34.少女の決意と俺の覚悟
空間が揺れた。
といっても、何かが起こったわけではない。
闇を切り裂く光も、強烈な音も、地面を揺るがす振動も、そよふく風も。
何もない。
ただ、降りしきる雨の中、確かに肌に残った違和感。
それだけだった。
異変に気付いたのは俺とヴィラ、それにコンシュの三人だけのようだ。
勝利に浮かれた兵士たちは相変わらず――いや、向こうでタケが不審そうな顔でこちらを見ている。四人か。
「……ちょっと出るぞ」
するりと服から抜け出したヴィラが、薄いキャミソール一枚のあられもない姿のまま、頭上にせり出した岩の上へと消える。
コンシュと顔を見合わせて、すぐに後を追った。
回り込んで岩の上に出ると、ヴィラは中空を見つめていた。
長い尻尾がまっすぐに伸ばされている。
今までほとんど動かしてなかった翼までをも最大限に広げて、身体の全てで事象を走査しているようだ。
大きな瞳が雨粒に叩かれるのも気にせずに、じっと空の一点を見続けている。
「精霊たちが掌握されていく……なのに術式の施されている様子もない。音価も響いてない。なんだあれ……」
「俺にも“視”せてくれ」
「うん」
側に寄ると、こちらを見もせずに手を握ってきた。
ヴィラの視ている物が即座に脳裏に伝わってくる。
夜の空に、闇よりなお黒い、球形のぼんやりとした影。
何かが空中に浮かんでいるようにも視えるが、この雨では触覚も届かない距離だ。
視る限りでは、墨で塗り潰された巨大な気球かなにか。
だが、空の一点に完全に固定され、そよとも動かない。
かなりの大きさのようだ。少なくとも二、三十メートルはあるだろう。
降りしきる雨粒が、その球体の縁に沿って止まる。その端から白く濁っていった。
……凍っているのかあれは?
「いったい何が始まるんです」
「あれだよ」
コンシュと、遅れて登ってきたタケの二人に、球状の闇を指し示してやる。
もはや巨大な球形の霜と氷の塊となったそれは、夜の闇とはいえ人間の目でも、うっすらと視認できるレベルだった。
「……あれは?」
「なんだありゃあ?」
「そんなの俺だって知りたいっつの。ヴィラ、あれがなんだか想像つくか?」
「ううん、あんな現象見たことない……術式なのかどうかすらわかんない……」
「……だよな」
もちろん俺だってあんな現象は見た事も聞いた事も――って、現象? ヴィラはあれを物ではないと認識してる?
現象――つまりモノじゃなくって、“何かが起こっている場所”ってことか。
……そんな感じの空間だったら、なんとなく記憶にあるような気がする。
どこで見たんだっけ?
「おまえはアレを知ってるのか? あれはなんだ、どこで見た? 早く思い出せ! わたしと会う前か?」
「お前に会う前にあんなの見るわけ……ってそうだよ、お前だよ!」
思い出した、こいつの“変身”の時だ。
そりゃ自分の変身してる時の様子なんて、当の本人は知らなくて当たり前だ。
「え? じゃああれは何かが変身してるのか? あそこで? ……でもつい今しがたまで、あそこには何もなかったんだぞ?」
「変身とは過程が逆なだけだ。お前は自分の身体ごと空間を“畳んだ”。アレは空間を“展開”しているんだよ!」
「展開――つまり何かが現れる……まさかアイツか! なんであそこに居る!?」
「空間を操れるなら転移だって可能なんだろ! おいコンシュ――あれ?」
振り向いた時には、二人の姿はすでに無かった。
岩場の下から「撤収! いえ退避! 荷物を捨て、各自の判断で退避!」「お前ら逃げろ! 赤竜が逃げだした!」と絶叫する声が聞こえてくる。
さすが軍人、判断が早い。
見る間に兵たちがバラバラに散り始めるのを横目に、必死で頭をめぐらせる。
「ヴィラ、あれがお前の変身と同じようなものだとして、どのくらいでヤツの実体化は完了する?」
「ん……もしあれが“変身”と同種の中・低級術式なら、アイツの内包できる最上級精霊密度から逆算できるぞ。洞窟内の全精霊もどうやってか使役できたとして、想定されるアイツの体積は……」
ぶつぶつと考え込むヴィラ。
頭の中に、まったくわからない記号図案が飛び交う。
「……わたしたちが事態を把握した時に転移が始まったんなら――この世で一番軽い物質が励起した状態から中性基底に戻るまでの反復を三十八万五千百一点四三七五二七六……」
「……人間に理解できるレベルに戻ってきてくれ。秒に直すとどのくらい?」
「えっと、“びょう”“鋲”“猫”“秒”……これか。ええと、今日を八万六千四百で分割するのか――にひゃくろくじゅうよん てん れいにいちはちご……」
「ありがとう、あと四分半弱だな」
計算結果を棒読みで垂れ流す少女を遮って考える。
部隊が避難するには絶望的なまでに時間が足りない。
だが、ヴィラが姿を見せれば、アイツは人間を無視してこっちへ向かってくる。
最高速はヴィラの方が早いし、ここは崖側で加速のための高低差も十分にある。
逆に考えると、四分も猶予があるってことだ。
今のうちに高度と速度を確保して、上空で待機しつつヤツが顕現するのを待つ。
奴の転移が終了したら、牽制攻撃をして注意をこちらに向けさせ、コンシュたちを逃がす。
速度で負けてしまっていても、今回は盆地の出口はすぐ目の前だ。ある程度の高度を速度に変えても、追い込まれてしまう事態にはならない。
よし、こんな感じで……。
「……あきら、おまえの命を、わたしにちょうだい?」
「は?」
突然、話の繋がらないことを言われて顔を上げた。
※
ヴィラはもう空を見上げてはいなかった。
俺を見て寂しそうに笑う。
「こんなこと、契約条件に反してるのはわかってる。おまえと人間の真似事をするのはすごく好きだけど、でももう、今しかないから……」
「まさか、アイツと戦う気じゃないだろうな? ちょっと落ち着けよ」
そっと抱き寄せようとする。
が、ダンスでもするかのようにヴィラは身を舞わせると、手を繋いだまま脇をするりと抜けていってしまった。
「大規模な空間の書き換えは、体力も精霊も消費する。今のアイツなら術の威力も、精霊対抗力も落ちているはずだから……」
「それなら逃げるにも最適ってことだ。アイツに勝つ算段なんか無いんだだろ? 今は屈辱でも次の機会を待つべきだ」
「次っていつだ!?」
耐えかねたように少女は声を荒げた。俺を掴んでいる手にギュッと力がこもる。
「今勝てないなら、わたしがアイツに勝てるのはいつだ!? それまでずっと奴に怯えながら逃げ回るのか? どこに? この地の人間はいい奴らも多かったけど、みんな居なくなっちゃうんだぞ! アイツに狩られて!!」
「首都の向こうに逃げるんじゃなかったのか。最初はたしかそういうハナシだったよな?」
「その先に光明はあるのか! 今、戦うより確実な未来が!?」
「痛いって、ヴィラ!」
「……あっ……ご、ごめん……なさい……」
そっとヴィラは手を離して。
「うん……だから、これはわたしのわがままで……うん、やっぱり、今の話はナシにする」
「思い直してくれたのか?」
「ううん。おまえの命はもらえない。契約は解消する。行くのは、わたしだけだ。おまえは……わたしのおまえは……元の世界に帰れ」
「おい、ヴィラ――」
「いままでありがと……だいすき」
「――っ! 駄目だ!」
そのまま切り立った岩の上から身を投げようとするヴィラを、すんでのところで引き寄せた。
今度は間に合った。
腕の中で暴れようとする小さな体を、無理やり抱きしめる。
「やっ! やだってば! わたしは行くの、止めるな!!」
「お前一人じゃムリだっつってんだ! 俺も行かなきゃ勝てないだろ!!」
俺の叫びに少女が一瞬身を固くする。すぐに全身から力が抜けた。
「まさか、また……一緒に飛んで……くれる……のか?」
「別にお前のためじゃない。俺はお前無しじゃ生きていけないんだぞ?」
そうだ、そうなんだ。
一人で行かせたところで、あっさり墜とされるのが関の山だ。
こいつを無駄死にさせた後には、俺たちの番が来るだけ。
万が一、怒り狂った赤竜の襲撃の手を逃れたとしても、どんな凶暴な野生動物がいるともわからない山中に取り残されるだけ。
そして億が一、無事に人里にたどり着けたとしても、俺は教会から追われる“魔道士”にして、軍をいいように操る“悪い魔法使い”だ。
ここでヴィラと離れたら、どっちにしろ俺には詰んでる未来しかない。
「……んふ、おまえは悪魔のくせに、本当にウソがヘタだ」
「嘘? 嘘なんて俺がいつ……」
「自分で気付いてないのか? おまえはいつだって、やると決めるのが先なんだぞ。……今だって、後から理由を必死に探し出しただけでしょ」
「そういう見方も、あるかもな」
腕の中で泣きそうな顔のまま笑う少女に、そう嘯いてみせた。
※
「行かれるのですか」
「ま、がんばってこいや」
いつのまにか背後に立っていた二人が声をかけてくる。
思わず呆れた声が出た。
「あんたらなんで逃げてないんだ……アレは十中八九、狂乱で惑乱の、赤竜だぞ」
「部下はすでに退避させましたよ。ですが本当は、我々が逃げる意味なんて無いのでしょう?」
「まあね、アイツはおそらく――」
「――そうだ。アイツはまず、わたしたちを狙うだろう。だが、わたしたちが墜ちれば、次は間違いなくきさまら人間だぞ?」
俺が言いかけたのを引き継いだヴィラの言葉に、ヴィラ以外の人間代表三人は顔を見合わせた。
誰ともなく、思わず苦笑いが漏れる。
肩をすくめあっていると。
「おまえまで“人間”の顔するなってば! おまえはわたしのものでしょ!」
「ちょっヴィラ、行くよ、行くから押すなって――ともかくあんたら、ここから離れてろよ。爆風や流れ弾くらい来るぞ」
人外少女に鼻でぐいぐい押されて、人間の輪から引き剥がされてしまった。
だが二人の苦笑は止まない。
「それこそどこに居ようと、当たるも当たらぬも運次第ですよ」
「竜同士の戦闘なんて世紀の見ものだぜ? 見物料がちぃとばかり高くつくなぁ覚悟の上だぁな」
言いつつタケが何かを放り投げてくる。
受け取ったそれは、銃身を切り詰められた小ぶりの縦二連装式フリントロック銃だった。ご丁寧に撃鉄部分が袋状の布で覆われている。
「……これは?」
「そんなんじゃ効果射にならんかもしれんが、柔らかいトコにでも中てりゃあ嫌がらせくらいにゃなるだろさ。その腰の飾りよりは役に立つだろ」
と、竜殺しの剣をアゴでしゃくって笑う。
「……そうだな、ありがたく使わせてもらう」
掲げて見せると、二人分の挙手の礼が帰ってきた。
「我々はここで、指揮官の帰還をお待ちしています」
「じゃあな、御武運を」
※
俺とヴィラ、二人並んで崖に面した岩場に立つ。
自分で首輪を外したヴィラは、するりとキャミソールを肩から落とした。
額飾りを俺に手渡すと、一糸纏わぬ姿でそっと手を差し出してくる。
「じゃあ、あきら、わたしの全てを任せる。一緒に飛んで?」
「ああ、ラストダンスの時間だ。お嬢様、お手をどうぞ」
格好つけてうやうやしく差し出してみせた俺の手を、
しかし意外なことに、ヴィラはいぶかしげに見た。
「……ええと、やらなきゃだめ?」
「ただのカッコつけだったけど、嫌だった?」
「別に嫌ってほどじゃ……わかった」
なぜかキッと俺の手を睨む。
手をぺしっと乗せて。
「わんっ!」
「そのお手じゃねえぇぇぇぇぇ」
俺の悲鳴は崖下へと掻き消えた。
ヴィラが時間計測に使用したのは1420Hzです。21センチ線という天文学で色々な計測の基準となる、水素原子が発するスペクトル線だそうです。
夜空の下でAMラジオを1420Hzに合わせるだけで星々からの音が聞けるなんて、お手軽だけどロマンですよね。




