頃には正門で待っていてくれる。
先輩を見つけると、今までみたいに手をつないで帰る。
つないだ先輩の左手には、私があげた腕時計があの日から静かにその存在を主張している。これからも私の代わりに先輩のいちばん近くにあるのだろうと思うと、言葉にならない切なさが押し寄せる。
今はただ、何を見ても何を聞いても何をしていても、激しい切なさや際限のない寂しさに視界が覆われてしまう。
こうして当たり前のようにできていることが、あと少しでできなくなるなんて。
「今、寂しいって思っただろ」
「え?」
「乙葉はわかりやすいな」
そう言って、先輩が本当に愛おしそうな目を私に向ける。
私を満たすこの目も、花のようにほころぶ笑顔も、もうすぐ見られなくなる。
私は先輩がいなくなっても、生きていられるんだろうか。
先輩に溺愛される日々に慣れすぎて、そんな生活に依存しすぎて、これからの自分の生存すら危ういと感じる今日この頃だった。
「何度も言うけど、スマホがあればいつでもやり取りできるだろ」
「うん」
「できるだけ帰ってくるし。お前も夏休みとかになったら来ればいい」
「うん」
「乙葉以外の女に目が行くなんてことは絶対にないから心配するな」
「うん」
「あと何が心配?」
「先輩に触れなくて、生きていけるかなとか」
「は? なんだそれ」
「だって、いつも手が届くとこに先輩がいて、触れたら触れてもらえて、その、キス、とかもいっぱいできたのに、できなくなるなんて」
「お前がそういうこと言うようになるなんてな」
「うるさい」
そんな会話をしょっちゅうしている。
遠距離恋愛への不安なんて、いくら話してもなくなることなんかない。
それでも、先輩は言葉を尽くして私の不安に向き合おうとしてくれる。その誠実さが、寂しさに打ちひしがれる私を何とか踏み止まらせてくれている。
「先輩は、不安にならないの?」
「不安? 不安ていうか、お前が大丈夫かどうかはだいぶ心配だな」
「は?」
「俺とか、昂生とか雅とか、お前を甘やかしてた『甘やかし隊』がいなくなるわけだから。面倒見てくれる人がいなくなって大丈夫かなとか」
「何それ。子どもか」
「あとは、お前最近、自覚ないと思うけどほんと可愛いからな。俺のまわりで『乙葉が可愛くなった』って結構評判だしさ。俺がいなくなったあと、まわりが放っとかないだろうなと思うとだいぶ不安ではあるな」
先輩がわざとこんなふうに軽口を叩くのは、私の不安や寂しさを和らげようとしているからだとわかってる。わかってはいるけど、今はそういう話をしたいんじゃないのに。
「そういうことじゃなくて。先輩はなんでそんなに余裕なの?」
ちょっとイラッとして、つい甘えるように聞いてしまう。
先輩は少しだけ思案顔をした。いや多分、考えるフリをした。
それから、飄々とした態度で事もなげに言う。
「余裕じゃないよ。余裕じゃないけどさ、俺にとっては、ほとんど何も変わらないから」
「どういう意味?」
「離れても何も変わらないってこと。ちょっと距離ができるだけで、お前のことを好きな気持ちは変わりようがないからさ。物理的には近くにいられないかもしれないけど、気持ち的には俺のいちばん近くにいるのは、いつも乙葉だから」
そう言って、会心の笑みを見せる。
もう本当に、この人には敵わない。
「でもさ、会えなくなるまでは、こうして触りまくるし、キスもしまくるからな」
先輩は私の耳元で蕩けるような声でささやいて、そのまま耳にキスをした。
恥ずかしいけど、やめないでほしい。
相反する気持ちが交錯することに戸惑いながら、でもそれもあと少しでしばらくおあずけになるんだなと気づく。
先輩がいなくなったら、寂しい。
いつか本当に、心まで離れていってしまうんじゃないかと不安にもなる。
でも。
寂しくても、不安でも、やっぱり私は先輩が好きだから。
この先もずっと、一緒にいて、甘やかされて、そして溺れていたい。
「私が行くまでちゃんと待ってて」
「うん」
「浮気しないで」
「絶対しない」
「会えたときはうんとかわいがって」
「はいはい」
「会えないときは」
「会えないときは?」
「会えないときは、せめて私のこと忘れないで」
そこまで言ったら、ふっと笑った先輩に抱きしめられて、優しく何度もキスされた。
そしてその2週間後、伊織先輩は東京へ旅立った。




