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人斬り無迅シリーズ

人斬り無迅と三途の使徒

作者: 田中一義

「信念とか。

 誇りとか。

 使命とか。

 魂、とかも。

 そんなものって、無迅にはある?」

 登山道の途中、山小屋があってリオはそこで宿を取っていた。いくつもあった山小屋の内、程度は下から3番目ほどの、そこまでケチるなら最低限で良さそうで、それよりマシなところが良いならもう少し宿賃を払った方が良さそうな、何とも損をしそうなところだった。

 そのせいか客などほとんどおらず、相部屋で雑魚寝しかできぬ客室もリオの他には痩せこけた老人しかいなかった。その老人はとうに眠っている。

 随分と夜もふけた時分だがリオは足が痛くてなかなか寝つけずにいる。そんな長い夜を辟易と横になって過ごしていたリオが、もう何度目とも分からぬ疑問を口にした。

「俺にゃねーな……。

 ああいや、澄刀があったか。こいつァ俺の魂よ」

 悪霊にして、人斬りの無迅が煙管をやりながら静かに答える。

「刀が魂って、どういうこと?」

「んなもん、口で言えるこっちゃねーよ」

「だって分かんないんだもん……。ただ大切っていうこと? 命を懸けるくらい?」

「まぁーたてめえはしちめんどくさいことを……。俺にとっちゃ、澄水てえのは、そうさなァ……。商売道具ってとこか」

「商売道具? 何か、それでいいの……?」

「ばっきゃろー、お前、俺の商売なんてえのはそれこそ命の取り合いよ。

 斬った、斬られた、殺したのやり取りの世で、刀がすぐに壊れちまっちゃあどうにもなりゃしねえ。二、三人も斬り殺したとこで刀ァ折っかけちゃ(しま)いでい。

 だが澄水は今の今まで、どんな扱いしようが刃毀(はこぼ)れ一つ、愚痴の一つもこぼしゃしねえ。こいつほど頼りになる相棒が他にいるかってんだ」

 言われてみてリオは初めて、澄水がいつ見ても美しい静謐(せいひつ)の刃を保ち続けていることに疑問を抱いた。しかしリオは他の刀と比較ができないので何とも分からない。

「だから澄水が魂だ。

 俺ァ、こいつがなきゃあ、たかだか十数人程度しか斬れずにおっ()んでたろうぜ。

 この刀みてえによ、何があろーがてめえを曲げねえでやらァと若いころにゃ奮戦したもんだ。今の(オイラ)があんのも、今の(オイラ)の在り方も、全部澄水のお陰ってなもんだ。

 そんで、こんなこと聞いててめえは何をうじうじと、空っぽの脳みそ働かしてやがるんでい?」

「……うん、その、何だかやっぱり、僕には分からないなって……」

「何が?」

「……例えば、死ぬと分かっているのに、自分より強い相手と殺し合いをしたいとか。……それが使命だから、なんて理由で逃げられそうなものを必死に抗って死んだり……。

 きっと生きていた方がいいのに、って思っちゃう。死ぬよりも、侮辱的でも生きることを選ぶべきじゃないかなって……」

 寝返りを打って、リオは壁に立てかけている白鞘の刀を暗がりでぼんやり見つめた。

「僕がビビりなだけ、かもだけど……」

「何言いやがるかと思えば下らねえ……あーあ、くーだらねーの」

「く、下らないってそこまで?」

「いーかァ、リオ坊よ。

 てめえん中にゃあ信念やら、魂やらなんてえのが見当たりゃしねえから必死んなって、悪いおつむで答え探してやがるだけだろう?」

 指摘されてリオは黙ってしまい、そうかも知れないと思い至る。そして、小さく頷いた。

「お前みてーなちんちくりんは、黙って斬り合いの五十や百もさっさと済ませちまえ。それから悩めるもんなら悩んでみやがれってんでい」

「何それ? 意味分からないよ……」

「ガキんちょにゃあ早え悩みってことでい。とっとと寝やがれ。んでもって、夢ん中で存分に死んじまえよ」

「……たまには、悪夢じゃない夢を見たいな……」

 そう呟いてからリオは目を閉じる。


 毎晩、少年は悪夢を見る。

 その夢には決まって、この人斬り無迅が出てくる。

 そして、稽古と称して立ち合った結果、ほんの数秒で痛みを伴って殺される。それが何百回と繰り返されるので、リオは悪夢であると称している。

 しかし地道ながらも、リオはそれを糧に成長はしていた。ただし、無迅という天性の人斬りの悪霊が稽古相手となるとその実感などが得られるはずはなかった。


 ▽


「うわ――ほんとに、町だ」

 2日にも及んだ登山の果て、リオを待ち受けていたのは高所より地上を見下ろせるような絶景ではなかった。

 だだっ広い、立派な町並みである。

 ずっと斜面であったり、石段であったりを歩き詰めてきたのに、もう真正面は平に均された地面と、区画整備でもされているのか、まっすぐ整然と伸びる道と、その両脇をびっしりと固める家屋がある。

「はあー……こら、立派だが妙ちきりんだな」

 リオの腰に差された澄水に宿る悪霊にして、自称・大剣客の無迅もまた少年と同調するような感想を漏らす。


 そこは天丘(てんきゅう)

 地上を治めた天帝の子孫である、天子がおわす都である。

 巨大な独立峰の頂上部分だけがバサリと真横に切り取られたかのように平になり、そこに築かれた大きな都だ。裾野からして広く、しかし、頂上部分に町が築かれるほどに巨大であるのだ。

 この天丘まで至る登山道は整備こそされていたが簡単な道のりではなかった。険しい道ならば距離は短いが、なだらかによく整備された道は歩きやすい代わりに2日も歩き続けねばならない。リオは後者のルートを辿ってきたが、大勢が天丘を目指し、また、天丘から降りていくという姿もあった。

 徒歩しかない交通手段の、この日の本の人間はどれほど皆して健脚であるのかと、何度も何度も休憩しながら登ってきたリオは思ったものである。


「それにしても……とりあえず天丘までは来ちゃったけど、これからどうしよ……」

 登山道で上がっていた息を整えるようにゆっくり歩き出してリオはそんなことを呟く。

 どんな地名も聞いたことがなければ、文明開化以前としか思えぬ木造建築と、着物姿ばかりの文明に終始している、見知らぬ日本――らしき場所に飛ばされ、早いものでもう半年以上は経過しようとしている。

 ひとまず天丘という地がこの日の本の中心地・首都めいた場所であるということを聞いて、トラブルに巻き込まれながらもどうにかやって来たのだが、ここへ来てどうすればよいかというところまでリオの頭は回っていなかった。

「決まってらァな、お()そんなもん」

 リオのボヤきに無迅がニタニタと笑みを浮かべながら答える。

「八天将とかいう連中がいるんだろ? 片っ端からたたっ斬ろうぜ、おい」

「却下」

「んなこと言うなって、リオちゃんよう。蛇の目だかって連中も愉しいが、あんなもんは所詮、何が目当てかも知れねえ野盗紛いの連中よ。だが八天将ってえのは、いわゆる大名みてえなもんだろ? 蛇の目であんだけやれるんならよ、八天将とかいう奴らの方がよっぽどの手練れに違いがねえぜ?」

 悪霊に肩を組まれて馴れ馴れしく、そんな提案をされるがリオはため息を漏らす。

 無迅は人斬りだ。どうしようもなく、人斬りである。

 斬って、斬られて、人を殺して、殺されかけて――そんな刹那の応酬で快楽を(むさぼ)り血をすする、破綻者だ。何度か同調することもあったが、しかし、平時においては物騒極まりない危険思想の人物でしかないと何度も何度も思わせられている。

 そして重大なことは、そんな悪霊には後先を考えるという思考回路が存在していない。

 万が一にでも八天将とかいう存在に遭遇して、斬り合いが始まってしまったとして、どう転ぼうがその後は大変になるはずだというのに、そんなことは完全に考えていないのだ。

 とても手に負えぬほど強くてその場で討ち死にするかも知れないし、逃げられたとしてもどこまでも追いかけられるかも知れない。万一、勝負に負けて命を拾えたとしてもその後に罪に問われて打ち首獄門ということになるかも知れない。そんな悪い想像ばかり働くリオに対して、無迅は何も考えていないとばかりにそういった事後や、もしもということについて触れない。

 結局、すでに体のない悪霊の身で、生きているリオの体を乗っ取ってたまの生身を満喫する無迅には、生死というものについてあまりにも鈍感すぎるのだ。――と、少年は考えている。

 ゆえに嘆息して何も言わない。答えなかった。


「おいこら、無視するんじゃねえやい」

「とりあえず旅籠屋(はたごや)を探そうかな……」

「それよか遊郭だ、遊郭。こんだけの都ならあるだろ。有り金はたいて遊びまくろうぜえ?」

「ゆーかく?」

「何だ、知らねえのか? 別嬪のお姉ちゃんに酌してもらってしこたま酒飲んだら、そのままねんごろになんだよ」

「……よく分からないけど、いいよ。遠慮しとく」

「カァーッ、これだからクソガキは……」

「悪霊の癖にクソガキ呼ばわりしないでよ……」

「だーから、(オイラ)は悪霊なんかじゃねえやい!

 天下にその名を轟かし、泣く子ははしゃぎ、悪党は小便ちびって腰をつく、天下無双の大剣客、無迅様たぁこの俺よ!」

「はいはい……」

「こんにゃろう!」

 とりあえず休みたいという一心でリオは天丘の都を歩きながら、懐事情と相談して泊まれそうな旅籠を探し始めた。


 ▽


「混浴じゃねえってんでがっかりしてんのか?」

「してないよ」

 旅籠屋に部屋を取ったが、風呂はないと言われてリオは銭湯へやって来た。道すがら、無迅はきっと混浴に違いがないと言いまくり、リオはもしそうであったら、と少し妄想に耽ったが、到着してみれば当然のように混浴ではなかった。

 番台の隣には二階へ続く階段があり、一階が男湯と女湯とにそれぞれ分かれている。

 昼間でも薄暗い、浴場と脱衣場とが一体化した男湯でリオは用意されていた籠に衣類や持ち物を突っ込んでから体を洗い始める。薄暗くて分からないが、どうやらお湯はそう綺麗ではないらしいというのを察してしまう。それでも体をただ拭くだけよりはマシだと自分に言い聞かせながら、ヘチマか何かを乾燥させたスポンジだろうかというもので体をごしごしと擦りまくった。これがまたごわごわしていて固く、汚れを擦って落とすというよりも皮膚ごとガリガリ削っているのではないかと思えてしまうものだった。

 浴槽のお湯は思っていたよりも熱かったが、首から下を熱いお湯に浸からせると気分は良かった。ほかほかに温まった体で湯を上がって着替えを済ませるとサッパリした心地で、随分と感じなかった穏やかな気分になる。

「お風呂っていいね……」

「けっ、こんなとこじゃなくて、おねーちゃんのいるような湯屋へでも行けってんだよ」

「二階に行く人が多いけど、何だろ?」

「あん? あー、こーいうとこは暇人の寄合所になってんだよ」

「暇人の、寄合所……?」

「気になるなら覗けばいいだろーが。どーせむさ苦しい野郎しかいねえだろうけど」

 無迅に促されてリオは番台横の階段を上がっていく。二階は宴会場のような広い畳張りの一間になっており、そこかしこで湯上りらしい男達が雑談をしていたり、将棋をさしたり、親に連れられてきたらしい子が暇そうにしていたりと、憩いの空間になっていた。

 しかし、リオには楽しめそうなものも、お喋りに興じる相手もいない。

 それよりも空腹を感じ、覗いただけですぐ引き返して銭湯を出ていった。


「しっかし、こんなお山の上だってえのによくもまあ都なんて作っちまったもんだな……。屋台まで出てやがらァ」

「あれって、何? おにぎり?」

「握り飯の上に何か乗せてるみてーだな」

 銭湯の近くにはいくつかの簡易的な屋台が出て客を呼び込んでいる。

 その内の1つにリオが近づく。湯上りらしい人がかじりついているのは、大人の握り拳大はありそうなサイズの米の塊だ。その上にはよく分からない柔らかそうな茶色の薄いものが乗っている。

「……早く帰ってご飯食べよ」

「食い歩きするって思わねえのがお前だな。なんにでもビビりやがって。やーい、腰抜けのビビりオカマ」

 からかうにしても程度の低い悪口をリオは聞こえないものとして宿までの道を歩き出す。

 人口がどれほど多いかは分からないが、これまでに見て来た人里よりもよほど大勢の人が溢れ返っている。時刻ももう夕方に近いころだというのに文字通りに油を売る主婦であったり、元気に通りを駆け回る子どもや、商売熱心に呼び込みをする売り子の姿がそこかしこにある。

 洋服というものはなく、誰もが着物を用いて、靴というものもなく、誰もが草履であったり、下駄であったりという履物を用いる。トタン壁さえもない木造ばかりの家屋。そんな時代錯誤にしか思えないものばかりの街並みであるが、リオは見慣れてきてしまっていた。アスファルトなんてない、地面が剥き出しで踏み締められている道も歩きなれている。

 自分の知る文明レベルにはとても遠いし、衛生的ではないと感じて苦々しく思ってしまうこともまだまだあるが――それでも、こうして町中にいると安心できた。草葉の陰から悪漢や凶暴な動物が出てくるんじゃないかと疑ったりする心配がないというだけでも大きな安心材料だ。

 天丘の都を眺めながらのんびり歩いていたリオは、不意に家屋の間から飛び出してきた子どもにぶつかられた。あんまりにも勢いよくぶつかられ、ひょろっこいリオは自分よりずっと背が低い子ども相手だったにも関わらず尻餅をついて倒れる。

「痛った……」

「はああ……ほんっとにだらしのねえ……」

「ごめんごめん、大丈夫、おにーさん?」

 額を押さえて呆れる無迅にむっとしたのも一瞬のことで、リオはぶつかってきた子が膝を押さえた前屈みの姿勢で声をかけてきて顔を上げた。すぐに立ち上がり、尻餅をついた拍子に帯から突き出てしまった澄水を元の位置に差し直す。

「大丈夫だけど、ちゃんと前見ないと危ないよ?」

「うん。その刀、かっこいいね。お侍さんなの?」

「お侍……いや、違うかな。絶対に違う……違うよ」

「じゃあどうして持ってるの? 見せて?」

「いや、あ、危ないからダメだよ。気をつけて歩くんだよ、じゃあね」

 それ以上、色々と質問攻めにされては困ると早々に見切りをつけてリオは腰の刀を握って押さえながら早足に歩き出す。

 が、男の子はリオの隣へくっついて歩いてきた。

 それに気がついてちらとリオが目を向けると、視線が合ってにこりと笑顔を浮かべられる。目を細めた、思い切り作りものの笑み――ではあるが無邪気そのものにしか見えない。無視するようにリオはそのまま歩いていくが、やはりまだついてくる。


「天丘の人? 旅人さん? 見かけたことないよね? 町内の人? 町外の人?」

「いやあの……」

「お名前は?」

「この小僧、よく見りゃいいとこの坊ちゃんとかじゃねえか? 着物が綺麗だし、ぞんがい、相手してやって小僧のとこへ転がり込めば宿賃浮くぜ?」

 案の定の質問攻めをされて困惑していたリオは無迅にどこまでも図々しい提案をされる。しかし路銀というものが潤沢ではない懐事情もあった。

「ねえねえ、おにーさん? せめてお名前くらい教えておくれよ」

「……リオ、だよ」

「りお? 珍しいお名前だね。僕はね、刀が好きなんだ。だから、ちょっと触るだけ。ちょっとでいいから、お願い、握らせて? 鞘から抜かなくてもいいよ。ね、ねっ?」

 人懐っこい笑顔で男の子がリオの前に回り、両手を合わせてお願いをしてくる。

 ちょっと触らせれば満足してくれるだろうかと思って、リオは腰から澄水を鞘ごと引き抜く。

「いいのっ? わ、わっ、ありがと、リオおにーさん」

「ちょっとだけだよ?」

「ガキんちょに触らせんのかよ」

 不満そうな悪霊は無視してリオはしゃがんで男の子へ澄水を渡す。感激したように両手で澄水を受け取ると、しげしげと眺めて、柄の何で汚れているのか分からぬ染みをじっくり見つめる。

「もういい?」

「ありがと、おにーさん。――あんまりちょろいと、もっと痛い目に遭うから気をつけてね?」

「うん?」

 にっこりと笑顔で、白い歯まで見せた男の子の眼が――瞳が赤かったことにリオはその時に気がついた。宝石か何かのように赤く、煌めくかのような光をたたえる瞳に、ぞっとした悪寒を抱く。

「あれ――効かないんだ。しょーがないなあ、じゃあ追いかけっこしようか。ここまーでおーいでっ」

 一瞬、気が遠退きかけたリオだったが、鼓動が速くなった程度で、あとはどうということもなかった。だが確かにあった悪寒に呑まれかけてもいた。眩暈がしたかのような奇妙な感覚を味わっていた間に、赤眼の男の子が澄水を持ったまま往来を走っていく。

「おいこら、しゃんとしろってんでい! ガキに刀ァ持ち逃げなんざ恥ずかしいにもほどがあるぞ!」

 この悪霊に恥という概念があったのかと思いつつ、リオは楽しそうに駆けていく男の子を追いかけた。


 ▽


「な、何ここ……お社……?」

「あの小僧、ここまで随分距離あったのに、撒こうとしてた感じはなかったな。むしろ最初っから、ここに誘き寄せようって(ハラ)にしか思えねえ。ガキんちょだが、ただの悪ガキでもなさそうだな……」

 ひたすら追いかけて走らされ、男の子が駆け込んでいったのは天丘の外れだった。少し斜面を下っていったので厳密には天丘ではないのかも知れないと思いつつ、そっとリオは小さな鳥居から境内を覗き込む。

 参道は細く、すぐ左右が雑木林になって広がってしまっている。夕刻ということもあって鳥居の先は薄暗く何か出てきそうな暗い雰囲気が立ち込めてリオには気が引ける場所だった。

「ま、結局はガキんちょだ。さっきみてえにぼーっとしてなきゃ拳骨食らわして終いだろ。折檻(せっかん)してやれ。泥棒働きなんぞするもんじゃねえってな」

「でも……一瞬だったけど、変な、何かされた感じは、あったよ?」

「あん?」

「ほら、効かないんだ……とか何とか、あの子、言ってたでしょ? 背中がぞくぞくしたっていうか」

「ああー、そうなのか? (オイラ)ァなーんも分かんなかったけどな」

「気のせい……? じゃ、ないとは思うけどなあ……」

「ま、気ィ引き締めて悪いこたねーだろ。とっとと捕まえちまえ」

 促されてリオはそっと鳥居に踏み入り――瞬間、周囲の光が失せたように暗くなった。

「ひっ……!?」

「ほおー? こりゃ、どーいうこった?」

 ぼうっと参道の両側に感覚を置いて青い炎が灯る。背後を振り返るとくぐったはずの鳥居がなくなっていて、さらにリオは息を飲んだ。

「何これ、何これ何これ……!?」

「だーから、すぐビビんじゃねえっての。いわゆる異界みてえなもんじゃねえか?」

「いかい?」

「そんなのも知らねーのかよ……。簡単に言えば、あー、この世とあの世があるだろ?」

「あの世ってあるのかな……?」

「ある、ある。多分な。んで、ここはそのこの世以外のとこって感じだ。分かったら、とっとと歩け。足元が抜けたわけでもねえだろうが」

 あんまりにもぶっきらぼうだが、それが今は少しだけ頼もしく、リオは恐る恐る歩き始める。

 そうしながら、ふと――無迅が言う、この異界という不思議現象を引き起こしたのが澄水を持ち逃げした子ではないかと考えてしまった。

「ね、ねえ……もしかして、すごく、これって危ない状況? ここ、あの子の……その、何か、だったり?」

「十中八九な」

「ええっ」

「けど面白えじゃねーの。ただの小僧以上ってわけだぜ? 斬り甲斐があらーな」

 あんなに小さな子まで斬って捨てようとするのかとリオは無迅の人を選ばなさにドン引きをする。

 と、すぐに小さな社が見えた。

 そこには先ほどの男の子を含め、3人が小さな本殿の前でリオを待ち受けていた。

「やあ、おにーさん。また会ったね。じゃじゃーん、ビックリさせようと思って。みーちゃんも連れてきたよ?」

「その呼び方はよせ」

「お前――」

 そこにいた3人の内、2人はリオの知る顔だった。

 1人は無論、澄水を持ち逃げした男の子だ。しかし風貌は変わっていた。顔と赤い目だけは変わっていなかったが、白い水干に括り袴姿というものに服が変わっている。髪もオレンジ色に近い赤色になってしまっていた。

 そして小さな本殿の階段に堂々と腰かけていたのは、かつてシャガという妖刀を巡って、リオの肉体を使って無迅が斬り合った男だった。白い装束に下緒のついた刀を佩き、左目を黒い皮の眼帯で覆っている。

 あとの1人は女だったが、腰に大小2本の刀を差し、長い髪を頭の後ろでまとめている背の高い人物だ。釣目がちの鋭い眼差しをリオに注ぎ続けている。体格や、目つきの鋭さから、美麗な男かとも思えてしまったが控えめながら胸元が膨らんでいるので女だろうとリオにも分かった。

「じゃあ、改めまして……こんにちは、リオおにーさん。

 僕は血途(けつず)一颯(いぶき)

 彼は火途(かず)巳影(みかげ)

 彼女は刀途(とうず)(めい)

 僕らは蛇の目の一員だ。皆で三途(さんず)使徒(しと)と名乗ってて、蛇の目の頭領がいるんだけど、その直属の重臣みたいな立ち位置、かな。うちの頭領ってあんまり頼りにならないんだけどね」

「べらべらとお喋りするのは性に合わぬ」

 鳴と紹介された背の高い女が一颯が手にしていた澄水を取り上げてから、リオの方へ投げ寄越した。慌ててリオが受け取ると、女が腰に差していた大小の刀を抜く。

「鳴ちゃん、短気だものね。ま、ともかくさ。

 おにーさん、早いところ無迅という悪霊さんを出しておくれ?

 みーちゃんがね、シャガは惜しいけど、大剣客の無迅っていうものが少なくとも同等には価値があるっていうから、すっごく気になっているんだ」

「だ、出せって……何を、するつもり?」

「何? 何、か……。程度を確かめて、有用ならもらおうかなーって」

「もらう……?」

「無駄口はいい、抜け。一颯の結界から逃れることはできぬぞ。大人しく立ち会え。さもなければ、すぐに死ね」

「ほんっと、短気」

 やれやれとばかりに一颯が肩をすくめる前に、鳴がリオに斬りかかっていた。


 白刃同士がぶつかり合って小さな火花を散らす。

「――美人に求められちゃ、出てこねえわけにもいかねえよな」

「お前が無迅とかいう剣士か。その腕、はからせてもらう」

「腕だけでいーのかァ? (オイラ)ァあんたのその胸とかしっかり押さえときてえがな」

 リオの体を勝手に無迅が奪い取り、澄水を抜いて刀途の鳴と切り結び始めた。

 振り下ろされた刀を無迅が澄水で受ければ、すかさず脇差が繰り出されて身を引く。自由になった打ち刀が無迅の足元を刈り取らんばかりに低く振るわれたが、無迅は繰り出されていた脇差を握る鳴の手首を掴んで強く引くことで姿勢を崩して阻止してしまう。

「おうおう、女の癖して背も高けりゃ、力も強えな」

 警戒するように無迅が距離を取りながら鳴に声をかける。

 舌打ちをしてから鳴は二本の刀を握り直した。

「どうだい、鳴ちゃん」

「特別ではない。だが、この小僧のように誰しもが、この男を憑依させられるのであれば有用だ」

「おいこら、さっきまでお前、やる気満々だったろーが。駄弁ってんじゃねえ」

「鳴、甘い。殺すつもりでやれ。でなければ、その大剣客の真価は分からん」

「あとお前、次は斬る約束だろ? のんびり構えてんじゃねえよ」

「本当はそのつもりだったが、うるさいのに捕まってな……」

「それって僕のこと? みーちゃん、うるさいだなんて思ってたの? とっても傷つくよ……」

(オイラ)が言うのもなんだが、緩いんじゃねえか、お前ら?」

 無迅に体を奪われて、体の感覚を共有しながら何もできずにいるリオは本当にこの悪霊が言えたことではないとも思った。

 しかし、三途の使徒と名乗った3人はいずれも無迅でなければ手に負えない存在とも悟ってしまっている。

 火途の巳影と無迅は一対一で堂々と斬り合いをしたわけではなかったが、一進一退のままであった。

 刀途の鳴という女はまだ底が知れないが、巳影と同等と考えれば十分に難敵である。

 そして血途の一颯と名乗った子は、まだ直接的な脅威を見せられたわけではないが、どこかおぞましさをずっと感じ取ってしまっている。むしろ、巳影や鳴よりもリオは一颯が怖かった。見た目は子どもでしかないはずだというのに、それさえも怖くなってしまう。

「仲良しなんだ、僕らは。ねー、みーちゃん、鳴ちゃん?」

「違う」

「黙れ、一颯」

「……ね? 仲良しでしょ? 遠慮というものを知らないからね」

 否定されているのに、一颯はあっけらかんと言う。

「そりゃ、都合良くてめえがそう思いたいだけだろーよ、クソガキが」

「鳴。まだお前は真価に触れていない。もっと追い立てろ。どうせ一颯の結界の中だ」

「真価か。欺瞞(ぎまん)であれば斬り殺すぞ」

「やってみろ、焼き殺してやる」

 もしかしたら、実は仲良しではなかろうかとリオが静かに考えていたら、鳴が打ち刀を無迅へ向ける。

「女だろーが手心加えてやんねーぜ? (オイラ)ァ、どーせなら、布団の上で存分にヤッときたいがな。どーよ、チンポはともかく技はあるぜぇ? あんあんいくらでも言わしてやらぁーな」

「黙れ。軟派な男などに興味はない」

「そーいうお堅い女も好きなん――うおっと!」

 踏み込んで真横に振られた刀を無迅は顎を引いて、最小の動きで見切ったように躱す。

 そうしながらニタニタと笑みを浮かべ、澄水を握った手をくるりと回した。

「女とヤんのも悪かねえが、やぁーっぱ手練れとなら斬り合いか。おら、出し惜しみしてんじゃねえやい。どーせ妖刀やら、火ィ吹く刀やら持ってんだろ? おっぱいの代わりにそいつで満足してやらァ、とっとと見せやがれってんでい」

「死んで悔いるがいい」

「ハッ、とっくに死んでる身でい」

 鳴が抜いていた刀を二振りとも鞘に納めると、打ち刀の柄に手をかけながら前傾の姿勢を取る。居合いをしようかというような構えだが無迅はその程度のはずがないと見透かすと、普段のリオであれば絶対にしないような悪どいような笑みで口元を歪める。

「何がおかしい?」

「いんや? これから何かするぜって丸見えなもんでよォ。このまんま、(オイラ)が口笛でも吹いて待ってたらずぅーっとその構えのままでいるもんかと思ったら笑けてくるぜ」

「……腰が引けたか。大剣客などと(のたま)ったらしいが、とんだ大剣客がいたものだ」

「ハッハッハ、言うじゃあねーの。だがよォ、そりゃお前の見識が狭いってえだけだぜ。女なんてのは刀を持とうが、どんだけゴツかろーが所詮は女よ。どんだけ立派に見えようがそー見えるだけだ。んな物騒なもん放り出して、早く抱かれに来いってんだ。ほら、リオ坊だろーがお前みてえな女を最初に抱けばちったあ男としての自信がつくってなもんだ。どーせしたこともねえのは分かってっから素直になりやがれってんでい」

 軽薄で助平な無迅の本音とも取れた発言であるが、それがただの挑発だというのは明らかであった。巳影も一颯も、彼女が煽られるままキレるまでは安い挑発の文句だと思っていた。

 しかし、挑発と理解しながら彼女は、尚もキレた。

 鳴は女であるが、女らしさというものを捨てている。

 凡百の男などよりもよほど強く、賢く、何より残忍で、力を有している。

 蛇の目の幹部である三途の使徒という立場もあり、彼女を女だと侮る人間は今の彼女の周囲にはいなかった。それが彼女の自尊心の一端でもあった。――だからこそ、であった。

 堂々と女であるというだけの侮辱をした無迅に彼女は瞬時に湯が沸いたかのように熱くなって、刀を抜き放った。

 それは巳影と一颯には驚きであった。あの鳴がこうも簡単に怒りに身を任せてしまうとは、という無迅の見事な挑発への驚きだ。これを計算でやって見せたのか、口から出るままに煽ったのかまでの判断を彼らはつけられなかったが目論見に対する結果としては最上であった。

 ただ相手を怒らせる、という一点だけでは。

 何が出てくるか分からぬのに、まして刀途の鳴という女を激昂させることは危険行為であると2人は知っていた。


「ズアアアッ!」

 彼女が怒りを乗せた裂帛の気合いとともに刀を打ち抜く。

 すでに一度見切った刀身では決して届くはずのない距離であったのに、彼女が刀を抜き始めた。それを見て無迅は反射的に澄水を振り上げ、本来はぶつからぬはずだった刃を擦り上げる。最早、反射神経ではない、直感の領域にある反応だったがそれがリオの命を繋いでいた。

「そいつァちと、良かねーなァ」

「消えろ、クソガキ!」

「体は借り(もん)だってんだよ!」

 百刃というのが彼女の持つ刀の名である。

 それは文字通りの、変幻自在の刀だった。

 怒りのままに彼女が振り抜いた刀は巨大な刃となっていた。長さはゆうに六尺はあろうかというほどで、刀の幅も一寸はあろうか。それは無迅をもってしても――不意打ちというのもあり――擦り上げるだけで精一杯であった。

(なぁるほど――先に刀を鞘に引っ込めたのは間合いを誤らせて一度に叩き切るってえつもりだったのか。先に何の変哲もなさそーな刀ァ振り回したのもこの仕込みの一環か。この女、やっぱ冷静沈着を装って、そうあろうとしちゃいるが、中身はとんだ猪女だな)

 口ではへらへらしていながらも無迅は斬り合いにおいては常に冷静に相手を観察する。

 それは無数の斬り合いを経て自然と生き延びるために身につけてきた技術の一端だ。いつしか、無迅の眼にはある程度、注意深く観察すればそれがどんな人間かというものまで何となく分かるようにまでなっている。

「ウゥゥッ!」

 人語を忘れたかのように鳴は巨大な刀を振り上げ、無迅がさらにニヤリと笑みを浮かべてしまう。彼女が振り上げた瞬間、刀が異様に、無迅に言わせれば阿呆かと思うほどに高く高く天へと伸びたのだ。それが落ちてきて無迅が横へ転がる。塔でも崩れて落ちてきたかのような衝撃が地面を駆け巡って、参道の石畳がまっすぐ粉砕された。次の瞬間、壁のように太かった刀がしゅんと細くなり、その鋭い刃が無迅の転がった方へと振り切られる。

「そんなのもできんのか!」

 歓喜したように無迅は叫び、己に迫った刃の下を潜り抜けた。リオの小さな体を活かして、猫か何かのように地上30センチほどを切り裂く長大太刀の一撃の下へ身を伏せたのだ。即座に無迅が鳴へ斬りかかるが、巨大だった刀が手元に吸い尽くされるかのように体積を現象させ、十手となって澄水の刃を受ける。

「よぉぉ~、ねーちゃん、いーい顔してんぜェ? もっともっと本気出せって。そんなもんじゃねえんだろ?」

 澄水を受けたままの十手を鳴が振るうと、百刃が鍔から無数の刀剣を伸ばした。さながら松の葉が刀剣に置き換えられて急速に成長したかのような光景だった。その勢いに無迅は押し飛ばされていったが、迫出てくる刃の先端へ澄水を合わせたままで刺し貫かれることもなく切り抜ける。

「もっとイケんだろ? これしきじゃ満足できねーぜェ!」

 怯むどころか、無迅は百刃の前に大興奮をしていた。

 次々と形を変えながら襲いくる刃をいなし、躱し、受け止め、薙ぎ払いながら無迅は飛んで跳ねての連続をしながら目を見開いて夢中になっている。


 その凄絶を極めんとするかのような苛烈な攻防を眺めながら一颯が口を開く。

「へえ――関心しちゃうね。巳影、大剣客という自称は酔狂じゃないらしい」

「お前が関心というのは珍しいな」

「まあね。彼の力は、鳴の持つ肉体の強度というものや、きみの神器を使いこなす天性の勘や、僕の妖力といったもの、そのどれとも異なる。人が磨き、練り上げた技の粋を集めたものだ。だからあんなに華奢な弱い体であっても、胆力だけあればあんな風にして鳴と斬り合えてしまう。あれは人が辿り着ける、一つの極地に至った剣士と称していい。きみの目はやはり正しい。巳影、偉いね。よしよし、いい子、いい子」

「やめろ、気色の悪い」

「えー、酷い言い方をしないでもいいじゃないか」

 見た目こそほんの童にしか過ぎない一颯であるが、彼が鳴が生まれるより前から、ずっと年を取らぬ容姿でいることを知っている。巳影とて10年ほど前に一颯に誘われて蛇の目に加わったが、その当時からまったく成長をしていない。その中身がどれほどの老齢であるかは誰にも分からない。

 中身が何十歳――あるいは、何百歳とも知れぬ癖をして、いつまでも童の姿を保つ一颯という鬼の振る舞いに巳影はたまに嫌気が差す。だが、彼は蛇の目の実質的な頭目も同然であるのだ。

 三途の使徒は蛇の目の最高幹部であるが、肝心の頭領を巳影は見たことさえもない。あるいはそんな存在はなく、一颯が実はその存在ではないだろうかと疑念を抱くこともあった。

 立場は同じであると一颯は言うが、実際には巳影と一颯の間には明確な壁があるかのように実力の差を感じてしまうこともあった。鳴とて一颯と比べれば万に一つしか勝ち目はないだろうと巳影は見ている。

 その一颯が、人の極致に至った剣士と無迅を称した。

「一颯。無迅はお前と比べればどれほど強い」

「妙なことを尋ねるね、巳影」

「答えろ」

「さあ、比べてみないと分からないことじゃないか。

 だけれども、試したいとは思わないかな、僕はね」

「何?」

「きみらみたいに、僕は人を殺したとか殺さないなんてこと、どーでもいいんだ。

 だから僕の興味は、大剣客くんより、むしろ依り代のリオくんかな」

「……あんな小僧が何だという」

「ふふ、分からない? ま、そうだよね。みーちゃんには分からないか。

 あの子さ、健気じゃないか」

「健気……?」

「うん。ついつい、虐めたくなっちゃうくらい健気だ。かわいいよねえ」

「……どこまでいこうが、所詮は鬼か」

「ヤダな、僕は鬼なんかじゃないよ?」

 見え透いたことをよくも(うそぶ)くものだと巳影は鼻を鳴らす。

 一颯は鬼であると巳影は以前、鳴に聞いたことがあった。一陣の風を意味する一颯という今の名乗りは本人の思いつきによって改めたもので、かつては威吹鬼なる字が充てられていた、と。読み方は何も変わらないのにそう字を変えた理由を「こっちの方が怖がられない気がする」などと宣ったらしいとも聞いた。

 結局、鬼が人の童の真似をしているだけの存在である。

 だからその真意などはかりようがなく、誰からも理解はされない。それに一颯は気がついているのか、いないのかさえも誰も分からない。

 ハッキリとしているのは一颯というのは鬼であり、妖術を扱う存在であるということのみだ。


「あの自称・剣客さんの実力は分かったし、あれが自在に扱えるならすごくいいことだ。

 けれどまだ、分からないことが多すぎる。

 刀にあの力が宿っているのか、刀はただ依り代として利用されているだけなのか。

 そしてそれが、刀の力によるものか、あるいは剣客さんの力によるものか。

 前者ならただもらえばいいけれど、後者であれば利用価値はないに等しい」

「利用価値がない?」

「だってどう考えても、彼は僕らに迎合しないよ。

 むしろ相手取って今、鳴としているように斬り合いたいと考えるだろう」

「ならば廃棄か」

「喜ばないでよ、もう」

 いきなり心の機微を指摘され、巳影はやはり一颯は鬼であると考え至る。

 刀を回収する理由がなくなるのであれば無迅と存分に殺し合うという口実ができる。それは巳影の望むところであったが、まだ、そこまで考え至ってはいなかった。だが間髪入れずに指摘され、その想いが膨れてしまう。一颯は人の感情をこうも敏く、本人さえ至っていなかったものを感じ取ってしまうのだ。

「切り捨てるのに不都合があるとは思えんが」

「僕にはあるのさ」

「あの小僧に執着するのか?」

「そうさ? 刀よりも、むしろ僕はあの子が気になる」

「大した力になるとは思えん」

「そうだね、きっと、このままじゃあせいぜい、鳴ちゃんのいっぱいいる部下の1人になら紛れ込めるという程度だろう。けれどきっかけがあれば、とっても面白いことになるんじゃないかな」

「鬼畜生の考えなど分からん。蒐集せずとも良いのであればそれまでだ」

「鳴ちゃんもみーちゃんもほんと好きだよねえ、殺し合い……何がいいんだか、正直分からないね」

 はあ、と一颯が大袈裟に嘆息する。


 無迅は依然、鳴と斬り合い続けている。

 鳴の振るう百刃がどのような形状を取ろうと、まだ致命的な一撃も、行動に支障をきたす重傷さえ与えられてはいなかった。しかし同時に無迅もまた、鳴に大した手傷を与えられてはいなかった。

「何でい、何でい、思ったよりもまともじゃあねーか。ま、火ィ吹く剣やら、シャガやらの方がよっぽど上等ってことでいいのかァ?」

「猿が……」

「へっ、人がお猿になったってえのも知らねえのか?」

「貴様が猿のままだと、言っている!」

「猿よか劣る畜生がのたまうじゃねえの!」

 百刃が薄く長い刃となった。その薄さが鞭のようにしなりながら無迅へ迫り、これを払いのけながら前進する。鳴が百刃を引くと短い刀となって迫りきた無迅の澄水とかち合った。刃を合わせながら互いが押し込もうとし、先に無迅が引く。これを鳴が百刃を槍のような長い剣に変えて突き込む。体移動ではなく刃そのものが伸長される速度も加えられる。通常、呆気なく体を串刺しにされるはずであるが、あろうことか無迅はその刃を横から素手で叩いて軌道を逸らし、鳴の側面へ回りながら澄水を振るい上げた。

 今度の一撃は逆袈裟に斬りつけ、少なからぬ傷を負わせるには十分なはずであったが、鳴が脇差を抜いていた。鞘から抜ききらずに澄水を受け、それから振り切った。顎を引きかけたが無迅は大きく、身をのけぞらせるようにしてその軌道から身を外す。

「勘の良い――」

「何でい、二本一対か」

 脇差もまた、その刀身が質量保存の法則を無視して延伸されていた。

 後ろへバック転をするように跳ぶ無迅に、鳴が百刃の片方を投げつける。

 顔面を弾かれるようにして無迅が飛ばされる。顔に手斧となった百刃が刺さっているようで、鳴の位置からは後頭部しか見えない。

「ふんっ、呆気のない終わり方だな」

 どさりと地面へ転がり横たわった無迅に鳴がまだ収まらぬ怒りを含めながら吐き捨てる。死に顔を踏んでやろうと彼女は近づいたがそれを制する声がした。

「いや、まだ終わってないよ、鳴ちゃん。狸寝入りまでしちゃうんだね、剣客さん」

「……何でい、分かってやがってたのか」

「貴様、どこまで愚弄する」

 むくりと無迅が起き上がって鳴を振り向くと、口に斧を咥えていた。歯で噛み止めていた。斧を捨てると、切れていた唇の端を指でなぞり、ぺろりと舐めてから、口の中をもごもごと動かして衝撃で折っかけた歯を数本まとめてペッと吐き出す。

「お、運がいいな。こら、まだガキの歯だ。まだ生えてくらァ。リオ坊がガタガタうっせえからよう、あんまり傷作っちまうと」

「鳴、替わろう。頭に血が上っていちゃ、荷が重い」

「片目になったばかりのお前でも荷が重いのに変わるまい。中途半端で手を引けるか」

「だったら、てめえら揃って相手してやらァ。来いよ」

「それはさすがに、僕の結界が保たないだろうからやめてほし――」

「早い者勝ちだ」

「良かろう、遅れは取らん」

「え、本気なの? やめて、やめて。ねえちょっと、剣客さんもただの挑発でしょ? 困るでしょ?」

「よっしゃ、愉しくなってきたなァ!!」

「百刃、戻れ!」

 鳴が呼ぶと無迅の足元に転がっていた手斧が彼女の手へ回転しながら飛んで戻った。

 同時、巳影が刀を抜き放つと赤い炎が溢れ出して無迅に襲いかかる。


「やめてって言ったじゃないか」


 闇に閉ざされていた結界内に突如として無数の赤い目が現れた。

 炎が掻き消され、無数のまん丸の目が赤く輝きを強めると無迅も、巳影も、鳴も、同様に地面へ押し倒される。

「ぬぐ、ぐぎ――!」

「一颯ッ、邪魔をするな!」

「だーかーら、やめてってば。ここは僕の結界だ。

 喧嘩は上等だけど言うこと聞かない悪い子は嫌いだよ」

「てめ、え……鬼の類か、クソガキ」

「僕は一颯だとさっき名乗ったろう? もういいよ、剣客さん。とりあえず刀はもらうし、リオおにーさんももらう。でも、剣客さんは不要だ」

「ハァ……? ふざっけんじゃ、ねえぞ、クソガキが。この程度の重さで、う、おおっ……!?」

 両手を突いて体を起こそうとした無迅が、さらに重さを感じて地面へ縫いつけられるかのように潰される。

「鳴ちゃんもみーちゃんもしばらく反省!」

 ぷりぷりと怒りながら一颯は重力にもがく無迅へ歩み寄り、顔の近くでしゃがむ。

「そういうわけだから、剣客さん。幕引きだ」

「へんっ、(オイラ)ァとうにくたばってる身だぜ。一体どーするってんだ? そもそも澄水は(オイラ)の魂そのもんだ。刀だけもらって、(オイラ)だけ捨てるなんざァできやしねーと思うがな」

「構わないさ。澄水というんだね。そんな刀、いらないもの」

「てめっ――」

「おやすみよ、剣客さん。いずれ機会があれば2人と存分に斬り合えばいい」

 無迅に見えるところで一颯が片手で印を結ぶ。

 鬼の赤眼が輝きを発し、無迅は意識が遠退くのを感じた。

 同時にずっと体を無迅に操られていたリオも意識をぽとりと落とすのだった。


 ▽


「――っ」

 ハッと目が覚め、リオはすぐ体を起こして周囲を見た。

 見知らぬ広い部屋に布団が敷かれて寝かされていた。いつもそばに置いていたはずの澄水がないことと、悪夢を見なかったことで逆にぞっとする。

「む、無迅? ねえ……? その辺にいないの? ねえってば……!」

 どこにも澄水はなく、リオが呼びかけても何も反応はない。

 布団から出てリオは襖に向かおうとしたが、手をかけようとしたそこがいきなり向こうから開かれて尻餅をつく。

「やあ、起きたんだね、リオおにーさん」

「き、きみ……刀、澄水はどこっ?」

「あれならみーちゃんにあげちゃったよ」

「……あ、あげちゃっ……」

「でも抜けないみたい」

「そ、そうだよ。僕じゃないとあれは抜けない。お願い、返して」

「いいよ」

「えっ?」

「入るね。さ、座った、座った。おざぶがここにー、あったあった」

 一颯が部屋に入ってきて押入れを開け、座布団を2つ出して畳に置く。その一方を勧められてリオが座ると、向かいに一颯が腰を下ろした。

「おにーさんに澄水を返すためには、僕からのお願いを聞いてもらわなきゃいけないな」

「お願い……。交換条件っていうこと? 何をしろっていうの……?」

「僕と一緒に、天子の暗殺」

「暗さ――て、天子って、だって、ここで一番偉い人じゃ……」

「そうさ。そうしたら、地上は2つに1つの道を辿る。八天将同士の国盗り合戦か、あるいは八天将が協調して仇討ちのために蛇の目狩りを始めるか。どっちでも面白い」

「……そ、そんなことしたら、う、打ち首獄門で殺されちゃうよ!」

「まさか。殺されやしないさ。大丈夫だって。ちゃーんと、おにーさんのことは僕が助けて守ってあげるから」

「それに、この天丘にだって、八天将とかって人がいるとか、言うし……」

「うん、八天将筆頭の亥然(がいぜん)という男がいるよ。けれどみーちゃんや鳴ちゃんがいる。作戦は簡単さ。まずは都に火をかけ、住民を皆殺しにしていく。亥然が出てきたら、みーちゃんか鳴ちゃんが相手取り、あとは手薄になった天子の宮へと踏み入るだけ。簡単だろう?」

「簡単って……そ、そもそも、どうして僕がそんな手伝いを」

「だーって、おにーさん、そういうのは嫌でしょ? 嫌なことをするから、見返りになるんじゃないか」

「っ……」

「刀が欲しければ、お手伝いをしてよ。でもおにーさんは切った張ったの殺し合いなんて好きじゃあないでしょう? 分かってるつもりだよ、僕は。だから、断ったって構わない。素直に帰してあげるよ。どうする、おにーさん?」

 にっこりと一颯が笑いながら問いかけてリオは苦悶の顔を隠せなかった。

 無迅が勝手にすることでなく、あるいは巻き込まれて自分が殺されそうだからという理由があるわけでもなく、自分から進んで他人を害さなければならない。それはリオにはとてつもない拒否感を伴うものだ。

「澄水がなきゃ、僕なんか、ただの……無力な、一般人だよ。それなのに、手伝えなんて言われても」

「大丈夫さ。これまで、蛇の目が蒐集した神器から良いのを貸してあげるから。それさえ見ればきっと、できるって思えるよ。あ、見た方が早いかも。おいでよ、おにーさん」

 澄水を取り返さないと逃げたところで先がない。

 促されるままリオは一颯の後ろについて部屋を出た。

 随分と大きな屋敷のようだと廊下を歩きながらリオは思う。襖ばかりが並ぶ廊下は随分と長い。

「ここって、一体……」

「天丘にある、蛇の目の隠れ家……といったところかな。まさか、亥然もこう堂々と居を構えてるとは思っていないんじゃないかな?」

「隠れ家……」

 想像以上に蛇の目というのが大きな組織なのだということを体感させられてリオは思わず唾を飲む。廊下をするすると歩いていき、辿り着いた部屋で一颯は敷かれていた畳を一枚剥いだ。すると畳の下には、板戸がはめ込まれており、それを開くと階下へと続く段差の急な階段が現れる。

「おいで」

「……じ、神器、って何?」

「うん? ああ、ほら、みーちゃんや鳴ちゃんが持っていた刀であったり、おにーさんの澄水であったり……そういう、特別な力を持つ武具の総称だよ。ここは隠れ家で、そう多くを収蔵しているわけではないけど、たまに天丘は掘り出し物が手に入って珍しいものもあるんだよね」

 階段を降りながら一颯がパチンと指を一度鳴らすと青い炎が階段の先に灯って光源となる。階段を降りた先は意外に広さを感じる倉庫のような場所で妖しい青い炎に照らされながら、壁一面に様々な武具が飾られるように収められていた。

 刀掛けに拵えがそれぞれ異なる刀が配置されていたり、鞘に納めたままただ壁へ立てかけただけというものもある。穂先が剥き出しの古そうな槍であったり、壁に打ち込まれた杭に弓や矢筒、弓懸が一緒くたに吊るされたりもしている。隅には赤い面までつけた大具足が鎮座し、何となくそれがシャガを髣髴(ほうふつ)としてリオは身の毛がよだつ。

「これ、全部……神器とかいう、ものなの?」

「違うのも混じっているけど大体はね」

「違うの?」

「色々と術というのがあるけど、その媒介としての道具であったりさ。単体では意味がないというものだね。おにーさん、どれが欲しい?」

 どれと言われてもリオの目にはどれもこれも骨董品にしか見えなかった。

 ただ古そうで、古いから価値があるだけではなかろうかとしか思えない代物に見える。それに、何かを選んでしまえばそのまま一颯の悪事に加担をする方向へ持っていかれそうな気もした。

「い、いらないよ……。それよりも、澄水を返してくれれば」

「じゃあ手伝ってくれる?」

「それは……」

「ゆっくり考えてくれていいんだよ。急ぐ必要は何もない。大丈夫、おにーさんが心配をするような怖いことは起きやしないから。あっ、これとか格好いいんじゃない? ちょっと寂びてるけど磨けばどうにかなるよ? 長いよね、おっきいよね、いいよね~」

 先端が十字になっている槍を一颯が持ち上げて、ただの子どものように目についたことを無邪気に喋る。

 その様子を見ながらふと、リオは無迅を思い出す。

 中身は救いようのない人斬りだが、妙に心を開いてしまうようなところがあの悪霊にはあった。

 しかし一颯はどう考えても危ないやつであるはずで、言動を切り取っただけならば無害そうであるのに、ずっと警戒心が解けない。その違いが何だろうかと、何でもあげると言われた武具を前にじっと考え込んだ。


 食事はきちんと三食が出て、お風呂に入りたいかとか、お菓子が欲しくないかとか、つまらない用事ですぐに一颯はリオに与えられた部屋に来た。その度にお喋りにつきあわされたが本当に危害というものが加えられそうな気配はなかった。

 そして一颯がつまらない用事で来る度、神器を持ってきては、これはどうかとお勧めもされた。澄水は取り返したいが一颯に加担したくはないリオは回答を先延ばしにし続けていたが、いつの間にか、部屋が武器庫のような有様になろうとしていた。

「お茶、おいしかった? また持ってきたよ。じゃじゃーん、これはねえ、かつての天子が暗殺された時に用いられた、とってもすごい神器さ」

 結局、一口しか飲まなかったお茶が冷めきってしばらくしたころ、一颯は濃紺の羽織を腕に抱えてやって来た。それが広げられると、紺地の羽織が極小のスパンコールでもちりばめられているかのように、光をキラキラと反射するように輝く。

夜天(やてん)(ころも)といって、これを羽織れば夜闇にとっぷりと溶け込むことができる。これで夜中に天子の寝所へ入り込んで、あとは安い包丁でサクリと刺して、時の天子はあっさり死んだ。でも面白いのはね、それから5年くらいかな? 天子が死んだっていうのが隠し通されちゃったことさ。ふふ、おかしいよね。

 天子とは地上に太陽をもたらした天帝の子孫であり、天子がいなければ地上から太陽は離れていってしまうとか偉そうなことを言っていたのに、天子が殺された5年の間、変わらずにお日様は昇って降りてを繰り返していたのさ。それなのに、まだ天子は堂々とこの都に君臨をしている。これって、絶対にいらないものだよね。それにとっても大嘘つきだ。地上の人を全て騙してるんだから。そんな、由緒正しい神器さ」

「……思ったけど、神器って、誰でもすぐに使えるもの、なの?」

 姿を隠せるという話にリオは使えるかも知れないと考えていた。

 これを使い脱出して澄水を取り返せればあとは逃げるだけで済む。一颯はどうしてか、親切な隣人を装おうとしているのがリオには分かっていたから、ぞんがいにあっさりと澄水のありかも教えてくれそうだと思えた。

 そのため、気になるのは神器というものが使えるか否かという点だ。

 澄水は他人に渡しても引き抜けないということが過去にあった。あるいは人を選ぶのではないかとリオは考えてしまっている。

「誰にもは使えない。中には例外もあるけれど……」

「……じゃあ、こんなにたくさん、持ってこられたって意味がないような」

「おにーさんなら使えるさ」

「どうして……? 使うのに、何か必要なものがあるとか……?」

「そのとーり。おにーさん、鋭いね」

「……でも、僕はそんな特別なもの……」

「あるのさ。だっておにーさんは、澄水という神器を使っていただろう? 神器というのは、使えるか、使えないか、さ。才のない者はどれだけ願っても使えやしない。そういうものだよ」

 反論はしなかったが、リオは半信半疑だった。

 そもそも澄水は、リオが生まれ育った21世紀の日本の神社に安置されていたものだった。そして無迅によれば、いくつかのこことも異なる日の本というのを通過してきたものでもあったという。

 ならばこの日の本のルールとは異なる理由でリオにだけ扱えていたのではないか――というのが疑惑の種である。しかしそんな事情を一颯に打ち明けるわけにもいかず、リオは渋い顔をする。

「……試してみるかい?」

「でも、僕は――」

「返事はまだしなくたっていいよ?」

「……じゃ、じゃあ、少しだけ」

「何を試す? 夜天の衣? それとも別の――あ、これとかいいんじゃない? 星鏡(ほしかがみ)

 懐中時計のような、蓋つきの小さな丸いものを一颯が取り出す。

 蓋を開けると銅鏡が現れる。黄金の光沢を放つ綺麗な小さい鏡だ。

「これって、何だっけ……?」

「星鏡は、星の数ほどの目を持つ神器さ」

「目……? 星の数ほど……?」

「もうっ、ちゃんと聞いてなかったの? 持ってきた時に教えてあげたのにさ」

「……そんなこと言われたって」

「どこでも好きに覗ける鏡という代物さ」

「どこでも?」

「うん。ほら、試してごらんよ。星鏡を持って、目をつむって、見たいものを思い浮かべてから覗くだけさ。やってみて、おにーさん」

 手渡された星鏡を見つめてから、リオは目をつむった。

 もしも使えるのなら、都合が良かった。これで澄水の場所が分かれば、あとは夜天の衣を使ってそこまで潜り込むだけで済む。

 澄水の意味不明の染みがたくさんついた白鞘を思い浮かべながらリオはそっと目を開いて鏡を見る。自分の顔が映っていたはずの鏡面が何も映さなくなっていた。眉根を寄せてじっと見つめ続けると、じわじわと像が浮かび上がるようにして、どこかの室内がそこに映し出されていく。

 床の間に、刀掛けが見えた。その後ろには掛け軸があるのに、そこには文字も絵もないまっさらな掛け軸となっている。刀掛けに2本の刀があり、下の段に澄水が鎮座されていた。上の段には何もない。どこかの室内にあるとは分かっても、これだけではどこにあるかという手がかりにはならない。もっと遠くから見れないのだろうかと思った時、その視点が動き出した。ズームされていた映像が引いていくかのように、床の間から視点が離れて室内の全景が見える。縁側に面した部屋のようだった。その縁側からカメラが抜けていくようにして視点が高くなっていく。とうとう建物を俯瞰から眺める画となってしまう。広い庭があるお屋敷だ。

 しかし依然として場所の特定には至らない――と思っていたら、さらに視点は高くなった。

 空撮映像のように町並みが映し出されてゆっくりとどこかの方向へ移動をしていき、途中でリオは気がつく。天丘の都だった。先払いをして僅かな荷物を置いたきり戻れていなかった旅籠屋や銭湯といった建物が見えて分かったのだ。そして勝手に動き続けた風景が止まったかと思うと、また一軒の建物に近寄っていく。

 背の高い建物だった。三階建てか、四階建てかといった塔のような建物ばかりが連なる区画の一軒に近づいて、壁をすり抜けてその中まで映し出す。

「っ――」

 ハッとしてリオは星鏡を持ったまま振り返った。そして、星鏡を見る。自分が映っていた。ふっとまた像が揺らぐように消え、鏡面を覗いている自分の顔が戻ってくる。

「……何を見たの?」

「……み、都だよ。……本当に、使えた……」

「便利でしょう?」

「……そ、そうだね。だけど、僕は……やっぱり」

「いいのさ。ゆっくり考えておくれよ、おにーさん。僕のお手伝いをしたいと思えるまで。それじゃ、今度は晩ご飯でね。今夜はお(しし)だよ。お味噌で鍋にするからきっとおいしいよ」

 一颯が部屋を出ていき、リオは運び込まれてきた神器の数々を眺めた。

 これだけの神器があれば逃げ出して澄水を奪還することはそこまで難しくないのではないかと思えた。星鏡と夜天の衣があるだけでもそれは叶う。だが、澄水は巳影に渡してしまったという一颯の発言も覚えていた。火を吹く刀を持った、現状、唯一と言えるリオが憎悪する男だ。短い時間ではあったが、一緒に旅をした巫女の姉妹を殺したのが巳影だった。それだけでなく、姉妹が大切にしていた故郷を焼き尽くして、そこに住んでいた人も皆殺しにしている。到底、許しがたい存在だ。

「……確か、あの子が持ってきた神器の中に……」

 室内を見渡してリオは目当てのものを見つけ手に取った。

『これはね、雪華(せっか)下緒(さげお)と言って雪や氷や、寒風、おおよそ、冬というものを司る力を自在に扱える強力な神器なんだ。みーちゃんにどーぞって言ったのに、気に入らないっていうからずっと眠っているのさ』

 雪の結晶を模したような飾りがついた紐だ。

 これさえあれば巳影の神器にも対抗できるんじゃないかという期待を込め、リオはぎゅっと握りしめた。

「夜の闇に紛れる、夜天の衣……。星の数ほどの視点を持つ星鏡に、冬を司る雪華の下緒。これだけ揃っていれば、きっと」

 決意してリオは夜を待つことにした。

 夕食が済むと一颯は一緒にお風呂に入ろうとまたやって来る。

 しかし風呂を上がれば、朝までやって来ることはない。次に悪夢を見たら無迅に苦労話をわんさか聞かせてやるとも決めて、星鏡を開いた。


 ▽


「おにーさん、(さと)はどこなんだい? どうして旅をしていたの?」

「……遠くだよ」

「どれくらい?」

「……どうやって来たかも、分からないくらい」

「ふうん……」

 風呂に入るのは、この日の本へ来てから感じられる数少ない癒しの瞬間だ。

 しかし一颯まで一緒となると、何だか気が休まらなかった。一颯の体は年相応の子どもそのものだ。痩せすぎているでもなく、太りすぎているでもなく、まろやかな、まだ男らしさも感じられず、かと言って女の子らしいとも言えぬような、子どもとしか言えぬごくごく普通の体つきだ。

「ねえ、おにーさんは何かしたいことはあるのかい?」

「……ないよ」

 広めの浴槽ではあるが、大勢が一度に入れるものではない。

 せいぜい5人ほどが定員というほどであるが、リオと一颯が一緒に浸かっている分には贅沢な湯舟だ。端っこでリオは一颯を警戒するように肩まで浸かっているが、一颯は浴槽の縁へ座ってパタパタと顔を手で仰いでいる。

「じゃあ、いいじゃない。お手伝いしてほしいな?」

「……やだよ。悪いことは、したくない」

「人を斬るのは?」

「え?」

「おにーさん、人を斬るのは嫌い? それは悪いことじゃないのかい?」

「……それ、は」

「あ。別に責めるつもりはなかったよ。ただ、僕はね、人は矛盾するものだと知っている。それを受け入れないとどこかで、人はおかしくなってしまうから、それはただの人に備わった性質であって、悪く思うことではないと言っておきたいだけさ」

「きみは……子どもにしか見えないのに、言葉は子どもじゃないよね……」

「ふふ、実は僕、お年寄りだからね。けど僕はいつまでもこのままさ。きっと人は背が伸びて、心も大人になって、いずれはおじいちゃんやおばあちゃんになるんだろうけれど、僕はこの姿であることを求められたから。体はずっとこのまま、心もずっとこのままさ。大人になんかなりやしないよ。この体が死ななければね」

「……一体、きみは何なの?」

「鬼」

「鬼……」

「――なんちゃって~、こんなにかわいい鬼、いるはずないでしょ?」

「えっ」

「答えは……なまなり、とでも言おうか。ふふ、楽しいね、お互いのことを喋るって。もっとたくさんおにーさんとお話していたいけど、明日も明後日もあるし、今日はこれくらいにしよっか。僕は先に上がるよ。おやすみね、リオおにーさん」

 にこりと笑い、一颯が浴室を出ていった。

「……なま、なり?」

 鬼ではないと言われたが、鬼と言われた方がよほど納得はいった。

 しかし答えはなまなりだという。なまなりとは何なのだろうかと聞いた覚えのない言葉にリオは首を傾げた。

「……明日も、明後日も、か。明日は、僕はもういないのに」

 湯舟を出てリオは手拭いで体を拭く。用意されていた着物に袖を通して、帯をしっかりと締めた。

 部屋に戻って、手早くリオは支度を始めた。夜天の衣を羽織る。星鏡に雪華の下緒を結び、これを懐へしまいこむ。

「よし……明日にはもう、天丘は下りちゃおう。蛇の目なんかに関わったって、いいことないんだ」

 夜天の衣を翻してリオは行灯の火を吹き消した。


 ▽


 軟禁されていた建物が遊郭であったということをリオは分からずじまいだったが、こっそりと外へ出てから、そこがどうにもいかがわしい場所だというのは悟った。

 朱塗りの檻を思わせる格子の向こうに遊女が座して、女遊びにきた男は通りを歩きながら品定めをする。呼び込みをする番頭は身なりの良い男へ声をかける。

 日も暮れているのにこの一画は随分と明るく、リオは繁華街を髣髴とした。

 自分にはあまり関わり合いのない世界だというのを知っていたので、足早に暗い方へと進んだ。

 遊郭の楼門を出ると寝静まろうとしている町へ出る。そこで一度、星鏡を用いて巳影がいるであろう邸宅までの道を確かめる。澄水は変わらず、床の間に鎮座をしていた。

 果たして本当に人の目に見えなくなっているのだろうかと不安を抱きながら、リオは足早にほとんど明かりのない暗い道を歩く。

 暗く人気のない、しかし昼には大勢が行き交う通りというのは不気味に思えてしまう。剥き出しの茶色の地面を歩く度にザリザリと音がしてしまうのも何だか落ち着かない。

 何度もリオは腰に手を持っていきかけた。しかしずっと腰にあったはずの澄水はそこにはない。すぐにケチをつけたり、下品なことをのたまう無迅の姿もない。この日の本において、本当にひとりきりとなったのは初めてで心細かった。

 最初こそ無迅は途方のない悪党で、一分一秒とて長く一緒にいてはならないと思っていた。だが、気づけば知らずに頼りにしていた。それだけのトラブルがあり、身を委ねて、あるいは助言を聞いておけばそれを切り抜けられた。

 人格に難はあったが、無迅は初めて、リオをその他大勢の中の一人ではなく、個人として深くつきあってくれた相手であるとも言えた。無迅にそのような殊勝な自覚はないと断言はできるが、事実としてリオには、ことあるごとに傍からあれをしろ、これをしろと求めてもいない口出しをしてしてきた人間などいなかった。

 勝手に師事させられていることになってはいるが、決して師弟などという立派な関係性ではない。

 かと言って、親のようなものにも到底思えない。兄弟というのも異なる。

 無迅との関係性を表すのに都合の良い言葉はリオには見つけられなかったが、丸腰になってしまった今になり、ずっと知らずに無迅を頼りにしていたことを自覚していた。町中であるのに、夜道を歩いて心細さを感じてしまうほどに、無迅の存在は大きかった。

 腰に澄水があった時ならば、大した心配もなくその辺の草むらで寝ることだってできていたのだ。いつだって無迅がいるという安心感によるものだった。

 不本意だが、無迅がいないとこれから先というものが分からなかった。

 どうしようもない悪霊に、とうとう心まで取り憑かれたのかも知れないと自嘲気味にリオは思った。


 ▽


「遅かったな」

 巳影のいる邸宅。その塀の屋根をよじ登り、ちょっとした高さから飛び降りようとしゃがみかけた瞬間だった。

 明かりのなかった庭に、火が灯る。

 それは抜き放たれた刀の鍔より煌々と発せられていた。

「何で……」

「一颯をお前のような小僧が出し抜けるとでも思っていたのか?」

「それ、どういう……」

「愚図め。お前があの鬼に捕らえられたころより、こうしてお前がここまで単独で来ると予見されていた、と言っている。澄水という刀を目当てに、数種の神器で武装をして、な」

 最初から見透かされていた、という巳影の言葉にリオは心臓が嫌に震えた心地がした。

 一颯が神器を部屋に一つずつ持ち込んできたことも、星鏡を使わせて行動を煽ったことも計算だったのなら、これから先にどんなことが待ち受けているのかと身震いをする。

「つくづく愚鈍な小僧だ。大剣客とて、牛蒡(ごぼう)のように細いばかりの小僧より、逞しい肉体の男を依代とした方が力を発揮できそうなものだな」

「……深森(みもり)の里を焼いて、人も皆殺しにしたのは、お前か」

「みもり……? 知らん」

「巫女のいた里」

「……ああ、あの邪魔をした巫女の姉妹の里か。そうだ。シャガは鬼であるという見立てがあった。連中は強い憎悪と怨念、新鮮な血をもって目が醒めるといわれているから鏖殺(おうさつ)した。現にシャガは巫女の邪魔さえなければ復活を遂げていたはずだ。それがどうした」

 こともなげに答えた巳影にリオはふつふつと憤りによって頭へ血が上っていくのを感じた。

 塀の屋根から降りて、リオは巳影を睨みつける。

「俺の考えでは、依代たるお前が死ねば澄刀は別の依代を求めるだろう。そして大剣客もまた、お前ではない別の依代を手に入れる。次の依代を蛇の目から選べば、その元の人格などを(おもんばか)る必要もなく大剣客そのものの肉体として機能をさせられるようになるだろう。

 大剣客が蛇の目に加わるならば当初の予定通り。斬り合いをあくまでも望むならば、お前の体でやるよりもよほど強くなる。

 一颯には、ここへ来たならお前の生き死には不問とすると言質を取っている。ここで散れ、小僧」

「っ……僕だって、お前だけは、許せないんだ」

「多少は勇ましい目をするようだが、怯えているのも見て取れる。澄水もなきお前が、俺に刃向かったところで意味はないと知れ」

 巳影が刀を振り上げ、リオは羽織っている夜天の衣の肩口を手で押さえた。

「やれるものならやってみろ!」

「生意気に吼えるか――散れ!」

 距離を保ったまま巳影が剣を振り下ろすと、放射状に炎が発せられてリオに襲いかかる。

 息を飲みながら固まりかけた体を叱咤してリオは横っ飛びになりながら炎をやり過ごし、夜天の衣を合わせる。直撃したわけでもないのに、駆け抜けていった一瞬の炎だけで露出していた皮膚がひりひりと痛みを持ったような心地がした。そろそろと起き上がりながら、リオは巳影の側面へ回り込むように慎重に距離を保ったまま移動する。

「……夜天の衣か」

 本当に相手から見えなくなっているのだろうかとリオは半信半疑だったが、巳影は最初にリオが避けた方を基点に首を動かし、姿を探しているようだった。

「…………」

 黙りながら巳影は目線をゆっくり動かし、不意に――リオは目が合った心地がした。

 まっすぐ自分を見ているかのように巳影が視点を止めている。無迅に切り裂かれ、隻眼になった巳影の瞳はぞっとするほどに冷たく射抜いてきている。

 見えてはいないのだろうと思えども、目が合って動けない。

 どういう手段かで察知してきているのかと思うと、足を動かすことさえも躊躇する。

 色々な邪魔はあったが無迅が斬り合って仕留めきれぬほどに巳影が強いのだとリオは知っている。例え今、リオが澄水を持っていたとしても、とても敵う相手だとは思えない。しかし巳影への憎しみがあった。尻尾を巻いておめおめとこの場を逃げ出し、澄水を奪還してから無迅に斬ってもらおうとは思えない。自分の手で一泡吹かせてやるとリオは攻撃的な思考に憑りつかれている。

 懐に手を入れて、リオは星鏡にくくりつけた雪華の下緒を握った。

 手練れの巳影に何度もチャンスはない。

 奇襲の一撃でどうにか一矢報いるしかないという算段を立てている。

 じり、と巳影がリオの方へ体を向けて刀を握り直す。リオは呼吸音さえ忍ばせるように、静かに息を吐き出した。

「つくづく、間抜けな小僧だな――」

 抜いていた刀を一度に巳影が振り切った。

 横薙ぎにされた刀の軌跡を辿り、逆巻くような炎の渦が生じて膨れながらリオへ迫る。引力を生じているかのように炎は空気を巻き込んで瞬時に膨大な熱量の業火と化した。

 言い返す言葉はリオにはない。

 他人と比べてしまえば自分にすぐれたところなどないと思っている。劣っていることばかりで、いつだって自分が情けなくてたまらない。だから真正面から罵倒されても大したショックを受けることなどはなかった。

 しかし、今だけはそんなことにいちいち目くじらを立てる暇がない、という事情もあった。

 巳影が自在に炎を操り、それが途方もない火力を持っているということもあらかじめ知っていた。仮に自分の姿が見えず、別の手段をもっても察知することができなかったとしても、きっととんでもない火力の範囲攻撃をするだろうと考えていた。

 そこでリオは雪華の下緒を選んで持ってきた。

 ぎゅっと雪華の下緒を握り、リオは目の前で膨れて大きな炎の塊めいたものと化したものへ向かって一思いに駆け込む。自分の体を凍らせるつもりで冷気を噴出させながら、その炎塊を突き抜けていく。熱いのか寒いのか、分からなかった。顔を上げることはできないので、顔を伏せて星鏡を目の代わりにしてまっすぐ巳影めがけて走る。

 炎を抜けると体が一気に冷えた心地がした。

 ぎゅっと握りしめた拳を振り上げて、巳影に迫ってその整った顔の横っ面を力一杯に殴りつける。

「つくづく、僕はお前が嫌いだ!」

 殴られた姿勢を崩す。瞬時に刀がリオへ向けられるが、リオはその手首を押さえた。

「小僧――」

「凍ってろ!」

 力いっぱいに、リオは雪華の下緒を握りしめた。

 寒風が吹き荒び、巳影の足元から氷が生えてその体を這い上り固めていく。すぐにリオが離れると刀を足元へ突き刺したが、そこで巳影は胸まで氷に覆われ、すぐに全身が氷で閉ざされてしまった。

「ハア、ハアッ……や、やった……」

 動かず、熱も発さぬ巳影を注意深く見ながらリオは呟き、すぐに屋敷へ土足で上がり込んだ。


 床の間には澄水が鎮座している。

 それを手に取って、刀を抜く。水の中から取り出し、濡れているかのような刃に自分の顔が映る。乱れ波紋はやはり何度見ても胸がざわつくような、しかしずっと見ていたいと思わせる妖しい魅力を放っている。

「無迅……? いるでしょ? 迎えにきたよ……?」

 刀にリオが呼びかける。

 鞘から刀を全て抜き、周囲を見渡す。

「……ね、ねえ? ビックリさせるつもりなの? そんなのいいから、早く、出てきてよ」

 呼びかける自分の声が少し震えていることに気がついて、リオは嫌な予感を抱く。

 しかし何も返事はない。先ほどの巳影の攻撃で火事が起きているようだった。だんだんと火が広がり、近所の人がざわめくような声が聞こえてくる。

「どうして……? ね、ねえ、何で出てこないの? 無迅……? ねえ、出てきてよ! 澄水(ここ)にいないんじゃ、どうして僕はここまで来たの! 澄水が魂なんでしょ? それなのに、どうして、いないんだよ!」

 不安を押し殺すようにリオは怒った声で呼びかけるが、澄水は静かに光を反射するばかりでいる。

 火事の炎と煙に巻かれる前に逃げた方がいいだろうかと、どこか冷静に考える自分に気がついてリオは刀を鞘に納めて腰に差す。ひょっこり出てきて、あとから何かとぼけた言い訳をしてくるに違いがないと言い聞かせながらリオは撤退を決める。


「――愛想を尽かされたのか」


 外へ出ようと庭を向いた瞬間、リオは巳影の声で足を畳に縫いつけられた。

 氷が溶けて巳影が縁側へ上がってきているところだった。

「何で……」

「雪華の下緒は、かつて八天将の1人が用いていた神器。

 それを蛇の目へ持ち帰ったのは、この俺だ」

 静かに巳影が言い、刀をリオに向ける。

「火途の異名、伊達と思ったか」

「っ……」

「大剣客であれば、仮に氷で俺を閉ざしたところで終わりにはしなかったろう。確実に喉笛を切り裂くか、心の臓を貫くかし、息の根を止めていたはずだ。

 お前は甘い。お前は弱い。お前はくだらない。

 神器を2つも3つも持ち出して、てんで使いこなすことさえできず、相棒の剣客には愛想を尽かされ、小僧――貴様、何がしたい」

 変に鼓動が強く早くなり、顔が一気に熱くなったのをリオは感じた。

「いや、言葉などは不要だったか」

 巳影が床を蹴り、刀を振り上げた。

 とっさにリオは澄水を抜いて受けようとしたが、間に合わずに腰から胸の上までを斜めに切り上げられる。返した刀の柄尻で思い切り首筋を打ちつけられてその場で倒される。すぐに頭を上げようとすると後頭部を踏みつけられて鼻を強打した。つんと鼻の奥に広がった衝撃がじわりと目元を滲ませる。

「いいか、愚図。お前にその刀は宝の持ち腐れというものだ。

 お前のように下等な人間は、ただそこにいるだけで邪魔だ」

「っ、ぐ……」

「弁えて、苦しんで死ね」

「じゃあ、お前は……偉いのかよ。

 人を傷つけて、苦しめて、焼いて、殺して……やってるのは、骨董品集めで、そんなのが、偉そうにしていいのかよ……」

 頭を上げようとしても、巳影に踏みつけられていてせいぜいぷるぷると震えるばかりだった。それでもリオは言い返して、澄水の柄をぎゅっと握り締める。

「僕は、上等な人間じゃないなんて知ってる、けど……お前も、同じだ」

「黙れ。耳障りだ」

「言い返せないだけだ」

「よし、すぐに死ね」

 刀をリオに向け、目を細めてから巳影が突き落とす。

 しかしその寸前にリオの体がいきなり、ずるりと後ろに引き下げられたように滑って刀は畳に刺さって僅かに焦がした。


「よう、お前にしちゃ、がんばったじゃあねーの。

 だがまぁーだ、言葉が悪くねンだよなァ。よく考えやがれ、啖呵切ってんのに、なよなよしてちゃあぶつくさ陰口叩くのと変わりゃしねえじゃねーか」

「無、迅……?」

「どうでえ、もうちとてめえでヤんのか? (オイラ)、見ててやってもいいぜ?」

「ていうか……顔、擦れてすっごい熱かったんだけど」

「へっ、知るかよ」

 むくりとリオが肘をついて、体を起こす。

 帯を掴んで引きずった無迅が煙管をくわえ、少年の横で煙をくゆらせる。

「……大剣客が出てきたのか?」

「どーするよ、リオ坊。(やっこ)さんにゃ、煮え湯飲まされてんだろ?」

 問いかけられてリオは顔を上げて立ち上がった。たらりと鼻血が上唇まで垂れてきて、それをぺろりと舐めとってから澄水を両手で握る。

「……無迅はお前なんか、僕で充分だって」

「……ならば、依り代の窮地には出てくるか」

「やっちまえい、リオ」

 背を押されたままリオは前に出て澄水を握り締めていた手から余分な力を抜いた。

 目を細めながら巳影が刀を振り上げて構える。

「野郎、ありゃ、透かしてくんぜ」

 耳元で無迅に囁かれる。先に巳影が剣を振り下ろし、リオは受けようとしたがするりと軌跡が揺らぐように巳影の刀がすり抜けようとしてくる。無迅の囁きがなければリオはまたバサリと斬られていたが、受けようとした刀を引いて受け止める。

 しかしすぐ、合わさった刃の散らしたほんの微かな火花が膨れ上がる。

 視界が炎で塗りつぶされる、目つぶしの効果。

 炎による純粋な熱さによる、皮膚の――特に手が焼ける痛み。

 そして、この2つの効果で怯まされたところへ飛来する二振り目の攻撃。その凶悪なコンボは、すでに一度、無迅が戦った際にリオも体感をしていた。

 無迅に体を勝手に動かされていても、痛みも苦しみも息の苦しさも全てリオは味わうはめになってしまう。しかし無迅がどんな動きをするのかということも、文字通りに体感することができる。

「やい、刀ァ縦にしろい」

「っ――」

 言われた通りにすぐリオが澄水を立てると、そこへ当てに来たかのように巳影の刀が撃ち込まれてきた。刀同士がぶつかり合い、拮抗する。

「防ぐか」

「休憩してんじゃねえ、軸崩されるぞ、足緩めろ」

 押し込まれたと思った瞬間に、ふっと軽くなる。

 またもや、無迅の囁きがなければ危うかった。ただ押し切られないようにリオも体重を乗せ続けていれば引かれた途端に胴切りにされかねなかった。しかし巳影に合わせるようにリオもふっと脱力をし、澄水で巳影の刀を擦り上げて弾いた。その延長上で炎が爆ぜる。

 すかさずリオは切り返して巳影の喉笛を裂きにかかったが、巳影の足がリオの手を蹴り上げる。

「挟んで止めろい!」

 弾き飛ばされた澄水が天井に刺さり、上を見たリオが無迅の声で我に返る。

 巳影が振り落としてきた刀をリオは両手で挟んで止めにかかる。右手の指先が割れるように斬られたが、両手の根元でどうにか白刃取りをして止める。直後、捕まえた刃に熱を感じてリオは後ろへ距離を取る。

「得物を手放して一時を凌いだところでどうなる?」

「っ……」

「リオ坊、相変わらず鈍ちんかァ? 猪みてな女と斬り合いしたの忘れやがったわけじゃねえだろう。あの女、てめえの得物を呼ぶだけで手元へ戻しやがった。無手で追い詰められたふりィして、こいつをてめえと澄水で挟んでから呼べよ。そしたら戻ってきた澄水が刺さりやがるぜ」

 怯んだリオが無迅に囁かれて畳に落ちている澄水を見た。

 確かに鳴は神器を呼んだだけで手元に戻していたが、同じことができるのかは分からない。百刃という神器だけが備えた特徴ではないかという不安もあった。

 しかし口にして無迅に相談しようものならば、その企みも露見して台無しとなる。


「……幕引きだ」

 表では火事が広がって昼間かのように明るくなってきている。炎の揺らめきで影もたゆたう。

 静かに巳影は抜き身のまま、腰溜めに刀を構えた。

 腰からでなく、足の爪先からじわりとリオは後ろへ下がる。

「呼べ――」

 無迅がまた囁く。

 巳影が刀を振り抜く。

「澄水、来い!」

 叫びながらリオは腰から鞘を抜いて巳影の刀にかち合わせた。

 即座に鞘は叩き折られる。飛び散った木っ端は炎に包まれて火の粉となる。

 その火花に巳影の腹から飛び散った血が混ざり、色味の異なる赤が彩る。雄蕊(おしべ)のように澄水の切っ先が巳影の腹から突き出ている。

 半ばから叩き折られた鞘をリオが動きを止めてしまった巳影の首へ思い切り突き刺した。転がるように巳影が弾き飛ばされて畳の上を転がる。

「っ……俺の、油断か……」

 起き上がれぬのか、巳影は澄水が刺さったままの腹を押さえて呻いた。

 息を荒げながらリオは慎重に近づいて、澄水の柄を掴んで傷口を抉るようにしながら引き抜く。

「このまま、焼け死ね」

「おうおう、きっちり殺しとけって」

 無迅に言われるが、リオは澄水を振って付着していた血を飛ばすとそのまま庭へ出る。すでに火は大きく広がっていた。黒い煙がもくもくと火事で照らされた暗い空に上がっていっている。このまま火に呑まれて焼け死ねば苦しみ、それが報いのはずだとリオは信じて去ることにした。


 ▽


「何をそう急ぎやがらァ? 折角、ちんたら歩いてここまで来たんじゃねてのよ。のんべんだらりと見物もできてねえじゃねえか。ええ?」

「呑気にしてる暇なんかないよ。蛇の目がいるのに」

「叩っ斬れば済むじゃねえか」

「いくつ体があっても足りないよ」

「はぁーあ、つまんねーの」

 リオはせかせかと小走りになって天丘を降りていく。ほとんど明かりはなく、月明かりを頼りに道も分からず斜面をただ降りていっている。

 どうにか巳影は下した。

 しかし、無迅が苦戦を強いられた鳴や、手も足も出なかった一颯といった面々がまだ残っている。特に一颯の存在がリオには怖かった。

 巳影は、リオが澄水の奪還のために神器を携えて来ることを最初から予見していたと言っていた。それを一颯が仕組んでいたならば、今のこの状況さえも見透かしているのではないかと怖かった。

 逃げながら途中で気がついたが、巳影との戦いで持ち出した神器が破損していた。どのタイミングかは定かでなかったが、夜天の衣は破れ、星鏡も蓋が歪んで開かず、雪華の下緒も焼け焦げている上、半ばから千切れてしまっていた。

「よう、足が鈍間になってきてるぜ?」

「そりゃそうだよ……斬られてるんだから。懐にこれ入れてたからどうにかだけど……何か、すごく痛んできたし……」

「何でい、そりゃ?」

 リオの取り出した星鏡を見て無迅が眉根を寄せる。

「神器っていうんだって。蛇の目が集めてる道具のこと。これは離れたところが見える鏡だったんだけど壊れて開かなくなっちゃった……。ふぅぅ……ヤバい、痛い……」

 脂汗を浮かべながらリオがしゃがみながら、巳影に斬られた傷口を押さえる。腰から胸まで、一直線にやられた刀傷だ。触れると酷く痛み、血が手についたのも分かった。

 焼き切られたような傷で、時間が経ってアドレナリンが引いてくると何とも言えぬ、耐え難い苦痛になってどんどん痛みが増してくるようでもあった。

「死ぬ……死んじゃう……」

「そんな程度で死ぬかってんでい。気張れってんだ」

「だって……」

「だってじゃねえ。ガタガタ抜かしてんじゃねえ。痛い苦しいなんざァ、歯ァ食いしばって黙って耐えろ、バカ」

「それができれば苦労しないよ……。無迅って何で痛いのに平気でいられんの?」

「言ったろうが。歯ァ食いしばるだけでい」

「……嘘でしょ?」

「そんな嘘ついてどうすんでい」

「本当なんだ……」

 それでどうして、ああも激しく、さらに傷つくような戦いへ身を投じられるのかとも思ってしまう。

 だが、それでも無迅はズルいとリオは考える。結局、あとで傷が痛んで苦しむのは無迅ではなく自分なのだ。そりゃあ、無鉄砲に好き勝手してしまえるというものでしかない。

「はぁ……ダメ、休憩……」

「はぁーぁ、勢いがいいのは最初だけか……。つくづく情けねえの。そんな体たらくならよ、やっぱ町ん中のどっかの宿でもって寝りゃ良かったじゃねえの」

「のんびりしてたら、追いかけてくるかも知らないから……」

「だぁーから、そんなもんは叩っ斬れって」

「できそうにないから逃げてるんでしょって……」

「できるとか、できねえじゃねんだよ。やれ、ってんだよ」

「ムリだから……ほんと、常識ってのがないんだから……」

 ボヤきながらリオは痛みが強くなる傷を押さえ、しゃがんでいる姿勢も辛くなって座り込んでしまう。そのまま横になりたいほどだったが、さすがにそうもできないと思いながらじっと痛みに耐える。

「よう、こんなとこで座り込んだってどうにもなりゃしねーだろうがよ」

「休んでるだけだから……」

「はぁー……軟弱にもほどがあらーな……」

 呆れられたところで辛いことには変わりがない。

 恨み言でもこぼしてやりたかったが、そうすることさえも今は辛く黙ってリオは息をゆっくり吐きながら痛みを噛み締める。


「そう言えば……なまなり、って、知ってる?」

「あん?」

「最初に澄水を盗った子……一颯って子が、自分はなまなりだって言ってたんだけど……何だかよく分からなくて」

「そら、あれだろ。あー、んー……あれだ、あれ。人が鬼に変わっちまう途上のことだろ。人と鬼の間みてえなもんだな」

「人と鬼の、間……」

 どちらでもあるのか、どちらでもないのか、実に曖昧極まるものらしいと考えると、リオはまた一颯への畏怖が強まった気がした。

 直接的な危害を警戒するような怖さではなく、言葉にし難い怖さをどうしても拭えなかった。

「お前のいた日の本にゃ、鬼はいねえのか?」

「いないよ」

「ほーん……鬼ってえのはよォ、別に何もかもが悪い連中ってわけでもねえ。ただ、奴らに通じるのは、人が気になってたまらねえってだけのことよ」

「人が気になる……?」

「鬼をこの世から消し去っちまおうって考えるなら、一人残らず人を消しちまえばいいなんて言った野郎もいた気がすんな。奴らはただ、人間の関心を集めてえのよ。怖がられるでもいい、愛されるでもいい、憎まれようが構いやしねえ。構ってほしくてあれこれするわけだが、悪事ってえのに手え染めた方が手っ取り早いもんで人どもを襲うってのが奴らの手口よ。

 だから連中は盗みをするし、嘘をつく。女を犯して、男をいたぶって、ガキをさらって食っちまう。そうすりゃ、人どもが自分に関心を寄せるってえのを本能で分かってやがるんだ。つくづく、どーしようもねえようなもんだな」

 そう説明されるとリオは何となく、一颯の態度に合点のいった気がした。

 しかし、得体の知れぬ怖さは拭いされない。

「……どう、対処したらいいんだろ」

「さーてな。鬼なんざァ、向こうが飽きるのを待つか、叩っ斬って始末するかしかねえや。だが、あのガキ、ちと手に負えねえ雰囲気はあったな……」

「無迅でも?」

「シャガも鬼みてえなもんだろうが、ありゃただ単純なバカだったからどうにもなれそうなもんだった。が、あのガキみてえなけったいな術を使うようなのは手間がかかって仕方がねえやな。その気になりゃあ、たたっ斬れるだろーがよ、どうしよーもねえって段になってからだ、そりゃ」

「……出くわさないのが一番か……」

 それなら早く離れるべきだろうと思いを新たにして、リオは近くの木に手をつきながらよろよろと立ち上がる。

「早く、降りちゃおう……」

「そんなへっぴり腰じゃ、何日かかるかわかりゃしねえがな」

「いちいち、やる気を削ぐようなこと言わないでよ……」

 歩調は随分と落ちたが、リオは天丘を早く離れたいという一心で歩き出した。


 ▽


 いつの間にか空の端が白んできていたことに気がついた。

 日が昇れば多少は安全だろうかとリオの気が緩み、ぼうっと足を止めた。

「おう、お天道さん見ておねんねしようってか?」

「何だか……ほっとしちゃって……。朝が迎えられて……」

「カーッ、朝日を拝んでから眠りこけようなんざ、お前も偉い身分になったなァ」

「……絶対にそれは違うと思う……」

 まだまだ地上は遠いが、だんだんと空は明るくなってきてリオは疲労と痛みの溜まりきった体を労りながら木の根の間に腰を下ろして、そのうろのところで丁度収まる。

「今日も夢に出なくていいから……ぐっすり寝かせて」

「んなワケいくかってんでい。(オイラ)の少ねえ楽しみだぞ」

「……楽しみだったんだ」

「何たって他のやることなんざァ、ガキのお守りだからな」

 言い返すのはやめてリオは膝を抱えたまま顔をふせ、疲れのまま眠りに落ちようとした。

 無迅はどうしようもない悪霊だが、やはりいてくれないと困る。ひとりぼっちは心細くてたまらなかった。

 人相も口調も悪いし人斬り大好きの悪霊だが、愛想が良くて見た目も可愛らしいなまなりの子よりも、よほど気を許せてしまう。

 この悪霊をどうにかお祓いできないものかと考えていたこともあったが、しばらくはこのままがいいとも思えた。信頼とか信用ではないところで、どこか無迅に寄せる期待を抱いている。

 今度はどこへ行き着くのだろうと考えつつ、またどうせ悪夢で殺されまくるのだなと諦め半分に覚悟しつつ、リオはゆっくり呼吸して疲れに惹かれるまま眠りへ落ちかけ――


「――今日は良い天気になりそうだね、リオおにーさん」


 明るい無邪気な声にぞっとしてリオは体を震わせながら目を見開いた。


 ▽


「っ……な、何で……」

「何でって……何が?」

 一颯はどこから沸いて出たのかと思えるほど突然に、リオの前にいた。きょとんとして彼は小首を傾げる。

「やだな、もしかしてさよならするつもりだったの? 言ったじゃない、昨日、お風呂で。明日も明後日もあるってさ」

「よう、リオ坊、さっきは譲ったんでい。今度はやらせろや」

「……また剣客さんに替わっちゃうつもり? 別にいいけど、今度は神器ごと砕いちゃうよ。そうすればリオお兄さんも、すがるものがなくなるよね? でも安心して、僕は味方だよ」

「ヘッ、気味の悪い鬼もどきのクソガキが何を(のたま)おうがまともな言葉になりゃしねンだよ」

 リオの口から無迅の声が発せられる。

 すると、一颯の笑みが失せて表情が一変した。それまでの愛嬌のあった顔が、興味を失ったかのように冷淡なものへ変化したのだ。

「見た目が一緒でも、中身が変わればやっぱりどうでも良くなっちゃうね。早いところ消えておくれよ、剣客さん」

「そら、こっちの台詞でい。失せろ、クソガキ」

 無迅が澄水を抜き打った。

 一足で踏み込んで細い子どもの首を容易く斬り飛ばす一振りのはずだったが、無造作に上げられた細い産毛さえも生えていない腕が刃を受けて甲高い音を立てながら弾き返す。

 無迅はすかさず刀を切り返していた。腕の下から、胴を切り上げるように再び澄水は一颯を襲う。

「硬えってわけじゃねえな、こりゃ――」

 またしても刃は何も斬れなかった。

 弾かれて無迅は身を引いて距離を取る。

 体は無迅が動かしているため、リオは眉を動かす程度のことさえもできない。ただ勝手に体が動き、感覚もあるのに自分の意思ではないという奇妙さは慣れていたが、初めて無迅が攻めあぐねているのを体感した。

 しかし疑問もあった。

 共有している感覚では刀は確かに硬い手応えを伴って弾き返された。ぶつかり合った音などは硬い金属同士がぶつかったようなものだった。それを無迅は硬さではないと称したのが分からなかった。手には軽い痺れにも似た痛みが奔っているほどなのだ。

 無迅もシャガと違って手がかかると言っていた。シャガという化け物でさえ、はっきりと決着をつけられたわけでもなかったのに果たして無迅がこの場を切り抜けられるだろうかとリオは不安を抱く。


「剣客さん、もうおしまいなの? それともお兄さんの体がぼろぼろでやりづらい? みーちゃんにこっぴどくやられたみたいだね。でもみーちゃんが負けちゃうとは思ってなかったなぁ……」

「ハッ、よう、クソチビ。てめえ、なまなりだとか抜かしたそうだがよ、要するに人じゃあねえ、鬼でもねえ半端者(はんぱもん)ってえことだろ? 同じ臭いでもリオから嗅ぎ取ったかァ? だが生憎、リオ坊はその内、どっちつかずも終わるんだぜ? てめえはくたばるまで半端なまんま、同じじゃねンだから諦めちまいな」

「……ふうん、剣客さん、必死だね。僕を怒らせたいんでしょう? でもそんなの全然、響かないよ」

「ハッハァ、そうかよ。じゃ、一発でぶちギレさしてやろうか?」

「無理、無理――」

「てめえのことなんざ、誰も好き好みやしねえから大人しく山ん中にでも引きこもれってんだ、腐臭がぷんぷんしてクッセーんだよ」

 すまし顔だった一颯の顔が呆気に取られ、直後に目尻が吊り上がった。

 キレた、とリオは分かった。無迅は相手をわざと怒らせて、冷静さを失わせて活路を見出すという戦法を取ろうとする。もしかしたら生来の性分で何か、相手の精神的に弱い部分を指摘しなければ気が済まないのではないかともリオは思っているが、知る限りではこれに失敗したことがない。かなり悪辣な観察眼だと密かにリオは考えている。

 しかし問題は相手が怒ったところで、ちゃんとその隙につけ入ることができるかどうかである。

 一颯のような単純な腕力ではない部分で厄介な、半分、鬼というような存在に有効なのだろうかという不安が強かった。

 無造作に一颯が腕を振るうと、目に見えない何かが放たれ、その周囲が陽炎のように歪んで見えた。澄水で無迅はそれを払いのけようと振るったが、振り払うどころか、みしりと腕が軋むような強烈な痛みに囚われ、刃が触れた箇所へ体ごと持っていかれる。

「ぐっ……!」

 重力だ、とリオもその激烈な痛みを共有しながら理解する。

 重力場、あるいは物質を強く引き寄せる力を一颯は操っている。初めに無迅もろとも、三途の使徒という仲間であるはずの巳影や鳴もろとも地面に縫いつけたかのように叩き伏せたのも突如として発生した重力だった。

 まさしく、人ならざるものの所業だ。

 いくら人斬りを何より得意とする無迅であっても、そんなイカれた超常現象を前には手も足も出ないに違いない。逃げる他に何もできることはないとリオは叫んででも無迅に伝えたかったが、自分の体なのに声もあげられない。

「神器ごとぐしゃぐしゃになればいいよ。リオおにーさんは僕がもらうから」

「ヘッ、こいつは(オイラ)のもんだってえの!」

 右腕がひしゃげ、皮膚の内側から肉と骨とが反転されるかのように破れ出る。

 強烈な痛みを伴った痺れるような感覚にも関わらず、無迅はギラリと目を光らせながら一歩、前へ踏み出した。最早、動かすこともできない右腕を置き去りにするかのように強引に踏み出し、力を入れることさえできないので澄水を取りこぼしながら一颯へ迫るなり、左手で細い首を掴み締め上げる。気道を潰し、親指で首の側面の血流までもを止めようとしていた。一颯が幼い子供の姿を取っているからこそ、リオの手でもかろうじて届いていた。

「無駄だって言ってるじゃないか。貧相な体で、貧弱な力で、どうにかなるとでも?」

 右腕の痛みを堪えるかのように力んでしまう反応を全て回すかのように左手で締め上げにかかった無迅だが、一颯にはやはり通じない。

 そう判断するや否や、無迅は手を放して一颯の頭頂の髪を鷲掴みにして引き下げながら右膝を打ち上げた。顔面に膝蹴りを叩きつける。その反動で一颯は仰向けに倒れ込み、さらにその顔を思い切り踵で踏みつける。

「で?」

「頑丈かよ、てめえ」

 おもむろに顔を踏みにじった右足首を掴まれると、膝関節に痛みが奔った。視界がぐわりと激しく揺るがされる。

 仰向けの状態から無迅の足首を掴んで、手拭いでもバサリと翻すかのように地面へ叩きつけた。後頭部に激しい衝撃がし、右膝も砕けたのではないかという痛みがし、頭への強い衝撃のせいで意識が途絶えかける。それでもほぼ反射的に、無迅は起き上がってしまう。リオからすればまだ視点も定かでない、朧気なままの視界で左右も上下も曖昧なまま、不思議と立ち上がった感覚だった。

「剣客さんも頑丈だね、面白くないけど」

 一颯の言葉さえまだ遠く聞こえる。

 どちらも同じく相手に叩き伏せられたにも関わらず、傷ついているのは無迅だけだ。一颯は少しだけ着物を土で汚すのみでけろっと立っている。

 無迅は器用に足で落ちていた澄水の柄の端を指先で掠めるように踏みつけて弾ませ、それを掬うように左手で持ち上げた。


「ハァァ……(オイラ)もヤキがまわっちまったなァ……」

「観念したの? じゃ、楽にしてあげようか?」

「ぬかせよ、クソチビが……。天下の大剣客・無迅様がたかだか鬼もどき一匹に降参するはずねえだろう。が、やぁっーぱ、ちとリオ坊の貧しい体じゃちと厳しいってだけだ」

「じゃ、どうするつもりさ?」

「てめえをぶった斬って、ひとまず(オイラ)(しま)いってだけよ」

 依然、痛むというレベルではなくぶら下げているだけでも苦痛に満ちている右腕を無迅は無理に持ち上げる。それでも肘から先など繋がっているだけの肉と骨を詰めた袋という状態で、澄水を小指と薬指で握ったまま、左手で掴んで右手を開かせ、そこに澄水の柄を差し込むようにした。支えているのは左手で、右手は添えるだけの状態で、両手を使って刀を構える。

 青眼で真っ直ぐ、切先を一颯に向けながら無迅はふぅぅっと息を吐き出す。

「頭のおかしな人は嫌いじゃないけど、剣客さんは嫌いだな、やっぱり……」

「なまなりごときが人様に嫉妬してんじゃねえってんでい。いいかァ、鬼もどき。てめえの敗因を先に教えといてやらァな。この無迅様をそんじょそこらの人様と同じと括っちまったことだ」

「世迷言だね。……さよなら、剣客さん」

「あーあ、さよならだ、鬼もどき――」

 目を細めて霞んでいる視界をシャープにさせ、無迅はガタガタの体でやや傾斜のある地を蹴る。

 まるでダメージを感じさせぬ、軽やかな足捌きで迫りながら澄水を振り上げた。

 澄水という程度の神器で、どうせ斬られるはずもないと一颯は悠々としている。

 人にしては。

 借り物の体にしては。

 確かに常軌を逸した人斬りだと一颯は無迅を評価する。

 しかし言ってしまえば()()()()でもあった。もしも無迅が別の強力な神器を持ち、それを使いこなせるのであれば一颯でも脅威と認めるかも知れない。だが、それは有り得ないのだから取るに足らぬ、ただの人間でしかない。

 間合いに入り、無迅の目が一颯を見据える。

 その瞳の中に白刃が宿すものと同じ光を一颯は見た気がした。

 振りかぶられていた刀が僅かに止まる。刃が来ると一颯は予見したが、不思議なことに待ってもそれが振り下ろされなかった。

 おかしい、と刹那の間に一颯は気がつく。


「――え?」


 ずるり、とその小さな体が、薄い胸板が斜めにずれた。

 何も分からぬまま、一颯はいきなり傾いた己の視界の中で、無迅が大仰に息を吐き出しながら数歩、よろめくように後退するのを見る。先ほどまで振り上げていた刀が、すでに振り下ろされている。

 見逃すはずがなかった。

 人の一瞬を、一颯はのんびり眺めることができるだけの動体視力を有している。

 だから刃が触れる前に、相手の手が触れる前に、自分の体を妖力で守ることができる。

 考えられるのは見逃したという、想定していない結果だけだった。無迅の刃を見逃し、斬られたことにさえ気づけなかった。――であれば、理解はできる。

 理解はできても納得はできないが。

 人如きがどうして自分の目を超えられるのか。

 人如きの取るに足らぬ一振りの見窄らしい刀がどうして自分の体を傷つけられるのか。


「言っただろうがよ、俺様をたかが人間と括ったのが敗因だ。

 天下無双の大剣客様なんだぜ、こちとらよォ」


 自覚なき静かな混乱に陥る一颯が、無迅に言い放たれる。

 まさかと言い返そうとしたのと同時に脳天へ澄水が突き込まれて、後頭部から砕けた刃と脳漿と頭骨の欠片が飛び散った。


 ▽


「――あ、えっ? 夢……?」

 とうとう、一颯にとどめを刺した。

 と、思えば最早、親の顔よりも見ているかも知れぬ、無迅に殺されるばかりの悪夢の葦原の只中にいた。

 空は曇っていて重そうな鉛色に染められ、リオの腰ほどの高さの葦が見渡す限りに広がっている。山の谷間のようなところで周りは深い緑色の山に囲まれている。

 これが無迅の心象風景なのだといつしかリオは分かっていた。

 葦の中にはいくつもの死体がごろごろと転がっている。いずれも手足がなかったり、頭と首が泣き別れていたり、胸が破裂していたり、致命の一撃となった傷が一目瞭然で放置をされているが、不思議とそれらの死体には恐怖を抱くことがない。

 そんな見慣れた葦原の中で、リオはすぐにこの風景の主人を探すように周囲をぐるりと見る。

「よう、リオ。こいつでもう見納めだ」

「っ……どういうこと? 何が?」

 振り返ったらそこで無迅がキセルをやっていた。

「一颯はもう、倒したし……」

「こいつが限界だってんだよ」

 左手でぷらりと無迅が澄水を持ち上げて見せる。

 刀身の半ばから先が砕けてなくなった澄水は何故か酷くリオには衝撃的に見えた。

 澄水は壊れないものだと思っていた。

 どんなに無理な使い方をしても刃毀れを知らなかった。歪むこともなかった。研いだこともないのにずっと切れ味が良く、一度に何人を切り伏せたところで新品の刃物のように心地良い手応えを返してくれる。

 それが澄水のはずという思い込みがあった。

「どうして……急に」

「さあーてな、(オイラ)にもサッパリ」

「何か、嘘っぽい……」

「……はしゃぎすぎたんだろーよ」

 やれやれと無迅が転がっていた岩へ腰かけて一筋の煙を吹き出した。

「はしゃぎすぎ?」

「とうにおっ死んでる身でい。澄水を介して好き勝手しちゃいたが、そもそもそいつが無理のある話だったってえことよ。でもってあの鬼もどきの小僧がちと手に余ったもんだから、もう澄水の力も空っぽになっちまったってことだな。だから(オイラ)もここまでよ」

「こ、ここまでって……何の根拠があって――」

 顔に煙を吐かれてリオは思わず、手でそれを払った。

 何をするのかとすぐ無迅を睨みかけて、そこでようやく岩に腰かけている無迅の足が半透明になって消えかかっているのを見た。着物の裾ごと脹脛(ふくらはぎ)の半ばほどまでなくなってしまっている。

「はぁーあ、結構楽しかったんだがここまでか。ま、いっぺん死んでるんだ、元々があるかねえかも曖昧な夢と変わらねえようなことだったんだ。しょうがねえよな」

「……む、無迅は、どうなっちゃうの?」

「そら、あの世逝きじゃねえの? 閻魔様のことだ、極楽にゃ送ってくれねえだろうな」

「死、死んじゃうのに、怖くないの……?」

「だーから、元々が死んでるってえの。人も獣も(あやかし)も、刀も偉い像も、何だっていずれ壊れて消えて塵芥(ちりあくた)よ。誰でもいずれそうなっちまうもんを怖がったとこでどうにもなりゃしねえだろ」

 いつものように無迅はどうでもいい話をするように軽薄そうに、ぶっきらぼうに言う。

 じりじりと炎に焦がされるように無迅の体は足元から消えていっている。

「そ、そんなの嫌だよ」

「嫌もクソもあるかってんでい」

「だって、無迅のせいで……僕は、こんな意味分からない、テレビもネットもないような世界に来ちゃったのに、1人だけ先に抜けるなんてずるいよ!」

「んなこと言われたとこで仕方が――」

「じゃあ僕はどうすればいいの! 嫌だよ、怖いのに頑張って澄水取りに行って、戦って、無迅と一緒にまたどこ行こうかって思いながら逃げて、それなのに勝手なことしないでよ! 逃げれば良かったのに、右手もぼろぼろっていうかぐしゃぐしゃっていうか、治らないかも知れないくらいにしてまで倒すこともなかったし、それに――」

「あのな、バカ。あの鬼もどき、完全にお前のこと狙ってたぜ? 理由なんざ知らねえが放っておきゃ、どこまで行こうがちょっかい出してくるに違いなかったんでい。だったら息の根止めとかねえとよ、巡り巡ってお前が困ることになるんだよ。なもんでちと無理したら、無理だったって話だろーがよ。いわばお前のためってことなんだから恨言言われる筋合いはねえやい」

「あるよ!」

 強く言い返してきたリオに無迅が面倒そうに苦い顔をする。

 が、ふと彼はリオの顔を見て、口に咥えていたキセルを下ろした。

「お()、何て面ァしてやがんだ。いっくら粗末なモンだろうが股間にオスぶら下げてんなら、泣きっ面なんぞ他人に見せんじゃねえよ」

「だって……」

 鼻の奥がつんと痛むような感覚で、じわりと涙腺が緩んできている。いじめられることは珍しくなかったが、いつからか、泣くことはなくなっていた。ただその場を耐えるように心を押し殺すという処世術を気づけば手に入れていた。

 久しくなかった、止められない涙が込み上げてくる感覚が不快感を伴って胸の奥を締めつけてくる。

 言葉を発することもできず、リオは涙を堪えようと俯いて鼻に力を込める。

 そうしていると不意に頭へぽんと手を乗せられた。

「お前はチビで貧相で度胸もねえ、頭も悪けりゃ、気の利いたことも言えやしねえ、どーしようもねえ野郎だけどよ」

「っ……そうだよ……だから、僕は、まだ……」

「世の中なんざァ、思い通りになることの方がよっぽど少ねえんだ。だがよ、お前がひいこら言いながらあちこち歩いてきた間は愉快だったじゃあねえの。そんだけでいいんだよ」

 垂れてきた鼻水を袖で拭いながらリオは大粒の涙をこぼしながら、顔を上げる。

 口元に薄く笑みを浮かべている無迅を見て、また込み上げるものを感じたが、リオは両袖で顔をごしごしと拭いた。

「どうすればいいの、僕は……。1人になっちゃったら、僕なんか……」

「斬れ。斬って、斬って、斬りまくれ。

 気に入らねえ野郎を斬り殺せ。惚れた女をいじめる連中を斬り殺せ。

 なぁーに、捕り方が来たってそいつらも斬り殺せばいいだけでい。手に負えねンなら逃げちまえ」

「そんなのできるわけないじゃん……」

「ハッ、できねえんなら死ぬだけだ。いずれ地獄で俺様と一緒に責め苦を受けるだけだろーが」

 ニタリと何も根本的な解決にならないことを、さも真実であるかのように言い切った無迅にリオは言葉を失う。

 それから、ふっとリオ自身も笑いを漏らすように息を吐く。

 何度も何度も言い聞かせていたのに、結局、無迅はこうだった。

 どうしようもない人斬りの悪霊なのだ。倫理も道徳も求めてはいけない。性根からして狂っている人斬りでしかない。そんなものに必死に縋ってしまっていたのがおかしかったし、そんな悪霊なのにこうも心を開いてしまっている無迅に、今更になってどこか尊敬しているような気持ちを向けていたことにも気がついた。

 人斬りの感覚というものは、全身の血が沸騰するような興奮と快楽を伴う。

 それも一因だったが、かつて自分も人斬りになってしまおうと思ったのはそれだけではなかったのだと理解した。


 ずっと、分からないことだった。

 信念であったり、使命であったり、誇りであったり。

 あるいは魂と呼ぶべきものに殉じて死を覚悟する人間の原動力となるもの。

 きっと自分にはないだろうと思って、分からないとばかり決めつけていたものの片鱗に触れた気がした。


 無迅への憧れを初めてリオは理解した。

 その強さだけでなく、そのいい加減さだけでなく、その態度だけでなく。

 無迅という人斬り、無迅という悪霊、そのもの存在になれればどれほど良いかという憧れ。

 そんな感情がリオにとっての答えだった。


「もう会えやしねえだろうが、人と人なんてえのはそんなもんよ。

 せいぜい、地獄でまた(まみ)えたら今度は(オイラ)をいっぺんは殺してみやがれ」

「……うん」

 無迅の体はもう胸元まで消え去ろうとしていた。

 周囲の景色もまた、いつの間にやら鮮やかな色を失って水墨画のような白と黒とその中間の色のみに染められてきていた。

「1つだけ、お願いがあるんだけど……」

「あん? 何でい、今更」

「……前に、親代わりに育ててくれた山伏が死んで、無迅って名乗ったって言ってたでしょ?」

「おうよ」

「僕も、親なんて……何だか、そんな感じなんかなかった。無迅が、初めて、ずっと僕のそばで、僕のことを見ててくれた……そんな、特別なやつだったと思うから、その……これから、僕がさ――」


 最後のお願いを無迅は一度、呆気に取られたような顔をして受け止めて、それからニタニタと笑みを浮かべて了承した。

 あばよ、とそう言ってから、無迅はとうとう頭の先まで消えて、夢の世界も光を失って黒いものになった。


 リオの悪夢はとうとう、終わった。


 ▽


「――はあ、はああ……」

 息も絶え絶えに、全身に重傷を抱えながらリオはようやく、天丘中腹の休憩処のような小屋に辿り着く。

「おんや、どうした、お前さん? 大丈夫か?」

「あ、あの、助けて、ください……」

 丁度、その休憩処から出てきて天丘までの道を上り始めた男性がボロボロのリオを見て駆け寄って声をかけてくる。

「熊でも出たかっ? おい、おおいっ! 誰か来てくれ、大変だ!」

 比較的、怪我の浅い体の左側から支えて彼は人を大声で呼ぶ。すぐにそう多くない人が集まり寄ってきて、リオは休憩処へと運び込まれた。

 ボロの藁を編んで敷いただけの粗末にすぎる寝床へ横にされ、水をもらってリオはされるがまま介抱を受ける。野次馬のようにただ見ているだけという者の方が多かったが、その場にいた全員が集まっていた。大袈裟すぎやしないだろうかと朦朧としかけている頭でリオは思う。

「熊か?」

「……多分、そうです」

 鬼です、とは言いづらくリオは曖昧に肯定をしておく。周囲では熊か、と納得したように、しかし自分達の身を心配するように囁き声がそこかしこで起きる。

「こりゃ酷い……すぐに医者を呼んでやる。おい、タケさん、こっからだと天丘の都へ行った方が早いかね、それとも麓の先生か?」

「いやどっちも遠い。誰か、こん中で医術の心得がある者でもいないもんか?」

「いるはずねえだろうよ」

「それじゃどうしろってんでい。このままじゃこの子、危ないだろうが」

「どうしろもこうしろも、とにかく呼ぶしかないだろう!」

 てんやわんやの言い合いがそこかしこで起きる中、リオはもう寝てしまっていいだろうかとぼんやり考える。

 意識が遠退いていたところで、肩を揺すられてハッと目を開き直す。

「あなた、名前は?」

「……リオ、です」

故郷(くに)は?」

「誰も知らないくらい……遠く……」

「家族は?」

「……いません」

「困ったな、こりゃ。天涯孤独かい……。もし、もしもだよ、ここでころっとなっちゃったら、一体、誰が葬儀するんだ?」

「そらあんただろ、ここの旦那なんだ」

「いやいや、困るよ、困っちゃうなあ、そういうのは……」

「ちょっと、あんた達、何を不謹慎なこと言ってるの。大丈夫よ、あたしは多少の心得があるから。安心してね」

 質問をしてきていたのはほのかに甘い花の香りを振り撒く綺麗な女だった。

 後ろでがやがやしている男衆を一喝してから、彼女はすぐ、湯を沸かせとか、明かりを近くにもってこいと指示を出し始める。

「あ――」

「何、どうしたの? 大丈夫よ、意識をしっかりしてちょうだい」

「あの……名前、実は違うのも、あって……」

「違うの?」

 違う名前とはどういうことかと彼女は眉根を寄せる。

 よっぽど参っていておかしなことを口にしているだけだろうかとも考えていた。

「あの、ええと……人斬り無迅、って、名乗っていいって……」

「は? 人斬り……?」

「でも絶対、二代目っていうのをつけろとか言われちゃったんですけど……」

「え、ええ、分かったから、分かったからしっかりしてなさい。旦那さん、これ、この子の口に詰めて」

「もご……むぅっ、ん?」

「それじゃ、やるわよ……。ほら、手が空いてるんなら体押さえてあげて」

 リオは実際にほとんど意識がないようなものだった。

 口の中に丸めた手拭いを突っ込まれて何をされるのか、見えていたのに分かっていなかった。鋭い刃のついた小刀が蝋燭の火に当てられて消毒をされていた。口に含まれた強い酒を右腕に吹きかけられていたのは見えてはいなかったが、何かかけられ、揮発したようなひんやりした感覚を感じていたのにこれも脳みそが処理できていなかった。

 そして、小さな小さな、メスのような刃が入った。

「むぉっ、ご――!!?」


 幸か不幸か、哀れな少年は怪我の処置を受けられた。

 しかしその処置の全てが適切であったかは別の話だった。

 数日もの間、高熱にうなされ、傷口も熱を持って疼き、生死の狭間を彷徨うこととなった。


 が、命は繋いでしまった。

 後に二代目人斬り無迅と名乗る剣客はこの日を境に誕生したとか、しないとか。


 その歩みの果てを知る者はいない。






「――これは夢や、幻か? 一颯が、殺された?」

 その無惨な死体を見つけ、鳴は眉根を寄せてひとりごちた。

 袈裟がけに胴を切断され、頭は突き砕かれている。小さな黒い虫がその体にたかり、(からす)が足で胴を押さえながら器用に(くちばし)ではらわたを(ついば)んでいる。

 蛇の目の最高幹部たる、三途の使徒。

 そういう肩書きの上では同格でありながら、同じ三途の使徒でありながら鳴自身、そして巳影も、一颯に勧誘されたという経緯がある。そして2人とも一颯には到底、勝ち目はないと共通の認識をしていた。相手になるとして八天将の中でも随一、破格の力を持つと言われる者だけと考えていた。

 その一颯が惨めな死体に成り下がっている。

 目を疑い、その事実を彼女は受け入れることが難しかった。

「だが、一颯とて、所詮はなまなり、混じり物か。人斬り無迅……まさか、これほどとは」

 彼女はそっと草履の先で一颯の下半身を突っつくように揺らした。

 やはり反応はない。ただの死体となっている。

 一颯の死亡という事実は大きな影響を与えるだろうと彼女は予想する。

 この誰もが想定できなかったことをどうにか利用すべきだと彼女は思考をした。蛇の目という組織の中で己の地位を高めるのにこれほどの機会はない。


「――酷いなあ、鳴ちゃん。所詮はなまなりだなんて。

 僕のこと、今までそんな風に思っていたのかい?」


 いきなり声がして彼女は獲物に手をかけた。

 しかし一颯の死体は相変わらず、虫や鳥によって食い荒らされていくばかりだ。

「一颯、生きているのか……? どこだ?」

 バサリと一颯の内臓を啄んでいた一羽の烏が翼を広げながら、ぴょんと跳ぶようにして鳴を向いた。嘴の端から肉の筋がぶら下がっている。

「やあ、どうだい。この艶やかな黒い羽根。綺麗だろう?」

「……その烏が、一颯、お前だというのか?」

「今はね。頭を潰されると体を動かせないだろう? だから真っ先に体を食べたこの子にとりあえず避難しておいたんだ。一応、思い入れのある体だから、全部、食べておいてあげようと思ってさ」

「不死身だったのか」

「ふふ、羨ましいかい?」

「おぞましいな」

「またまた……。本当、鳴ちゃんは素直じゃないんだから。

 けどやっぱり人の体がいいんだ、僕は。リオおにーさんの体とか、欲しかったんだけどなあ。でも振られちゃったから、急場凌ぎに何か見つけるよ。

 あ、そうそう。襲撃はどうだった? みーちゃんがちゃんと火事を起こして目を集めてくれたんでしょう? 天子は死んだかい?」

「……いや、失敗だ」

「ええ? どうして?」

「亥然の妨害を受けた。どうやら神器によって感知されたらしい」

「ちぇ、つまらないの……。折角の作戦だったのに。まあいいや、すぐに終わってしまっても面白くはない。

 鳴ちゃん、僕はしばらく、新しい体を探すことにするよ。何でも良いとは言えないくらいには拘りたいところだからさ。だから蛇の目もしばらくは神器蒐集をしてればいいんじゃないかな? 鳴ちゃんの好きにしちゃっていいから、みーちゃんと仲良くやっててよ」

「好奇心だが、お前は人の体を乗っ取るのか」

「そうだね。でも何でも良くないから、大変さ。面白いけれどね」

「何でも良くないとは?」

「まずは見た目だね。器によって中身も引っ張られることはあるだろう? それと同じさ。だから僕らしさを保てそうな見た目の子というのが一番。それから頑丈さだね。下手な器だと僕の妖力に負けて腐ってしまったりすることもあるから。……そう言えばどこかに、法力の強い巫女の一族がいなかったっけ? 血筋に年頃の男の子とかいないかな? 別に女の子でもいいんだけど。あ、女の子にしてみようかな? どう思う? 巫女の女の子」

「それは巳影がシャガを起こすために皆殺しにした里の巫女ではないか?」

「ああ、あれかあ……。じゃ、少し遠出しなきゃかもな。替えになるかもって前から目をつけてたのになあ……。他に宛がないこともないからいいけど。ふふ、楽しみだな」

 烏がまた切断面から溢れた内臓を啄む。

 血や臓物といったものへの忌避感を鳴は持たない。しかし気味の悪い光景だった。

 一颯という怪物への底知れぬ畏怖と嫌悪感を強めて彼女は黙ってその場を去る。そうしてふと、転々と血の跡が地面についているのを見つけた。逃げ延びたリオの血痕だ。それを見て彼女は足を止める。


「あ――言っとくけど、鳴ちゃん。

 リオおにーさんには手出ししちゃダメだよ」

「手を出したら?」

「鳴ちゃんが死んじゃう。死にたいのなら構わないけれどね」

「……もとより、興味は失せている」

 そう答えて今度こそ彼女は立ち去った。

 やがて一颯だった男の子の死体は皮だけを残して、一羽の烏が飛び立った。


 血途の一颯は健在だった。








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