第二貫
奇想天外、愉快痛快、回想シーンの始まり始まり~。
え?そんな描写ないの……?え?
「やぁやぁ、君が新人バイトの藤井くんだね」
「は、はぁ」
「私がここの店長。困った事があったら何でも言ってね‼」
―綺麗な人だなぁ。
それが大学入学直後、青い藤井少年が店長に抱いた最初の感情だった。
くっきりとした二重瞼に茶色がかった艶やかな髪の毛。声を聞くだけで良い人だと分かるような声音。何よりも全てを明るく照らしてくれるような眩しい笑顔が脳裏に焼き付いた。
―田舎の高校を卒業し、街と言える街に初めて居を構えた藤井の人生初のバイト先の店長。それが彼女との『出会い』だった。
「うんうん。きっとこの先困った事や大変な事もたくさんあると思うの。だからそんな時は遠慮せずに―」
「何でも言ってねっ…てか。何言ってんだよ全く。おい、藤井って言ったか―」
店長が親指を立ててカッコいいセリフの締めをしようとした矢先、それを遮る声が唐突に事務所に響いた。
事務所に入ってきたのは長身で細身の金髪の男だった。いかにもチャラそうなその人は事務所を見渡してから、藤井を視界に捉え、やや高圧的に続けた。
「この人、確かに店長だけど基本ポンコツだからあんま当てにしない方がいいぜ」
「ちょっと‼鏑木くん‼新人の子に失礼でしょ!……ってあれ、今バカにされたのって私?」
「ほらな。この様だ。ま、お互い気楽にやろうや。よろしく」
「よ、よろしくお願いします」
店長が鏑木と呼んだその人は、鏑木仁という名前の大学四年生だった。見た目はチャラいがなんと同じ大学の先輩だということがその後分かった。
見た目と口調とは裏腹に面倒見がよい先輩で、初出勤のその日の午前中には「仁さん」と気さくに声をかけられるくらいに打ち解けていた。
「藤井はさ、なんでこのバイトに来たわけ?魚好き?」
「いや、特に大した理由はないんですが……。まぁそうですね強いて言うなら寿司を握ってみたかったというのはあるかもしれません」
「なるほどねぇ。ま、理由なんてなんでもいい訳で、俺はお前が辞めずにいてくれたらそれでいいよ」
「仁さん、優しいんですね」
「馬鹿言え。この店は見て分かる通りバイト少ねぇからよ、人員が一人でも多ければそんだけ俺も楽できるってもんよ」
仁さんは当時のこの店のバイトリーダーだった。面倒見が良くてしっかり者で、店長からの信頼も厚かった。
今思い返せば、先の発言も恐らく照れ隠しかなにかだろう。
実際、藤井自身がある程度働けるようになっても仁さんから仕事を押し付けられることはなかったし、むしろ仁さんはいつも人一倍働いている印象があった。
「うんうん。鏑木くんは偉いねぇ~。あ、私も仁くんって呼ぼうか?」
と、昼のピークの営業を終えて、ある程度忙しさが落ち着いた時間帯(飲食店ではこれを「アイドル時間」と呼ぶらしい)に休憩を貰った藤井は、事務所で仁さんと他愛のない会話をしていた。
そこに顔を出したのは両手を後ろに組んで嬉しそうに頷く店長だった。
「藤井くん、鏑木くん優しいでしょ~。私も本当に頼りにしてるのよ」
「なんだよ突然。ま、俺がいなけりゃこの店はおしまいだけどな。卒業してからが思いやられるぜ、ほんと……」
「ちょっと!鏑木くん‼それは口に出さない約束でしょ!」
「はいはい。すいませんでしたぁ。……っと、お客さん来たみたいだぜ」
軽口で謝る仁さんは、店の外、駐車場のカメラが映し出されている画面を見て客の来店を口にした。
「こんな時間に寿司食おうなんて思うかね普通?」
「まぁまぁ、お昼食べ逃しちゃった人とかいるかもしれないじゃん」
「そもそも俺は昼に寿司食うヤツの気が知れねぇな」
「それは鏑木くんの価値観でしょ~。さ、私は接客に戻らないと」
「大丈夫か?なんなら俺が休憩上がるが」
「それはダメよ。休める時間はちゃんと休んでもらわないと。ね?藤井くん」
「え、え?俺ですか?」
仁さんと店長のやり取りだと完全に気を抜いていた藤井は突然話を振られたことに狼狽した。
「気にすんな、藤井。店長はたまに会話の基本を忘れることがあんだよ」
「む……。ちょっと、鏑木くん流石に今のは悪口って―」
「ほら行った行った。お客さんが待ってるぜぇ、…て、ん、ちょ、う」
店長の反論を遮って封じ込めた仁さんは、発言の最後、「店長」の音韻に併せて四回店長に向けて手を振った。
「―‼もう。分かりましたぁ‼優しくない鏑木くんなんかより、私はお客さんの相手をしてきます~」
そう言い放って店長はぷりぷりした様子で事務所を後にした。
「始めは優しいって言いながら入ってきたのに、出て行くときには優しくないだとさ」
立ち去る店長の後ろ姿を見てそんな軽口を続ける仁さんはどこか楽し気だ。
「店長ってずっとあんな感じなんですか?」
「ん?そりゃどういう?」
「いや、俺、実家が工場なんですけど、俺の知ってる『長』とはちょっと違くて…」
勿論知っている長とは、工場長の自身の父なのだが、少なくともこの店の店長よりは威厳があるし、もっと色々考えてているように見える。
「まぁ、確かに店長っぽくはないよな。でもまぁたまにはそれっぽいこともしたりしてさ。ま、ほんとにたまーにだけどさ」
「いい人なのは分かるのですが」
「そうだな。店長はいい人だよ。あとはそうだな、まぁ普通に可愛い」
「仁さん、もしかして店長の事…?」
「あぁ?それはねぇな。確かに見た目は可愛いけど中身があれだとなぁ。それに俺、彼女いるし」
ないないと首を横に振る仁さん。どうやら本当にただの可愛い店長としか思っておらず、女性としては見ていないようだ。
「それより、どうだ?バイト。やって行けそうか?」
「はい。皆さん優しくて面白いのでやっていけそうな気がします」
「そうか、そりゃよかった。じゃあ夜の営業も頑張ってくれよな。新人」
「―はい‼」
―そして『問題』は、起こった。
「―だから‼あんたにどんだけ謝られてても仕方ないんだよ‼」
夜の営業中、ある程度客も入りそれなりの活気を見せる店内で野太い男の大声が響いた。
「もっと他に誠意の見せ方ってのがあるだろうが⁉」
「…はい。ですのでクリーニング代はこちらで―」
「だーかーらー‼それだけなのって事を言ってるんだよぉ‼こっちは‼」
そう声を張り上げる男のシャツにはマヨネーズの汚れがべっとりと付着している。手元には従業員がすぐに用意した布巾が置かれているが拭き取る素振りもみせず喚き散らしている。
店内の他の客たちもガヤガヤと何事かと注目しており、店内は異様な空気に包まれていた。
―事の発端は藤井の運んだ『オニオンサーモン』だった。
その日の店は予想以上の客足で、店長、仁さん含め全従業員が慌ただしく働いていた。勿論、初出勤の藤井もただ見ている訳にも行かず、注文された商品のテーブルへの運搬を担当していた。
まだ覚えきれていない商品名にテーブルの位置。そもそもお客さんを相手に会話したことがなかった藤井にとってアルバイト用語はなかなかすらすらと口にできなかった。
何かと小器用にこなせた藤井ではあったが、それでもやはり忙しくなった飲食店での業務効率は他のスタッフの半分以下だった。
そんな中、藤井は慌てた足取りで商品を片手に目的のテーブルまで向かっていたのだが、その際、角から突然子供が走って飛び出してきた。
その子供を避けようと体を大きく動かしたのだが、その反動で手に持っていた『オニオンサーモン』が皿から離れ大きく宙を舞った。
そしてそのまま近くに座っていた例の男のシャツに着弾した。
オニオンサーモンはサーモンの上にオニオンスライスをトッピングし、その上にマヨネーズをかけた人気商品なのだが、その人気の所以であるトッピング達が仇となり、男のシャツをこれでもかと汚したのだった。
あまりの一瞬の出来事に驚きを隠せないでいた藤井はしばらくその場で立ち尽くしてしまった。
どうやらこの藤井の態度が男の逆鱗に触れたらしい。
「―すぐにすみませんも言えんのか!貴様ぁ‼」
その後慌てて謝罪した時にはもう遅い。
激高した男は声を荒げて店長を呼ぶよう叫んだ。慌てて飛び出してきた店長はすぐに男の下へ駆けつけ平謝りを連発した。
藤井はただただそれを見ていることしかできず、茫然自失といった表情でその状況を傍観していただけだった。
男が落ち着きを取り戻し、家族を連れて店を出たのはその後30分も経ってからのことだった。
一度客が大声を出した飲食店の居心地というのはもう最悪で、連れられるかの様に他の客もぞろぞろと帰りはじめ、あれだけ賑わっていた店内はものの見事にあっという間に客が一人もいなくなった。
その日、営業が終わり、自身の勤務時間が終わった藤井は事務所に入るや否や店長に謝罪した。
「本当に、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「ん?あぁ、藤井くん。お疲れ様~。初日から大変だったねぇ~」
気まずそうに下げた頭を起こした藤井は、事務所のパソコンの前に座る店長の変わらない表情を見て心底動揺した。
「あの……、怒ったり、しないんですか?」
「私が?藤井くんを?どうして?」
「いや、どうしてって……。その、あんなミスして俺…」
「まぁ、確かに直ぐに謝らなかったのはまずかったかもだけど、藤井くんは新人さん。それに一日目。な~にも悪くないよ」
あけすけな笑顔を宿して優しい声音で店長は続けた。
「むしろ謝らないといけないのはこっちの方だよ。いくら人手が足りないからって新人の藤井くん一人で業務させてたんだもの。そりゃ、失敗して当たり前。それに―、」
全てを包み込んでくれるようなそんな温かい声音で藤井の失敗を許し、そして初めて会った時のあの太陽のような笑顔を宿して、
「バイトなんてミスして当たり前なんだからいいの。その責任を取るのも店長の役割なのです」
最後はエッヘンと胸を張ってそう言った。その優しさに溢れた明るい表情を見て藤井は心が締め付けられた。
心の奥底から湧き出る『何か』に鼓動を早められるのを感じた。
「……すみません。俺、店長のこと少し誤解してたのかもしれません」
「ん~?それってどういうことだろう?……え⁉悪口?悪口なの?も~、鏑木くんの悪い所もう感染しちゃったの?」
「いいえ、全然。むしろその逆です」
一人で変な結論を出して一人で悶絶するような仕草をする店長を横目に藤井はクスっと笑みがこぼれた。
「それでもやっぱり、すみませんでした。俺の不注意には変わりないので以後気を付けます。……あと、次はちゃんと謝ります」
「うんうん。なんでもそうだけど失敗したら直ぐにごめんなさいって言わないとね。思い立ったらすぐ行動!傍観しているだけじゃ気づいた時には『時既にお寿司』。なんちゃって」
そして訪れるひと時の静寂……。
「あ、ああああれれ?おか、おかしいな渾身のジョークなんだけど、藤井くんには――」
「っぷ、ははははは‼あはははは‼」
そんな風に慌てふためく店長を見て堪え切れなくなった藤井は大声を上げて笑い出してしまった。こんなに声を上げて笑ったのはいつ以来だっただろう……。
「な~んだ。面白さ我慢してたんだ。面白いと思ったならそう言えばいいのに」
「あぁ、はは。もう、そういうことでいいですよ」
またしても見当違いな発言をする店長に藤井は痛くなったお腹をさすりながらそう言った。笑ったのは冗談の方ではなくその後の店長の可愛く慌てる姿だったが、そんな些末な事はどうでも良かった。
「なんだ?急にクソでかい笑い声がしたが……」
「あ!聞いて、鏑木くん!藤井くんが私のジョークで爆笑してくれたの」
藤井の大笑い声を聞きつけて事務所にやってきたのは仁さんだった。
「はぁ?藤井、お前笑いのセンスは欠片もないんだな。ちょっと見損なったぜ」
「そうそう。……ってあれ⁉鏑木くん⁉」
「違いますよ。仁さん。色々と違います」
相変わらずのやり取りを見せる店長と仁さん。
店長に勘違いされるのは良かったが、仁さんに笑いのセンスがないと誤解されたままでいられるのは嫌なので迂遠な言い方で店長の発言を否定した。そして、鞄を持って立ち上がり、二人に言った。
「俺、この店で頑張ろうと思います。…そんな感じの話をしてただけです。迷惑かけるかもですが今後ともよろしくお願いします」
「あれ~。そんな話してなかった気がするけど……」
「お疲れ様でした‼」
そう店長の疑念を遮って藤井は初出勤を終え事務所を後にした。
「なぁ、何を話してたんだ?ほんとは」
藤井に続いて、仁さんも残りの仕事を終わらせるべく事務所を出たが、事務所を出た途端仁さんがそう聞いてきた。
「いや、ほんとに大したことないですよ。普通に今日はすみませんでしたって謝ったくらいです」
「じゃあなんで藤井はそんなに嬉しそうなんだよ?」
「別に。特に理由はないですよ。あ、そうだ仁さん、俺店長の店長らしさ分かった気がします。あの人はちゃんと俺の知ってる『長』と同じでした」
「藤井、お前……」
意気揚々と話す藤井の表情を見て、鏑木は何かを悟ったように口角を上げた。
「なるほどな。まぁせいぜい頑張れや、新人」
「何か分かった風な口ぶりですが……?まぁ、その、今後ともよろしくお願いします、仁さん―‼」
「おう、じゃあまたな」
そうして店を出た藤井は自宅まで原付を飛ばした。珍しく鼻歌なんて刻みながら……。ヘルメットの下の顔は喜色で満たされていた。
――この日、藤井青年はバイト先の店長に恋をしたのだった。