29.暗い森の中で
誰の見送りもなく夕闇の迫る中、俺たちは崖下の温泉療養地を離れて、鬱蒼とした黒い森へと、この世界に一つだけのMTBっぽい軍用チャリを漕ぎ出した。
人一人が何とか通れる小径はすぐにかすかな獣道へと変わり、それも完全に消えるころには、辺りは真っ暗になっていた。
首筋に置かれた手から伝わってくるヴィラの暗視視界を頼りに、俺の目には真っ暗な森の中をひた走る。
針葉樹の極相原生森は樹冠が厚く、日中でも光はあまり差し込まないようだ。
そのためか枯葉が厚く覆う地面は下草や茂みがまばらで、自転車で走るのにあまり苦労は無かった。
さらにはコンシュとタケの上着を奪ってサドルと荷台に敷いたので、体に伝わってくる衝撃は段違いに緩和されている。
これはなかなかに快適だ。
「あーやっぱり森は気持ちがいいな。人の領域と違って、空気も精霊密度もぜんぜん違う!」
ついさっきまでの様子もどこへやら、頭そばから機嫌のいいヴィラの声がした。
ぐずぐず言ってたのは、なんだったんだろう。
「ん? だって、雨になるのに出かけるのは、やっぱり気はすすまないでしょ」
俺の嘆息まじりの思考を拾ったヴィラが、首筋にぎゅーっと抱きついてきて大声を出す。
「でも、わたしたちだけだったら自由だからな! 久しぶりの解放感?」
「耳元で怒鳴るなって」
「あ、ごめん。……そうだな、人間はもういないんだった……」
ぱっと首が解放され、ごそごそと背中でうごめく気配が始まった。
なんだかやたらと落ち着きがない。本当に舞い上がってるなこりゃ。
視界は暗視に頼りっきりになるので、ヴィラには前だけを見ててくれとお願いしてある。
その視線は俺の肩越しにずっと前に据えられたままなので、言いつけは守っているようだ。
逆にそのため、身体でなにをやっているのかは見えない。
だが、見なくともすぐにわかった。というか、急に全周囲のいろんなものが“視え”出した。
少女がマントを脱いだために、周囲の状況が尻尾の触覚に“触れる”ようになったのだ。
「まてまて、なんで服脱いでんだよ!」
「わたしとおまえしかいないんだから、服は必要ないでしょ?」
「ったくこの裸族め、事あるごとにすっぽんぽんになろうとするなっつの。脱いだら寒くなるからね?」
森の中は風が通らないとはいえ、夜が暮れるにつれ気温は下がってきている。
そもそも自転車に乗っている以上、自分から風を受けに行っているわけで。
だが、羞恥心など生まれてこのかた持ったこともない小動物は平然と。
「そしたらおまえの服にもぐりこめばいいだけだぞ?」
「潜りこむな! お前だって地図見たりアイツの臭いを探したり、することが色々あるんだよ。それに今、俺は必死にチャリ漕いでるの、邪魔しないで!」
「ぶぅ……じゃあ、じゃあそうだ。おなかがすいた!」
「じゃあ、の前と後ろがまったく関連性がないんですけど!?」
なんなのもう、このイキモノは。
「……お前、本当にあの赤いの倒したいんだろうな?」
「それは当たり前だけど――あ、なんかいる!」
そのイキモノの存在が突然、背中から消えた。
視界がいきなり、真の暗闇になった。
※
「……ヴィラさぁーん……どこですかぁー?」
別に自分の目だって閉じていたわけではなかったのだから、とっくに暗さに順応しているはずなのに……マジで何も見えない。
真の暗闇だ。
直前までヴィラの目を通して見えていた景色の記憶を頼りに、地面を蹴って急停車した。そこまではいいが、上を向いても、覆いかぶさる枝々が邪魔をして星すら見えやしない。
「……おーい、俺の契約者さーん?」
暗闇に取り残された不安と恐怖に、思わず声が上ずってしまう。
耳には、夜の森を渡る風が梢をゆするザアアァという音、何かの動物でもいるのか茂みが時折がさがさと鳴る音、それしかしない。
もう、一歩たりとも動けない状況というのは、ものすごく心細い。
あれから何分経ったのだろう。
近くにヴィラがいるはずだという確信のおかげで、パニックだけにはならずに済んでいる。
それにしたって、なんでこんな目に遭ってんだよもう。
あんまり急いで出てこずに、せめて弁当でも作ってもらっておけばよかったか。
いや、少なくとも非常用に明かりの一つも借りてきておけば……。
だらだらと思考をたれ流していて、ふと思い出す。
……そういやあったわ、灯り。
コンシュにもらった小物は全部、角袖の懐中に入れたから、たしかここに……あった。オイルライターっぽいブツとランタン。
はあああぁ、よかったぁ。
心の底から安堵のため息がでた。
辺りは真っ暗なままだし、状況的には何一つ変わったわけではないが、何も見えない中、小さな金属箱の冷たい感触の、この安心感ったらないわ。
いざとなれば光を点ける事ができるというだけで、かなり気分が楽になる。
落ち着いて周囲の音に注意する余裕までもが出てくるってものだ。
ヴィラの聴覚の流れ込んでくる感覚を思い出しながら、耳を澄ませる。
不安に押しつぶされそうになっていた先ほどまでと違って、今度はさまざまな音が聞こえてきた。
近くを流れる小川のせせらぎ。野鼠か何かのかさかさいう足音。こうもりの羽ばたき。遠くに聞こえるあの鳴き声はフクロウか。
ざああと風が木々を渡る音の中に、かすかに異質なザザザザという音が移動しているのがわかった。
たまにザッと力強い音がしたかと思えば上の方に移動し、タンッタンッと、小気味よく幹を蹴って移動。それからまた地上に戻る。ザザザザ……。
……これか。この音がヴィラだな。
何かを追いかけているのだろう、行ったり来たりを繰り返しながら、遠くの方へ小さくなっていった。
遠くで――それとも思ったよりは近いのか――「このおっ!」「ギャンッ!」という小さな声が連続して聞こえ、それきり静かになった。
よし。獲った、な。
なぜだか嬉しくなって、口元が自然とニヤける。
なんだろう、妹が運動会でかけっこ一等賞になった時のような気分?
いや、ゲームでチームメイトが敵機を墜としたのに向けてグッジョブを送る時の気分に近いか。
ヒマに飽かせてそんなことを考えつつヴィラの帰還を待っていると、てし、てし、と足音が聞こえてきた。
ようやくのご帰還か。
「おつかれ、お帰りー」
心底安堵して、明るい声が出た。
だが、当然あるものと期待した返事は、一切なかった。
……ん?
普段のヴィラなら、喜び勇んで走り寄ってきそうなもんだけど。
「おい、ヴィラだろ? どうした、怪我でもしたのか」
再度声をかけてみるが、やはり無言だった。
次第に近づいてくる足音に、再びそこはかとない不安感が鎌首を持ち上げ始める。
本当に……あいつなんだろうな?
足音が近づくにつれ、音のする場所の直上、ちょうど俺の胸の辺りの高さのところで、何かが蠢いてる気配までが感じ取れてきた。
え……ちょっ、なにこれ。
背中に一筋、冷たい汗が流れる。足はすでに動かなくなっていた。
何者かの気配はすでに俺の目の前だ。
ヤバい、なんかこれ絶対にヤバい。
そうだライター、ライターを点けて様子を――って何だこれ、どうやって点けるんだよ!?
暗闇の中、手探りで上蓋を開けたはいいが、一昔前のライターに付いてた丸いアレも、電子ライターの押し込みスイッチのようなものも無い。
焦って触りまくっていると、湿ったヒモとその近くにバネ、さらにバネに繋がる撃鉄のような形状の部品があった。
これか!?
ぐいっと奥まで押し倒してみると、途中まで掛かっていたテンションが最後で抜けて、カチンという音と共に一瞬だけ小さく火花が散る。
まさかのフリントロック式かよ!!
これは点かない。
火花が小さすぎて、必死にカチカチしてもなかなか火芯に火が点かない。
くそっ、点けよ! 点いてくれよ!
なんかもうここまでホラー映画の展開チックだと、いっそのこと、このまま火が点かない方がいいのではないだろうかと思えてくるほどだ。
だって、火が点いた挙句に、物体X状に蠢く“何か”が見えてしまうくらいなら、何も見ないで済んだ方がまだ幸せってものだろう。
う゛う゛う゛う゛う゛
「――っ!?」
目の前で突然くぐもった唸り声を上げたそれに驚いて、思わず腕に力が入ってしまった。
点いた。
至極狭い範囲ではあるが、世界に再び光が甦った。
突然の明かりの中、俺の網膜に映ったものは――。
――黒い塊。
うつむいて垂れた前髪が顔を覆っている。
その髪を下から切り上げるように、額に屹立した白い一本の角。
切り分けられた髪の隙間から煌々と光る一対の目は、真っ赤に燃えていた。
その口元で蠢いている、茶色くもふもふしたカタマリ。
ベキッっという鈍い音と共に、カタマリがびくりと大きく痙攣する。
ライターの揺れる炎に照らし出された深紅の瞳孔が、きゅううっと針のように縦長に縮んだ。
「わきゃっ! まぶしっ!?」
「うわわわっ――あっ!?」
いきなり目の前に展開された恐怖映像に、ライターを取り落としてしまった。
足元に転がった貴重な光源を追いかけてかがみこんだ俺の目の前に、茶色い何かがどさり落ちる。
こうして世界は、再び真の闇に包まれた。




