2.人(?)は、襲撃されて初めて本性を露呈する
「……えっと、あのな、あのな?」
いきなり肩を落とした俺に、少女がおずおずと声をかけてくる。
「あるはずだった術式が無くて困ってるんなら、自分で組めばいいでしょ?」
「……え?」
え、なにそれ。
まさか、思った通りの魔法を自分で作れる世界なの?
なにそれすごくない?
「ん? 悪魔は精霊の使役に詳しいんじゃなかったか? 好きなだけ新術式を創るといいと思うぞ。わたしも伝承にある“太陽機構の再現”をやってみたかったんだ。こんど教えて?」
「……ごめん、ちょっと何言ってるか分からない」
太陽機構の再現て、起爆に原爆を使わない純粋水爆とかそういうヤツですかね? そんなことが出来るらしいこの世界の精霊――魔法――って、かなり物騒なシロモノじゃね?
そしてそんな物騒なモノをさらっと“使ってみたい”とか“教えて?”とか、かるーく言ってくれちゃう地元の幼女。
うん、どちらにしろこれは早々に精霊の使役方法とやらを教えてもらう必要があるのかもな。下手すると直結で命に関わりかねない必須技能じゃないのか、これ。
などと考察をしていると、少女がまたもやジト目を向けてくる。
「悪魔はよく嘘を吐くって聞くけど、きさまは嘘がかなり下手なんだな」
「はい?」
なんですかこのいきなりの嘘つき呼ばわり。ただの考え事のどこに嘘の入り込む余地があるっちゅーんじゃ。
「じゃあ、きさまのその高度な精霊管制はなんだ?」
「管制ってなんだよ、何もしてないだろ……してない、よな?」
思わず腕を上げて身体を見回してみる。
精霊ってあれだろ? 空飛んでる妖精みたいな、羽根の生えた小さな女の子とか、ほわほわした光の玉から羽だけ生えてるのとか、そんなの。
まあもちろん、周囲は真っ暗で何も見えないんですけどね。
まさか、この暗闇に隠れて密かに間近に迫り来るとか、ないよな?
「……もしかして悪魔は無意識下で制御するのか? 自分でよく見ろ。精霊はきさまに浸透するどころか、表皮にすらまったく接触できてないぞ」
「いやいや、俺の周り何もないからね? 怖いこと言わないでくれよ」
「だから、なにもないからすごいんだってば!」
えーと、つまりどういうことだってばよ?
いまいち繋がらない話に首をかしげると、少女はじれったそうに、さらに顔を近づけてくる。
唇が触れそうとかそういう感じになる前に、俺はなんとか後ずさって、事態が案件化するのを避けた。
そもそも焦点も合わない距離で、会話とかできませんから!
恥ずかしいとか焦ったとか、そういうソレやアレじゃありませんから!
少女は俺の困惑に気付いていなさげに言葉を続ける。
「わたしの素養を試しているのか? 大丈夫だぞ、ちゃんと理解してるもん。魔法とは精霊への命令と相互作用によって発生する事象だ。つまり精霊からの干渉を完全に拒絶しているきさまには、どんな術式も毫ほども作用しない……でしょ?」
いや、でしょ? って言われても。
ええと、つまり要するに、俺にはどんな魔法も一切効かないって事かな?
「そうだぞ! こんな完璧な対魔法結界が悪魔の能力でなくてなんだというんだ。そんな高等な技術、わたしだって持ってないんだから! ましてや、にんげんなんかに絶対できるわけないでしょ!」
「んなこと言われてもさあ……」
それが本当なら、とりあえず命の危険の心配はしなくてよくなった事にはなるが。
とはいえ、アンチマジックか。これが俺のチート能力ってやつなのだろうか。
……なんつーか……微妙?。
そういう搦め手系の能力って、必死こいて考える事ができる人向けだよね。
俺なんかではとても有効活用できそうな気がしないんだけど。
ここは早く式の組み方を習って、魔法を自作する方向でがんばっていこうと思います。かしこ。
「対魔法結界がどれほど凄いものなのか、自分で分かってないのか!?」
少女が噛み付くように顔を寄せてくる。
今まででも十分近かったと思うんだけど、焦点合わない距離にまで顔近付けてくる意味って、何かあるんですかね?
「そんな事はどうでもいいの! っていうか分かっているのか!? 術式が一切効かないんだぞ! 敵の攻撃は全部無効にできるって事でしょ。それだけで、きさまには誰も勝てないんだぞ!?」
んー、それは分かるんだけどさあ。
魔法は効かないって事はつまり、物理で殴れって事だろ。
メカ物アニメとかそこそこ見てたから、こういうエネルギー系バリアの利点と欠点は十分に理解してるんだよね……量産の暁には連邦なぞあっという間だったはずのブツがどういう終末を迎えたのかまで――。
「――っていうか、それはまあ後で詳しく聞くとして。ちょっと先に聞きたい事があるんだけど」
「んあぅ?」
「敵が居るんだよな? さっき確か、ここが避難用洞窟だって言ってたし。何かから逃げてきたけど追い詰められたから、ここで俺を喚んだと解釈するのが手っ取り早いんだけど?」
「え? ……っと、べ、別にまだ、追い詰められているほどじゃ……」
「つまり追われているのは間違いないわけね。何に追われてるの? 理由は?」
まあ、切羽詰ってる感じではないから、追い詰められ度としては『熊に出会って山小屋に逃げ込みました。気配はしないけどこれ以上どこにも行けない、助けて!』って程度なんだろうけど。
「……あの、……言わなきゃだめ? ……か?」
「そりゃダメだろ」
「け、契約してくれたら言う……」
「じゃあ、契約条項に『俺の意思で何時でも契約を破棄できる』って一文を入れてくれる? それならいいよ」
「うっ? うぅー……」
なんかいきなりぐねぐねと身をよじりだす少女。
そんな身もだえしても、ダメなもんはダメです。状況わかんなきゃ俺が一方的に不利益を被る可能性が高いわけで、ここはちゃんとしておかないと。
そんな俺の思考を受けた少女は、観念したように思わしげな口を開く。
「んっと、世界がわたしの敵だぞって宣言されたから……契約してでも、助けてくれる味方が、欲しかった……の」
「……ん?」
世界が敵?
っていうかつまり、誰が宣言したのか知らないが、この子が世界の敵?
こんな、ようやく幼女を脱した程度の、ちっこいのが?
……。
……えーっと。
ちょっと理解が追いつかないので、想定される時系列順でちょっと整理してみよう。そうしよう。
ええと、つまり、なんかしらんけど――。
・周り全部がこの子の敵となる状況になって(未確定)
・戦力としての味方が欲しくて悪魔召喚を行って(半確定?)
・なぜか喚び出されたのは、ただの学生の俺で(確定)
・で、俺には精霊とやらを使役する知識はない(確定)
・でも俺に魔法は効かない? 術式とやらを新造する能力はある?(未確定)
・だが今は『敵』が迫り来ているであろう緊急時で(確定?)
・なのでつまり、今の俺に出来る事ははただの肉壁(ほぼ確定 壁機能は未確定)
――ってこと?
うん、なに言ってるのかわかんないけど、真実はいつも一つ。
俺、肉壁。
……自分、逃げていいっすかね。
ムリですか、ムリですね。わかりみが深いですねこれ。
ほんと無理。色々と無理。パシフィック無理。
※
まあ、なんというか。
真実はともかく、事実がこの子の供述通りなら、いきなり俺に『破滅の魔王』になってと懇願してきた理由も、理解できなくもない。
世界から敵って宣言されたら、そりゃ世界を滅ぼす覚悟の一つや二つくらい決めたくもなるわな。
「てかさあ、世界が敵って、いったい何をしでかしたの?」
「え、な……、なんにもしてない……ぞ?」
「ふーん?」
「ほ、ほんとだぞ。悪魔と違って、我々“------”は嘘がつけないんだ」
「へー、じゃあなんで今、言い澱んだのかな?」
「いきなり聞かれたから、ちゃんと断言できるか思い返してただけでしょ! ほんとに、なんにもしてないってば!」
「ふーん……」
なんか『我々』の後の高音でピーとか言ってる所は聞き取れなかったけど、それでも分かる事はある。
ちょっと話しただけだけど、この子の年齢はほぼ見た目どおりの十歳前後――精神年齢はもっと幼いかも――にしか思えない。
表層意識が繋がっているにも拘らず、向こうからの思考が何も流れて来ないという事は、思ったことを全部そのまま口に出しているという事だ。
『う、うるさいの! 口に出さなくたってちゃんと考えられるもん!』
いや、さっき少しだけ実演してたから、できるのは知ってるって。裏表がない性格だって言いたかっただけだから。褒めてるんだよ?
『うぅー?』
――と、このように、腹芸もまったくできる様子がないので、何かをするタイプだとは考え難い。
ただまあ、無自覚に何かやらかしてしまいそうなタイプではあるので……。
例えるなら「ネット見てただけで何もしてないのにスマホが動かなくなったー」「怪しげなバナーを片っ端から踏むのは『何もしてない』じゃないからね?」って感じだろうか。
……うん、多分こんな感じだろう。この子、すごくアレだし。
「だから! アレって何なのか、さっきから聞いてるでしょ!」
――それはともかく。
「ともかかない!!」
いやここは是が非でもともかかせてもらう。
「がぁうううぅぅ!」
ともかく。
各々の枝葉末節には拘らず、まずは大局を見るべきだろう。
この子が自分の所属するコミュニティ――まさか十歳児(推定)の言う『世界』をそのままの意味で鵜呑みにする事はできない――で何をしてしまったのか、それはこの際考えない。
重要なのはまず、俺たちが生き延びることだ。
俺がではなく俺たちが、だ。ここ重要。
この子はどうか知らんけど、俺はこんな明かりもない洞窟に放置されたら、何もできずに二三日で帰らぬ人になってしまう自信がある。
っていうか、こんな暗闇で一人になるところからまず無理だから。
つまり俺はこの子と一緒にいる必要があって、畢竟この子の敵ともツラを合わせる可能性が高いわけであって、要するに……。
「……そいつらと相対した時点で、俺も自動的にそいつらに敵として認識されるんだろうしなあ」
「……やる気になってくれたのか?」
「えーっと……せめて先に、和解の道なり誤解を解く方法なりを探してみない? とりあえずここは安全なんだろ」
「うん、しばらくは安全だぞ! 赤いあいつはこの場所は知らないはずだし。それに洞窟の入り口は五箇所とも全部、入ってすぐに警戒用の石をいっぱい積んできたから」
「石?」
「うん! あいつが侵入してきたら崩れる音がして、すぐにわかるの!」
なるほど、積み石を鳴子の代わりにしたのか。洞窟内ならよく響くだろうし。
ただむやみに逃げ回ってるだけってワケでもないんだな。
「ちなみにそれって、どうやって外から見えないようにしてるの?」
「え?」
「え、って……入り口すぐに積んだんだよな? 外から見えたら、この奥に誰か居るってわざわざ教えてるようなモンだし、どうやって偽装したのかなって」
「……え?」
ああ、やっぱりこの子アレだわ。
残念な子だ。
※
闇のしじまの中。
うん、しじまは違うわ。俺たちがぎゃーぎゃーうるさいもんな。
ともかく、俺たちの会話しか聞こえないはずの世界に、その音は、最初は小さく忍び込んできた。
遠くから、すごく小さく、カランコロン、と。
次第に少し大きく、ガラガラガラと連続して何かが崩れる音に。
そして、少女の表情が凍った。
「来た……」
「そりゃそうよ」
思わず呆れたような声を返してしまったが、俺だって心の底から平然としているわけじゃない。
超絶この上ないお約束なタイミングとはいえ、まだ何も分かっていないし、何も決まっていないんだから。
敵とはどんなヤツらなのか、装備は、能力は、数や陣容は、この子と同じ種族なのか違うのか、戦うべきか逃げるべきか、会話の余地はあるのか。あまりにも情報が無さ過ぎて、なんの判断もできない。
……いや、この子さっきから“あいつ”って単数で言ってるよな。つまり追っ手はとりあえず一人の可能性が高いってことか。
「う? うん、わたしが見たのはでっかい成体が一つだけだったぞ」
そりゃまあ、こんなちっこいの一人を追い回すのに、多人数はいらんわな。
とはいえ戦うって選択はありえないだろう。
人外少女の能力すらまったく知らないのに、その子が逃げているでっかい相手に、ゲーオタFラン文系学生が一人だけ乱入したところで、戦力の足しになどなるわけもない。それはもう火を見るより明らかだ。
というわけでさっさと逃げるって事で、帰納演算終了。
「よし、とりあえず――」
――逃げるぞ、と言おうとした瞬間。
空気が、いや、洞窟全体が、揺れた。
積んだ石の崩れた音の響き方からして、入り口はそれなりに遠いはずだ。そしてそいつはまだそこにいる。
その証拠に、声質自体は低音の、多重に反響した底ごもるようなぼんやりとした響きだったのだから。
なのに。
ぐおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ
世界全体が揺れるような重低音と、そして振動。
その声が、ではない。
存在自体が世界に暴力的なまでの威厳を主張する。そんな強烈な振動が世界を揺るがし、俺の身体に強制的な震えを叩き込んでくる。
ぱらぱらとそこらじゅうから小石や砂が落ちてくる音が聞こえる。
なっ――これ、咆哮!?
俺は一発で理解した。
所属とか装備とか陣容とか、そういうたぐいの敵などではハナからなかったという事を。
こんな身体全体を侵食していくような振動なんて、ライブで巨大ウーハーの目の前の席だった時以来の体験だ。
つか、音圧どんだけ高いとこんな距離でここまでの強さで届くんだよ、目の前で浴びせられたら多分死ぬぞコレ。米原潜のソナー探信で死んじゃったクジラみたいに! クジラみたいに!
少女との会話で俺はいままで、追ってくる相手は人とかいわゆる亜人とか、そういう存在なのだろう想像していた。だが、侵入してきたヤツはそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。 もっと恐ろしいものの片鱗を味わ――(以下略)。
というかこれ本当に咆哮なのか? 生物がこんな音圧を発振してるのか? それこそ攻撃型潜水艦のソナー並の出力だろこれ。
ここがありがちな中世ファンタジー世界なら、単体で世界をも制圧できそうな、多分そんな存在。少女の敵とはつまり、そういうモノだ。
意味がわからない。
こんな裏も表も持てないような幼い少女――人外だけど――が、何をしてしまったが故に、あんな存在に追われなければならないのか。
……あ、なんかムカついてきたぞ?
仮にこいつ――この子が、何かを仕出かしてしまったとして。更正の余地もなく、あんなのをいきなり嗾ける。ここはそんな世界なわけだ?
つうか、幼女をようやく脱した程度の歳の子が、あの咆哮の主を相手に一人でここまで逃げて来たというだけで、どれだけの艱難辛苦を味わったのか、俺には想像もつかないわけで。
つまり、なんでこんな小さな子が『世界の敵』なのかは知らんけど、間違ってるのは俺じゃないよな? って事だ。
少女に目を向けると、少女は今の咆哮に全身を強張らせてフリーズしてしまっていた。
「おい、正気に戻れ」
その肩に手をかけて上体を起こさせ、ついでに俺も片膝立ちになる。
頬を優しくぺちぺちと叩いてみる。
「なあ早く起きろって。敵は多分まだ入り口付近だけど、早く逃げないと追いつかれるぞ」
「あぎゃ……、……あきゃっ? あばばばばば……みみみみみみつかっちゃっ……あわわわわわわ…………」
こちらからの声は『あいつ』とやらまでは届かないと思うが、いちおう声をひそめて耳打ちしていると、少女の瞳に色が戻ってきた。
とはいえ、完全にパニクっている。こういう時って安心できるように声をかけ続けるといいんだっけ?
「落ち着け、大丈夫だから。あれは脅しだ、まだ見つかってない。安心しろ、まだ逃げられる。……ダメか? ええと、大丈夫だ、俺がついてるだろ?」
「あわわわわわ……ぁ、……ほ、ほんと?」
「お、立ち直ったか?」
「う、うん? うん、だ、だいじょう……ぶ……」
「まあそれだけ応答できれば上出来だろ。よし、とっとと逃げようか」
「……え?」
予想外のことを言われたかのように、少女の目がまあるく見開かれる。
「え、え? まさか……一緒に逃げて……くれるの……か?」
「いや、そりゃ一緒に逃げるだろ。こんな暗闇に俺一人置いていかれたら死ぬしかないって、さっきから言ってるでしょうが」
「……で、でも、まだ契約もしてないのに……?」
なるほどな……事情を言い渋ってたのはこれが理由か。追跡者があんなんだと知られて、見捨てられると思ったんだな。
しかも追跡者本体が追いついてきて、なおさら弱気になっているようだ。
実際のところ、この追跡してきた何者かが俺にとっても脅威であるのか、この子の言っている事が真実なのか、それはわからない。
しかし聞いただけで体の芯から身震いする、至近で聞いたらたぶん死ぬ、そんな咆哮の主とお近づき(物理的に)になってみようなんて、冗談でも思えない。
目の前のこの子を信じていた方がよっぽどマシだ。
つーか、この状況に召喚された時点で、選択肢なんて最初から無かったわけで。
はあ、とため息を一つ。
「ともかくな、俺を喚びだした責任は取ってもらわなきゃならない。わかる?」
「……う、うん」
「よし、じゃあさっそく逃げる具体案の話だけど」
「……え、え?」
「ここは自前の避難用洞窟で、中のことはよく知ってるんだろ? 出入口は五か所あるとか言ってたっけ?」
「う、うん、向こうにもある……」
「じゃあ、そっちから脱出するぞ。ほら立って、すぐに行くよ」
不安やパニックに陥らせないコツは、余計な事を考えるスキを与えない事だ。
少女をせかすように俺も立ち上がって、少女の手を引く。
そのまま立たせようと持ち手を上げると、少女はふわりと浮くように立ち上がろうとしてバランスを崩した。
少女は俺の胸――いやこれ高さ的に腹だな――にしがみつこうとして――。
「わきゃっ!?」
「うおわっ! あぶなっ!?」
――俺はすんでのところで額のツノだけは回避し、少女の突き上げの洗礼を浴びずに済んだ。
危なかった。完全に鳩尾を貫通するコースだったぞ今の。
「あああ危ないでしょ! わたしこんなの初めてだから、慣れてないんだぞ!?」
「お、おお、おう。俺も女の子のエスコートなんて初めてで……なんかごめん」
「き……きさまも初めてなのか……それならしょうがない……な……」
小声でもごもご言う少女が、微妙にぎゅっと抱きついてきた。
こ、こんなハプニングも、パニック抑制には効くのかね。これまで通りの調子に戻ってきた感じが、少しだけする。
そして、そのとたんに、二度目の轟音――。
ぐあおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ
――またもや身体を透過していくような強烈な振動とともに、小石や砂が上の方から降り注いでくる。
「あわわわわ……そうだった、に、逃げなきゃ……」
「ああ、逃げるぞ。この咆哮、さっきとそれほど聞こえ方が変わらないから、まだ十分に遠いようだ。落ち着いて逃げれば大丈夫だから、先導よろしく」
「わわわわかった」
少女はかくかくと首を上下させると、俺から身を離す。そしてそのままするすると離れていき――。
――ん?
「じゃ、じゃあ一度、接続を切るぞ?」
んぇ?
うなじ辺りから何かが抜けていく感触がして。
え、おい、ちょっと待って?
そして、目の前に壁が現れた。
※
は? え? 壁って何?
ほんのりと薄赤紫の光を放つ、白亜の、二十センチくらいの間隔で、横縞模様のある、ゆるやかに向こう側に湾曲した、そんな壁が。
黒に挟まれて、俺が両手を広げるより長い幅で、目の前にあった。
なんだ……これ。……あの子は、まさかこの壁の向こうに……?
「壁とか失礼なこと言うな。それはわたしのおなかだ」
壁の上、頭上の彼方から、少女の声がした。
なんだお腹か。おいなりさんじゃなくって本ッ当によかっ――じゃなくて、これがお腹ってなんだよ。
あれ? ってか、剛毛だかが繋がってないと会話通じないんじゃなかったっけ?
と、うなじに手をやると、いつの間にかまた、うねうね動く触手が刺さっていた。
「だからうねうねとか触手じゃなくって、毫毛だって言ってるでしょ!」
頭上から響いてくる声につられて視線を上げる。
かなりの高さにある真っ赤な瞳と、目が合った。
ああ、そんなとこにいたのかと安心しかけるが、何かが違う。
じっとよく見ていると、背筋を貫くような寒気が、身を凍らせながら登ってくる。それくらいの違和感。
……違う、あれはあの子の目なんかじゃない。
いや、猫みたいに縦長の、真っ赤に光を反射する瞳孔は、確かに一緒だろう。
だが――。
――大きさが、そして輪郭が、少女のそれではない。
いや、人間に近い何かですらない。
闇の中にうっすらと目に映るのは、ほのかな燐光を放つ、巨大な黒い塊。
全身は漆黒の鱗に鎧われ、腹側だけが白い。つまりコレが壁に見えた何かだ。
蝙蝠に似た巨大な翼に、長い尻尾。先の方は闇に溶け込んでいる。
地に立つ比較的大きな後脚に、猫構えで胸部に添えられている小さめな前脚。
こちらの様子をうかがうかのごとく近づいてくる長い首。
額から突き出る一本の長い角。
赤い眼光で俺を睥睨する、目。
そして開かれた口から覗く牙、牙、牙。
なんだ……なんだよこれ。
こんな黒くて巨大な動物、見たことも聞いたこともない。
まるでドラゴンだ。
いや、ドラゴンにしか見えない。
いったいなんなんだこれは。
あまりのデカさに、その存在感に圧倒され、畏怖にも近い感情を抱いて、思わず後ずさる。
「……なんだかすごい色々勝手なこと言われてるけど、いったいわたしを何だと思っているんだ? 侮辱されてるみたいで、いい気分じゃない!」
ドラゴンが不機嫌そうにその長い首を近づけてきて、むき出しにしてきた牙の間からしゅうしゅうと息を漏らす。
目の前に迫る巨大な頭部。俺なんて一飲みだろう大きさの口から聞こえたのは、間違いなく少女の声だった。
「あ、あのさ……」
「なんだ?」
俺の声に、ドラゴンは首を微妙に斜めにする。
間違いない。俺と会話をしてるのは、疑いの余地もなくこのドラゴンだ。
つまり少女の正体は、目の前のこの漆黒のドラゴンだった……っていうのか。
いきなり突きつけられた認めがたい事実と、絶対的な捕食者を目の前にしてしまったかのような強烈な威圧感を前に、俺は絶望に顔を強張らせながら、小さく、こう呻くことしかできなかった。
「……チェンジで」
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