side伊織 ②
つきあい始めてからも、俺と乙葉の関係はさほど変わらなかった。乙葉のことは相変わらず可愛いと思っていたし、大事にしていたつもりだった。
ただ、何かが違う気もしていた。というか、俺は自分の中に、瞳子には感じたことのなかった仄暗い何かを感じ取っていた。
乙葉が可愛い。
可愛くて仕方がない。
ずっとそばに置いて甘やかしたい。
俺だけが愛でて、俺だけを見てほしい。
その感情に名前をつけることができず、それでも押し寄せる抗いきれない何かに、俺はだんだん恐怖すら抱くようになっていた。
だから、知らず知らずのうちに何となく距離を置いていたんだと思う。
下手に近づいてしまったら、乙葉に向かう自分の気持ちがどんなふうに暴走するかわからなかった。そしてそのことで乙葉を傷つけ、乙葉に嫌われてしまうことが怖かった。
そんなある日、珍しく乙葉が体調を崩して早く帰ってしまった。
俺は心配ではあったが気になって何度も連絡してしまいそうで、だからすぐに返事をして、あとは何も考えないようにした。
乙葉のことになると途端に制御がきかなくなる自分の危うさに、我ながら怖気づく。
それなのに、そのまま何故か一週間も乙葉に会えなかった。体調は良くなって登校もしているらしいが、どういうわけか乙葉を見つけることができない。連絡しても何となく素っ気ない気がする。
何かあったんだろうかとか考えてたら、今度は連絡するのが怖くなってきた。
何か変なこと言ったか?
俺のヤバさがバレた?
もしかして嫌われた?
確かめたいのに、乙葉に会えない。
そのうち、俺が乙葉に会えないのは昂生や雅たちが何か画策しているからだと気づいた。頭に来て昂生に突っかかったら、「あとで生徒会室に来い」と言われた。
もう、文化祭前日になっていた。
昼休みに言われた通り生徒会室に行くと、渋い顔をした昂生が先に来ていた。
「これからお前に話すことは、多分乙葉から聞くことはないと思う。だから俺が話してやる」
昂生は何やら勿体ぶって、そして乙葉の小さい頃の話をし始めた。
乙葉は4歳のときに、昂生の家の隣に引っ越して来たそうだ。母親の影に隠れる、引っ込み思案な子だったらしい。
引っ越しとほぼ同時に母親の妊娠がわかり、ほどなくして父親の単身赴任が決まってしまった。しかも母親は妊娠中体調を崩して入院を余儀なくされ、近くに親戚もいなかった乙葉は隣の橘家に預けられることが多かったらしい。
数ヶ月の入院の後に弟が生まれたが、その弟は生まれてすぐ大病を患って、入退院の繰り返し。
その度に橘家に預けられる乙葉。
そうして、橘兄弟と乙葉は、本当にきょうだいのようにして育ったという。
「乙葉のお父さんは単身赴任中も毎週のように帰って来てたし、お母さんも乙葉を蔑ろにしてたわけじゃない。ただたまたま、タイミングが悪かっただけだ」
昂生は顔色を変えずに続ける。
「小さい頃の乙葉、最初はうちに来てもほとんど泣かなかったし、いつも大人しかったんだ。でも、時々夜になるとママに会いたいって泣くんだよ。それを見て、俺たち兄弟は子どもながらに乙葉を守ると決めた」
「兄弟で?」
「俺より兄貴の方が、よほど過保護だったよ。どこに行くにも乙葉を連れて行くようになった。乙葉も俺たちに懐いて、一緒に遊びまわるようになったしな。そうしてるうちにお父さんの単身赴任も終わり、弟の病気も良くなっていったんだ」
成長するにつれ弟の病気は回復し、今ではすっかり健康体になっているらしい。
「問題は、乙葉がそういう子ども時代のことを何でもないことだと思ってることだよ。仕方がない、大したことない、って多分思ってる」
「小さい頃のことだし、そんなもんなんじゃね?」
「お前バカなのか?」
聖人君子とも称されがちな生徒会長の昂生がそんな荒っぽい言葉をつかうのを、俺は初めて聞いた。
「あいつは、その『大したことない』と思ってる子ども時代のせいで自分が大事にされなくても仕方ないと思うようになったんだ。最初からどっか諦めてるんだよ」
「諦めてる?」
「人に何かを求めるのを諦めてるんだ。自分が人に求められる存在だと思ってないから。だからあいつは、お前に自分のことを好きになってほしいとは、言わないと思う」
「何が言いたい?」
「乙葉は瞳子のことを聞いたみたいだ」
俺は愕然とした。
乙葉と瞳子とのことを、今この瞬間まで結びつけて考えたことがなかったからだ。
3年生の間ではわりと知られている話だ。誰かから聞いてしまったに違いない。
それでなんかおかしかったのか。
ようやく合点がいく。
「お前がどうしようと勝手だけど、乙葉を傷つけるなら許さない」
昂生の目は、もはや怒りを含んで冷たかった。
瞳子のことは、確かにつきあい始めた頃はまだ引きずっていたかもしれない。でも、そんなのはすぐにどうでもよくなった。目の前の乙葉に心を奪われて、夢中になったからだ。
瞳子のことなんて、今更だ。考えることすらなくなっていたのに。なんで今になってまた瞳子に振り回されなきゃならない?
考えることが多すぎて、息をするのも忘れそうになる。
どうする?
どうすればいい?
どうすれば乙葉は俺の隣に戻ってきてくれる?
「悪いけど昂生」
思ったよりも掠れたような声しか出ないことに自分でも驚きながら、必死で続けた。
「乙葉とちゃんと話させてくれ」
「…話して、乙葉がもう嫌だと言ったら?」
そんな事態は絶対に回避する。
睨むように昂生を一瞥し、そのまま何も言わずに生徒会室を出た。
次の日、文化祭当日。
朝、ひとまずクラスでの準備作業に没頭しているときだった。
「そういえば藤野くん、この前藤野くんの彼女、泣いてなかった?」
同じクラスの実行委員、松原明日花が唐突に言い出した。
「は?いつ?」
「一週間くらい前かな?同じクラスの実行委員の男子と話してて、なんか泣いてたように見えて…。何話してるかまでははっきり聞こえなかったけど、途中で『速水』って言ってたような」
同じクラスの実行委員?桐生くんか?
しかも「速水」?
松原が言いたいことを的確に理解すると、その場で何が起こっていたのかピンと来た。俺は居ても立ってもいられなくなり、すぐさま乙葉のクラスに走った。
教室に行っても乙葉はいなくて、「生徒会の手伝い頼まれて、多分体育館にいると思います」と友達らしい子が教えてくれた。
今度は体育館に走った。
乙葉は入り口に背を向けて、生徒会のやつらと楽しそうに作業をしていた。
乙葉が、いる。
何故だかホッとする。
自分の視界に乙葉がいるだけで、やっと呼吸ができたような気さえした。
一週間ぶりにようやく会えた乙葉に、俺は声をかけた。
「乙葉!」
振り向いた乙葉は、驚いて、そして一瞬顔を歪めた。
戦慄した。
なんでそんな顔をする?
話しかけようとしたら、雅が間に入って来てまた邪魔をする。久しぶりの雅の攻撃は毒と棘に満ちていて容赦がなかった。
埒があかない。
俺は痺れを切らし、とにかく帰りにゆっくり話そうと約束してその場を離れた。
玄関で乙葉を待ちながら、本当に来てくれるか不安だった。だから乙葉が目の前に現れたとき、正直ホッとして泣きたくなった。
でも、話していても乙葉との間に距離を感じる。乙葉が俺との間に壁を作っていると感じる。
拒否られてるわけじゃないし手を伸ばして触れているにもかかわらず、俺の言葉は乙葉に届いていない。
瞳子のことを聞いても「何も知らない」と否定する。
訳がわからない。
どうすればわかってもらえる?
激しい焦りと苛立ちに我を忘れそうになったときだった。
「あのさ」
乙葉が顔を上げ、俺を見据える。
「私は、信じてるから」
「え?何を?」
「先輩の気持ち」
そのときの乙葉の表情を、どう表現したらいいんだろう。
うれしそうな、愛おしそうな、全てを包み、全てを許しているような。
そしてその瞬間、俺の中の、俺を雁字搦めにしていた鎖が砕け散った音がした。




