この先もずっと隣で。
玄関のドアを開けてスーツとネクタイを無造作に脱ぎ捨て、その場に倒れ込んだ。
そしてどんな小さな雑音にすらも掻き消されてしまいそうな程に脆く弱い声が漏れてでた。
「もう、諦めてもいいかい」
誰に対しての問いなのかも分からない。
その場に俺以外の人間なんて居やしないのに。遂にストレスでおかしくなってしまったのかもしれない。
毎日毎日朝はやくから出勤し、遅くまで残業。
上司には終始ダメ出しや文句を言われ、同僚や後輩には陰口を叩かれる日々。
休日ですら予定はなく、ただただ平日の仕事の疲れを癒すことのみに専念する。
なんの為に生きてきたのか、そしてなんの為に生きていくのか。はたまたなんの為に生まれてきたのか。
金を稼いで生きながらえて、その生きながらえた身体に鞭を打って労働する。
その繰り返し、それが社会の仕組みだと言われればそれまで。それに適応できない俺がおかしいのだと言われればそれまでだ。しかし例えそうだとしても辛いものは辛いし、苦しいことは変わらない。
一度そんなことを考えてしまうとネガティブなことばかりが脳内を占拠して暫くは解放してもらえない。
いっそこの空虚な生活に終わりが訪れることを望んでしまう。
救済は終わりとイコールでこそないが、よく似ている。だからこそ人はこういうとき救いを求めるんだ。
「この世界からすっと消えてしまえたらいいのに」
とうとう堪えていた言葉が口から零れた。
頑なに我慢していた理由、それは言葉にしたら今度こそ耐えられなくなると思っていたから。いや、口から零れた時点でもう既に限界だったのかもな。
翌朝いつもと同じ様にアラームの騒音に睡眠を阻害され、重い瞼をようやく持ち上げる。枕が昨日の涙でまだやんわりと湿っていて心地が悪い。
窓の外に見える曇り空は、まるで俺の心とリンクしているかの如くどんよりと薄暗い。いや、違うか。
空は晴れるが、この雲で覆われた心を照らす一条の光なんて存在しない。
そんな憂鬱な朝ももう慣れた。惰性で顔を洗い、スーツを纏い、珈琲を啜りトーストを噛じる。珈琲の苦味や酸味が仄かに口に広がって、ようやく一日が始まったのだと実感する。
違和感を感じ始めたのは街に繰り出してから2時間が経ったときのことだった。
会社の部活や上司に声を掛けても反応がないどころか、認識すらされていないかのように扱われるのだ。
「あいつ無断欠勤かよ」
「まあ居ても居なくても変わんないですよ」
ここに居るだろうが……。まあどうせこれも嫌がらせだと割り切ってデスクワークを続けた。
そして昼休みになり、行きつけのラーメン屋に立ち寄った。食券を買ったまではいいが、声をかけても反応がない。どうしたものかと入口で立ち止まっていると店員がおかしなことを言いだした。
「なんで自動ドア閉じたり開いたりしてるんだ?」
そんなの俺が入口に立っているからに決まっている。
すると客の一人が店員に対して不思議そうに笑う。
「いや、お客さんそこに居るでしょ」
「まじっすか! ってあれ、居ませんけど」
そこから客と店員同士で言い合いに発展していた。
気味悪そうにこちらへ向けられた店員の視線に苛立ちを覚え、店を後にした。
食券が紙切れと化したけれど、きっとあのまま居ても相手にされない。
あそこの店員は愛想の良い人だと思っていたこともあり、無視されたのは酷く残念に思えた。
なんだか今日はいつも以上に変だ。
職場の人間だけならまだしも、客にあそこまで悪質な嫌がらせをするとも思えない。
もし視認されなくなっているのだとしたらそれも納得できると思い携帯を内カメにして確認すると、変わらず泣き腫らした目と青ざめた顔をした俺がいた。
そうなると透明人間説は否定されるか、もしくは条件があると見ていい。
客には俺が視認できて、店員や職場の人間には恐らく見えていない。
ただの嫌がらせでないとすると異なる点は初対面かどうか。
試しに街を歩いていたOLに声を掛けると訝しげな目を向けられて無視されたが、俺という存在を認知した上での無視だった。
「あの、すみません」
通り過ぎたOLの後を付けていき、もう一度声をかけると、もうあの冷たい視線すらも向けてはくれなかった。その後も同じことを繰り返し、同じ反応が見られ俺は確信した。初対面の人間以外に認知されることはなくなったのだと。
気付けば時計の針は18時を回り、辺りは暗くなり始めていたので夕飯をスーパーのセルフレジで購入し、帰宅した。
いつもなら玄関で倒れ込んでいるところだが、不思議と足取りも軽くなっていた。人に認知されない不安も勿論あった。
しかし今はそれよりもう会わなくて済むという解放感の方が大きかった。長年俺を苦しめてきた呪縛から解き放たれて、これからは後ろ指を指されながら生きる必要もなくなった。
塞がっていた袋小路に活路が開けて明日からの生活に胸躍る感覚を、たしかにこの胸で感じていた。
次の日目を覚ました俺は、スーツではなく私服に着替えて自転車を漕ぎだした。久しぶりに乗った自転車で風を切る気持ちよさを肌で感じながら色んな場所を訪れた。死ぬまで働く為に生まれてきたわけじゃない。
きっとこういうことがしたかったんだ。そう思える程充実した一日だった。恥ずかしくて行けなかったメイド喫茶ももう認知されることがないとわりきって楽しむことができた。
楽しい時間を提供してくれたメイドさん達とも話せることはないのだと思うと少し心寂しく思う気持ちもあったけれど、それも一期一会だと思えば悪くない。
初対面の人からしか認知されなくなってもう5日が経った。
するとまた、ある変化が起きた。それに気付いたのは昨日実家に帰ったときのことだった。
二度目どころか、今まで何度も顔を合わせてきた両親だ。さすが見えるはずはないとわかってはいたが、実の親に見つけてもらえないのは思っていたより辛かった。
それでも今の状況を親には伝えたいと、認めた手紙をポストにいれて様子を伺っていた。もう話すことはできなくてもちゃんとここに居たってわかってほしい。ただそれだけだった。
「あら、手紙? 聞いたことない名前だけどどちら様だろうね」
「内容もイタズラみたいだな。そもそもおれらに子供はいない」
驚きのあまり言葉を失い、手で口を覆ったまま身体を震わせていた。
見えないだけじゃなく記憶からも消えてなくなるかよ。
どうやらこの現象はほっとけば悪化していくみたいだが、かと言って対抗策なんてあるはずもない。完全にこの世界から消えるまで余生を楽しむしかない。
ある日、街を歩いていると通りすがった少女が俺に声を掛けた。
「どうかした?」
「これお兄さんのですよね? 落としてましたよ」
「ああ、ありがとう……」
「ふふっ。もう落としちゃだめですよ」
悪戯そうに笑うと友達の輪の中に戻っていってしまった。可愛らしい子だと思った。笑った顔も優しげな声も忘れられなかった。
たとえ俺が忘れなくても向こうは容赦なく忘れ去り、もう二度と干渉することはできないのだと悟った。
それから一ヶ月が経ち、俺と関われる人は更に減っていった。
最近はまた楽しみも減ってきてこの虚無感をどう埋めるか、それだけで精一杯だった。
この世界から完全にズレる前に、だれかに見つけてもらえるうちに命を絶つことも考えた。でもあと一歩が踏みだせず死ねないでいたんだ。
それを不思議に思うこともなかった。その勇気があればとっくに俺はこの世にいないんだから。
「神様は俺のことが嫌いなんですよね」
いるかも分からない神に愚痴を零したりもしたが、反応なんてあるわけもない。ただ俺をこんな状態にしたのが神だというのなら、随分とひねくれている。
もうこんな風になる前とどっちが辛いかも分かんないや。いや、もしかしたらあのとき——。
「この世界からすっと消えてしまえたらいいのに」
もしもあのとき漏れでた言葉を神が聞き届けたのだとしたら、それはそれで神にしちゃ素直すぎる。
「どうか元の状態に戻してください」
少なからず期待を込めて発したその言葉に効力はなかった。
一度叶えてやった願いを取り下げる気はないのか、単なる意地悪か。そもそも神によるものではないのか。
惰性で過ごす日々が続く中、今度はいよいよ生活に支障がでるようになってきた。手から先が透け始めたのだ。手で掴もうとするものはすり抜けるので道具を扱うことはできない。
とうとう初対面の人間にすら見つけてもらえなくなり、だれかと話すことも不可能になった。どうしようもないこの悪夢がじりじりと俺を蝕んでいく。
途方に暮れて外を歩くと茜色に染った夕焼けが照りつける中を、バットやボールを抱えて歩く子供達の姿や、二人乗りの自転車に乗って身体を寄せ合うカップルの姿が目に映る。
いつからあっち側じゃなくなったんだろうと過去を振り返ると不思議とどれも昨日のように思い出せる。
幼稚園や小学校は普通に友達も居て不自由なく暮らしていた。中学にあがり、何故かいじめられた。
学校に馴染むのが遅かっただけでいじめられた。親にも沢山迷惑をかけて、いじめてきたアイツらを見返したくて……必死になって勉強した。
うちは金がなかったから大学には行けなかったけど、就職したら自分の稼いだ金で好きなことやって、恋人もできて、幸せな家庭を築いて大好きな家族に看取られながらこの世を去るんだろうなって。
でもそっか、そんなの勘違いだったんだ。
そんなことを考えていたら自然と涙が溢れて止まんなくなってた。
「ああ、でもそうか。ガキみたいに泣いてたってだれも見つけちゃくれないんだもんな」
周りの目も気にせず、いい歳した大人が人前でわんわん泣けることなんてそうそうない。
久しぶりに泣いたけど案外すっきりするもんだな。
何かを堪えるように泣くのと、吐き出すように泣くのではこうも違うだなんて。もうすぐ終わる人生だけどまた一つ学ばせてもらった。
「……さん……お兄さん!」
この耳心地のいい声はあのときの少女だろうか。
また思いだして想像とリアルが混同するなんて、今思えばあれは一目惚れだったのかもしれないな。
そのお兄さんって呼び方が妙にこそばゆくて、でも嫌いじゃない響きだった。
「私が見てますよ? お兄さん」
「あれ、なんで君……俺のこと……」
「また落し物してたので」
あんな恥ずかしいところを一目惚れした相手に見られたという羞恥心も相当なものだったが、今はそれよりも俺を見つけてくれたことが嬉しかった。
「もう一度だれかと話せるなんて思ってなかった……ありがとう、本当に……」
「あなたに呼ばれた気がしたんです」
「俺に?」
「はい。ずっと伝えたかったんです……。もう辛くないよって、あなたはひとりじゃないよって」
その言葉こそが俺が求めていた救済だったのかもしれない。
気付けば過呼吸になりかける程に泣きじゃくり、せぐり上げた涙がとめどなく地面を濡らし続ける。
「うぅ……うぐ……っあぁぁ……っ」
「もう情けないですね。よしよし」
「ひっぐ……あれ……なんで君に触れてるの?」
何が起きているのか理解ができなかった。何を触ろうとしても通り抜けてしまうはずだったのに今俺の腕は彼女の身体に触れ、温もりを感じている。
「ママー、あのお兄さん泣いてる」
それだけではない。いつの間にか辺りに人集りができており、その視線の先には俺と少女の二人がいた。つまり他の人からも視認できるようになったということだ。
「そろそろ恥ずかしいので離れてもいいですか?」
「ご、ごめん」
少女は少し乱れた服装を直しながら、一人分開けて俺の隣に座った。座れてしまったんだ。
今までできなくなっていたことが嘘のようにできるように戻っていく。不可逆が巻き戻されていく。
きっとこの少女と俺が出会うことは、神の用意したこの茶番のクリアに必要不可欠だったのかもしれない。こんな奇跡なんてもう二度とない、有り体にいえば彼女は俺の運命の人だった。
そこからは普段の生活に戻り、転職して会社に通勤しながらも俺を人生のドン底から救いあげてくれた彼女と一緒にがんばって生きてみることにした。
「これからも君の隣にいてもいいかな」
「私でよければ」
少し前までの俺は生きる理由を見失っていた。でもこのふざけた世界の、バグみたいな不思議な現象を通して大事なヒントを得てようやく答えが出せた。
「一度は消えたいと望んだ世界で、この身体朽ち果てるまで大切な人と共に」
それが俺の見つけた答えだ。