10 乙葉だけ
「私は、信じてるから」
「え?何を?」
「先輩の気持ち」
そう言って笑ったら肩に置かれていた先輩の手が一旦離れて、気づいたら先輩の腕の中に閉じ込められていた。
初めての温度と力強さに、怖いくらい心臓が高鳴ってめまいを起こしそうになる。
「乙葉」
妙に色気のある、蕩けるような甘い声が上から降ってきた。
「俺が好きなのは、乙葉だよ」
思わず見上げると、私の顔を覗き込む先輩の甘くねだるような瞳があった。
「乙葉が好きだ」
先輩はそう言って、愛おしげに、満足そうに顔をほころばせる。
「なんで2回言った?」
「大事なことだから」
初めて「好き」と言われた恥ずかしさをごまかすためにわざと聞いたのに、これまでとは比較にならないくらいストレートな熱を返されて私は何も言えなくなる。
「乙葉、瞳子のこと聞いたんだろ」
「トーコ?」
「俺が好きだったやつのこと」
あ、「トーコ」さんって言うんだ。
名前は知らなくてもよかったな、なんてぼんやり思っていたら、先輩はこれまでのことを話してくれた。
1年の時、一緒に文化祭実行委員になったこと。
だんだん好きになっていったけど、トーコさんは先輩の友達を好きになったこと。
そのあとトーコさんと先輩の友達はつきあい始めたけど、別れたりよりを戻したりを繰り返して、その度に先輩がトーコさんの相談に乗っていたこと。
トーコさんを蔑ろにしすぎる友達にキレてトーコさんが好きだと言ったら、何故か2人はよりを戻して今に至ること。
その2人に、ずっと振り回されて来たこと。
その「友達」が、私の聞いた話では「親友」になってると教えたら思いのほか憤慨して「あんなやつほんとは友達と思ったこともない」などと口を尖らせていた。
「確かに乙葉とつきあいはじめた頃は、瞳子のことまだ引きずってたかもしれない」
まるで自分自身を責めるような真剣な目つきをして、先輩は「ごめん」とつぶやいた。
「でも、もうどうでもいいんだ」
「どうでもいいの?」
「乙葉の方が、大事だ。ていうか、比べるまでもない。乙葉だけが好きだし、乙葉しかいらない」
…え?ちょっと、待って。
これ、ほんとに先輩?今までと違いすぎない?
今までの先輩は、そりゃ私に対して甘い戯言を数多く並べてはいたけれど、好きとかそういう決定的な言葉を言うことはなかった。
むしろ注意深く、そういう言葉を避けていたように思う。
だから先輩の気持ちを推し量ることができなくて不安になっていたし、先輩はまだトーコさんという人のことが好きなんだと思っていた。それなのに、目の前の先輩は決定的なことしか言ってない。
突然の供給過多に、私の思考回路はショート寸前なんですけど。
固まって何も言えないでいる私に、先輩が追い打ちをかける。
「俺多分、お前が思っている以上にお前のことが好きだよ」
「は?」
「今までは、乙葉が可愛くて、好きになりすぎて、でもそれでお前を傷つけそうで我慢してた」
「我慢」
「お前が可愛すぎて、独り占めしたくて、でも近づきすぎたらいろいろ止められない気がして、それで我慢してた。嫌われたくなかったし」
「はあ」
「だけど、それで乙葉に変な誤解されたり距離置かれたりすんのは嫌だ。だからもう、我慢も遠慮もしたくない」
何だろう。
先輩の熱量が、もはや私の許容範囲をはるかに越えている気がする。
「俺は今日から俺のやり方で、本気出すからな」
艶のある眼差しで見つめられ、私の機能は完全に停止した。
次の日の朝。
いつも通り昂ちゃんと2人で雅さんとの待ち合わせ場所に行くと、何故かそこには先輩もいたんで驚いた。
「え、なんで先輩が?」
「今日から俺も一緒に行くんだよ」
まるで今までもそうだったように、そしてさも当たり前のように先輩が答える。
「ほんとにさ、なんで今日から藤野も一緒なわけ?私は何の説明も受けてないし、話の内容次第じゃ全面対決も辞さないんだからね」
おっと、雅さんが朝から毒舌全開で、しかも相変わらずかなり物騒である。
鼻息の荒い雅さんを「まあ、まあ」と笑顔で制する昂ちゃんを見ると、どうやら今日この場に先輩がいるのは昂ちゃんの差し金らしい。
昂ちゃんと先輩との間で話がついて、先輩も一緒に登校することになって、でも雅さんは詳しいことを聞いていないからまだ納得してないんだろう。
話を聞いたところで納得してくれるかどうかはわからないけれど。
私ったら、先輩にも雅さんにもだいぶ愛されてるんだなと思ったら、知らず知らずのうちにニヤニヤしてしまった。
「ちょっと、乙葉ちゃん」
雅さんが私のそばに来て露骨に不満そうな目で先輩を見たあと(舌打ちもしたかもしれない)、困ったように首を傾げる。
「ほんとにこいつでいいの?しょうもない女のことをいつまでも引きずってめそめそしてたようなやつよ?」
「めそめそしてねーし」
「え、ていうか瞳子ってしょうもない女なの?」
昂ちゃんが調子に乗って横槍を入れる。
「しょうもないに決まってるじゃないの。何よ、あんな北斗みたいな女にだらしない不誠実の塊みたいなやつにしがみついてバカみたい。藤野の良さに気づかない時点で、見る目がないのよ」
…ん?
雅さん。「藤野の良さ」って言っちゃってる。
みんながこれまでの激烈な言動を振り返って微妙な顔になっているのを見て、雅さんがしどろもどろに言葉を詰まらせた。
「あ、あの北斗に比べたら、藤野の方がマシだっていうだけの意味よ。別に、いいやつだとか思ってないわよ。私は認めてないし」
ふふ。
毒舌の裏に見え隠れする雅さんの温かさに、つい頬が緩んでしまう。
「雅さん、ありがとう。大丈夫だから。ほんとに」
「乙葉ちゃんの『大丈夫』は全然『大丈夫』じゃないんだからね。わかってる?」
「うん」
「ほんとにもう。ちょっと、藤野!」
雅さんは振り返り、今度はその矛先を先輩に向けた。
「乙葉ちゃんがいいって言うから仕方ないけど、今度やらかしたらただじゃおかないからね」
「わかってるよ」
そう言うと、先輩はなんと2人の前で私を後ろから抱き込んで肩に顔を乗せ、うっとりとした甘い声で言い返した。
「俺は乙葉だけいればいいの」
「な?」なんて言って柔らかく微笑むから、私は呼吸もままならなくなって、ハクハクと口を動かすことしかできない。
うー。
先輩が甘すぎて、恥ずかしすぎる。




